388−1.ワヤワヤ、南アフリカ



(Tより)
得丸さんの南アフリカ状況のシリーズ物を連載します。
南アフリカ3部作で
「アパルトヘイトの終焉」が94年2月の作品
「民主化の声に、、、」が同年4ー5月の作品
「ワヤワヤ」は97年の作品です。
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ー 水面下で進む?植民地解放闘争 その1
                  1997年 得丸久文

「かつて移民鉱山労働者にとって、職は保証されていたに等しかっ
た。ある契約が終わると、彼らは『復職日』の記入された『就労記
録』をもらって妻と家畜の待つ家に帰っていった。復職日がくると
最寄りのアフリカ人雇用局事務所に出頭し、ヨハネスブルグ行きの
列車に乗せられるのだった。

 ところが昨今は鉱山も機械化されてきており、未熟練労働力は削
減され、より少ない人数しか雇わなくなった。今や『就労記録』に
は『復職日』が書き入れられていない。ボスは必要な時に呼び出す
よと約束してくれるが、しばしばそのような呼び出しは来ない。

 労働者たちは問う。『なぜなぜ(waya-waya)』どうしてこうなるの
。クルーフ鉱山の労働者たちは『なぜなぜ』を戦っていた」 リア
ン・マラン著「我が裏切り者の心」より(Ryan Malan, "My Traitor's
Heart")

注:waya-wayaはズールー語で「行け行け」という意味だが、鉱山労
働者たちの隠語では音が似ているためにwhy-whyという意味でも使わ
れていた。片手の親指と人差し指を開いて自分のあごにあてて、
当惑顔で「わやわや」と言うのだと、ベン・スコサナ氏は示してく
れた。

はじめに
 3年半前の南アフリカでの全人種参加による制憲議会選挙の前後
に、私はロンドンで発行されている日本語情報誌「英国ニュースダ
イジェスト」上で「アパルトヘイトの終焉」という8回連載の記事
を書いた。(原稿段階では9回連載を予定していたのだが、日本人の
名誉白人問題を扱った「不名誉な名誉白人」は大幅に削除されてコ
ラムに入れられたのだった。)

 また、選挙結果が明らかとなった時点で雑誌「技術と人間」
(1994年6月号)に「アパルトヘイトの終焉:『民主化』の声に消され
た南アフリカの『植民地解放』」という記事を掲載してもらった。
私の歴史観は以下の通り。

 南アフリカのアパルトヘイトの本質は、(国際的)人権問題ではな
く植民地体制だった。人権問題であったなら、人権抑圧状況が解消
されれば「めでたしめでたし」と平和が訪れるはずだが、植民地問
題だから植民地時代の負の遺産を清算しないことには真の平和は訪
れない。

 ことの発端は、諸外国から近代国家として認知されながらも、
国内は憲法に人権規定のない植民地的な社会構造のまま1910年
に南ア連邦が誕生したことにある。当時の国際社会を構成していた
のが欧米の植民地帝国ばかりだったから起こり得た時代的産物だ。
同じことを南ローデシアが「一方的独立宣言」として1965年に
試みた時は国際社会の受け入れるところとはならなかった。

 以後南ア連邦は近代国家の枠組みの中で植民地体制を維持すると
いう二重人格的な国家運営を続けることになった。植民地体制と近
代法治国家のインターフェイス(整合性)を取るために、複雑な人種
差別法制がパッチワークのように構築された。

 南アでは300年以上に及ぶオランダとイギリスの植民地体制の
もとで白人が黒人の富を奪い続けた結果、豊かな白人と貧しい黒人
という階級が人為的につくられた。植民地体制下で黒人は、教育や
保健医療、雇用機会や居住環境、土地所有といった生活のあらゆる
局面で権利を奪われ差別的な地位におかれ、白人の奴隷のようにこ
き使われてきた。

 第二次大戦後、アフリカーナ白人を支持基盤とする国民党が政権
につくと、国際世論の非難をかわすために、差別ではなく区別だと
、「分離(アパルトヘイト)すれども平等(separate but equal)」と
いう19世紀末のアメリカ最高裁判決を援用して言い抜けようとし
た。その意に反してアパルトヘイト(分離)という言葉が人種差別の
代名詞となって世界に流布したことは、歴史の皮肉である。この分
離政策が1948年に始まったことで、人種差別も1948年以後
のものであると錯覚されやすいが、人種差別は植民地体制と表裏一
体をなして、オランダ東インド会社がケープタウンに補給基地を設
けた17世紀中葉から切れ目なく続いていたのである。

