398−2.養老天命反転地について



388−2暗号解読のカギをあげます      ヒロ 
   
 得丸様いつも楽しく拝見してます。 
>自分自身の生活を美術作品にするつもりになって生きる・・・ 

美についてですが、美が生活に近づくと俗物になる、美術館にして
も帝国主義の産物であり、あの中に美があると言うより、芸術家の
苦悩に近いものが多いと思います。 
美の問題をあつかってる芸術家はいないのではないか。美はやはり
キリスト以前のギリシャの世界と思えますが。 

それと、荒川修作ですが日本では、はじめもグローバル化に成功し
た人でしょう、他になにかあるとは思えないです。 
反論と言う気持ちはありません、得丸さんの意見を聞いてみたいで
す。 
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頭での評価ではなく、体で感じてみよう
−荒川修作と養老天命反転地について        得丸久文
   
 1995年10月に岐阜の養老天命反転地ができて、それがひと
月後の毎日新聞の文化欄で紹介されたとき、僕はロンドンに住んで
いました。 
それまで荒川修作という名前すら知らなかった僕ですが、どうにも
その記事が気になって、切りぬいていました。 

年明けに毎日新聞社から「養老天命反転地」の写真集が出版された
ときには、東京からその本を取り寄せました。 
そして3月に東京に出張したおりに、同行したイギリス人を騙して、
無理やり反転地に日帰りで連れて行きました。

最初は「なんだ、こんなものか」と思っていたのですが、極限で似
るものの家の中を、使用法にしたがって何回も出入りしているうち
に、いろいろな発見やおもしろい経験ができ、それ以来養老天命反
転地の虜になりました。 

荒川修作を評価するかしないかという議論の前に、一度岐阜の養老
天命反転地や、岡山県奈義町の奈義町現代美術館を訪れることをお
勧めします。それに値する作品だと思います。 

僕は、美術についてはまったくの素人ですが、美という概念の存在
、美という概念がひとり歩きすることには批判的です。 
心を空っぽにして、無心に作品と語り合うことが一番大切なことだ
と思っています。僕の美術館めぐりはいつでもそうです。 

美術館自体の存在についても疑問をもっていますが、ときどき心に
響いてくる作品に出会うことがあるので、まったく行かないわけで
はありません。 
僕以外で反転地に行ったことのある人はいないの? 
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Re:頭での評価ではなく、体で感じてみよう −
 荒川修作と養老天命反転地について        BABEL

> 僕以外で反転地に行ったことのある人はいないの? 
得丸さん、私は1度あります。 
岐阜の養老反転地へ行ったのは、晩秋でした。「頭がぐにゃぐにゃ
になるから行ってきなさい。」と、工芸に足をつっこんでいるおば
に勧められて、でした。 

以前、荒川修作氏とどなたか(演劇評論家だったかな)の対談記事
を眺めた時は、これ、ギリシャ語で言われても変わらないや、とい
うぐらいわけがわからず、頭の上に巨大なクエスチョンマークが立
ちましたが、反転地は、荒川氏の「意味のメカニズム」がわからな
くても、氏の空間を体験できる貴重な場だと思います。 

ふだん、私たちは「まっすぐ立ったり」、「お風呂に入ったり」、
「電話をかけたり」、「キッチンの棚の戸を開けたり」とあたりま
えのことをあたりまえのこととして生活しています。 
日常生活には、意識することを放棄して、様式化してしまった意識
活動という局面がないでしょうか。 

反転地には、このあたりまえのことを根底からひっくり返してしま
う力があります。荒川氏の難解だと言われる論について、私は概念
としてはほとんど理解できません。 
氏の生の言葉から感じることができるのは、フンデルトバッサーの
ような笑いよりは、むしろ孤独の悲しみと無理解への怒りですし。
すみません余計なことでした。ただ、反転地で氏がねらったことの
一つは、ふだん私たちの意識に上らなくなっている重力の作用を、
傾斜・姿勢・視野の制限など五感を無理やり働かせることで再認識
させようとしたのでは、と思うのです。 

反転地に長時間いても、姿勢を正そうとする限り、体は疲れ、不安
が広がる一方です。反転地は、慣れを簡単には許してくれないので
す。 
あの中の暗い片隅で、私は偶然、親を見失ったらしい男の子と互い
に這った格好で鉢合わせしました。その子の目は、私が見知らぬ大
人であることを知ると(コワソーなオバサンとは書きたくない、、)
さらに不安になったのか、やおら、「お父さん!お父さん!どこ?
!」と大声を上げはじめました。 

すぐにどこか外から反応があり、その子は、大人には信じがたい狭
いすきまを這い出して壁の外へと、ずり上がっていきました。(地
面が傾斜しているのでこんな表現になりました) 
重力を再認識させられ、体の平衡感覚を崩された私たちは、日常を
、あたりまえのことを根底からひっくり返され、不安になります。

氏は、「さあ、君はこんなに無力になっただろう。考えて、考えて。
次にどうするの?」と突きつけたいのかもしれません。 
なぜなら、日常が日常でなくなった時、私たちはこの新しい状態に
意識活動で対応せざるを得ない。 
そこに新しい意識活動が生まれるわけです。例えば、あの男の子の
ように問いを発するという形で。 

そんなふうに突き詰めてみると、そりゃあ運命だって反転できるか
もしれない、つくづくいいネーミング(天命反転地)だな、と思い
ました。 

ちなみに、反転地に行かれる時は、ぜひ養老の滝にもまわられるこ
とをお勧めします。たいへん美しい所で、反転地でぐにゃぐにゃに
やられた体と脳を癒してくれました。 
音なく無心に散り続ける楓葉に、「あなたたちは一生懸命生きたか
らそんなにきれいなの?」と問いかけたくなったほどでした。 

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