 1994年一人一票の選挙制度の導入と黒人政権の誕生によって
アパルトヘイトは終ったと喧伝された。たしかにアパルトヘイトと
呼ばれた近代国家の枠組の中で人種差別を合法的に行うための一連
の法律装置は撤廃された。また、黒人多数支配への移行が平和裏に
行われたこと自体は喜ばしいことである。

 だが、それらの変化は、植民地体制自体の清算ではない。300
年以上にわたる植民地体制の中で少数の奪い続ける層(白人)と大多
数の奪われ続けた層(黒人)とに社会が分断されてきた歴史的事実、
その結果今この国が少数の富裕層と大多数の極貧層に分断されてい
る事実には一切メスを入れないからだ。

 過去の清算なしに「これからはお互い平等に暮らしましょう」と
いうのには無理がある。植民地時代に作った格差をできるだけきち
んと平準化しないと、人種の融和は生まれず、社会の平和と発展は
ない。これが当時ロンドンで南ア情勢を見ていた私の見解だった。

 ナポレオン戦争以後ケープ植民地を領有し、南ア連邦を独立させ
た南アフリカ法も1909年に英国議会で成立した法律であるよう
に、英国はもっとも南アに近い外国である。それでも(それだから
こそ?)私の見解は誰とも共有することができなかった。

 自分の分析がどこまで正しいものであったかを確かめるために、
私は3月末から4月初めの10日間、黒人政権成立後3年の南ア共
和国を旅した。学生時代の1980年8月に旅して以来、17年ぶ
りの南ア訪問である。

ー 水面下で進む?植民地解放闘争 その2

1 ケープタウン  前半
1−1  南ア航空のケープタウン行き直行便は、夕方ロンドンを発
ち地中海とサハラ砂漠を超え、アフリカ大陸の西岸に沿って9900
km南下する11時間の夜間飛行。旅行中に欧州が冬時間から夏時
間に変わり、時差は行き2時間、帰り1時間、時差ボケはない。

 国営の南ア航空では黒人の優先採用制度がきちんと採られている
のか、客室乗務員の半数が黒人とカラードだった。が、食事の後白
人たちが免税品を販売している時に、黒人とカラードの乗務員は、
客の飲み残しのワインを飲んだり、余った客用の食事を食べたり、
ギターを弾いて歌ったりと、モラルが低く仕事熱心でない。それと
もこれは社内教育が不十分なためか、白人が大事な仕事をかかえこ
んで渡さないのか。

 機内をひと歩きして見ると、黒人乗客はエコノミー座席の一番前
に老婦人が一人いるだけで後は全て白人のようだった。

 一階後部ドアに腰かけて黒人の客室乗務員の男女がおしゃべりし
ていた。私に「トイレはこっちだよ」と親切に教えてくれた男に対
して「黒人の乗客よりも黒人の乗務員のほうが多いですね」と私が
口にすると、彼は「南アは白人と黒人の国だから、黒人がいて当然
です」という。

「そういう意味ではない。乗務員にとられている優先採用制度を乗
客にも適用すべきではないかと、ふと思ったのです」というと、彼
は「私たちは政治について語ることを禁じられている」と言ってそ
っぽを向いた。

 アパルトヘイト時代を思い出させる時代錯誤な台詞。自分さえい
い思いをすればいいと思っているのか。「これは政治ではない。私
が見て思ったことをそのまま口に出しただけだ」と言って私は席に
戻った。

1−2 ケープタウンでは大学時代以来のアフリカ仲間で3年前か
ら当地に住んでいるN氏が空港で迎えてくれ、白人居住区の一画に
ある家に泊めてもらう。部屋でひと寝入りして、午後から希望峰と
ペンギンの泳ぐ海岸の見学。

 N氏が現地受け入れ支援をしていた日本からの小中学生の研修グ
ループ一行約20名がたまたま同じ時期に来ていて、彼らに合流し
た。

 到着した晩N家で、日本人の留学生やアフリカーンス語の研究者
を招いて夕食会を開いてくれた。ケープタウンは日本のマグロ漁船
の補給基地になっており、陸揚げされたばかりのマグロの頭が手に
入りオーブンで丸焼きにし、ケープワインを飲んだ。

 当地に住む彼らの目から見た南ア事情は、どちらかというと悲観
的。彼ら自身、黒人となかよくなりかけて金を無心されたとか、ど
こかで脅された経験があるようだった。個人的な体験の次元を越え
ても、一般的に白人黒人間でも融和よりもむしろ不信が高まってい
るように彼らは感じていた。

 食事が終わって、黒人居住区の様子を見に行こうと訪問客たちを
誘うが、誰も行ったことがないという。そんなところに行くのは「
命知らず、盲蛇に怖じず」とまでいう彼らを説き伏せて、とりあえ
ず市内に一番近いランガの入り口まで行ったが、中は「危険だ」(
正確には「恐い」というべきではなかったか)というので引き返し
た。夜11時を回っていたのでやむをえないか。

 その後午前1時すぎに市内中心部のディスコをのぞいてみた。踊
っている黒人に「居住区に行きたいんだけれど、連れて行ってくれ
ない」と聞いたところ、「そんなところ知らない」と言われた。
六本木のディスコで、山谷の話題を出すような野暮だったと反省。
帰宅は午前3時過ぎで、当然N家の玄関は鉄格子で固く閉ざされて
おり、学生のアパートに雑魚寝する。やれやれ初日から遊び過ぎた。

1−3 二日目は日本からの小中学生と一緒に早朝からケープタウ
ンの象徴テーブルマウンテン登山。ロープウエーが架け替え中で歩
いて登るしかなかったのだが、白人のガイドを道案内につけ、山の
自然と海からの風を楽しみ、さわやかな気分になる。白人観光客に
混ざって黒人たちのグループも何組かすれ違う。

1−4 下山後、N家で一休みしてから、ケープタウン中央駅にあ
る黒人タクシー乗り場に連れて行ってもらい、乗り場の様子をひと
りで一時間ほど眺めていた。

 15人程度乗れるミニバスが、近郊のカラード居住区、黒人居住
区と市内を結ぶ主要交通機関となっている。行き先別にプラットフ
ォームが20ほど並んであり、それぞれに空のミニバスが行列して
いる。一番前に停車しているバスに客が乗り込み、満員になる都度
出発する仕組み。おんぼろバスを黒人たちが利用している姿は昔の
ままで何も変わっていない。

1−5 その晩は、ポートエリザベスに進出している日本のタイヤ
メーカーの駐在員ご夫妻がケープタウンに遊びにきていて、N家と
中華料理を楽しみ、食後は黒人政権成立後に新しくできた「ウォー
ターフロント」というショッピングセンターをそぞろ歩きする。
結構広い。地下駐車場にはピカピカの高級車が目立つ。車で来る客
は金持ち層なのだろう。

 中はどこにでもありそうなショッピングセンターだが、白人、カ
ラード、黒人が入り交じって歩いているので、ほっとする。人種差
別を意識しない設計思想が反映されているのだろう。この国全体を
人種融和の思想に基づいて再設計する必要があるのではないか。

ー 水面下で進む?植民地解放闘争 その3

1 3日目 ケープタウン   

1−6 3日目は、関西を基盤にする市民運動団体「第三世界ショ
ップ」の駐在員Mさんの車で黒人居住区訪問。黒人・カラードの居
住区はケープタウンの東郊外の荒涼とした地域に広がるのだが、ま
ずは一番近いランガに入る。

 車で一回りする。もともと黒人居住区には「マッチ箱」と呼ばれ
る安普請で画一的なつくりの市営住宅ばかりだった。一軒あたりの
敷地面積が100平米以上あり、部屋数も4つあるので、広さだけ
なら東京よりましだが。

 街を回ってみると、マッチ箱の他に新しくて立派な家も目につく
。後で聞いた話だがこれは黒人が市営住宅を勝手に自力で建て替え
たものらしい。建設工事現場の力仕事に携わってきたのは黒人だか
ら、彼らは家を建てる技能を身に着けており、個人ベースの契約で
建てているのだという。一方でホステルと呼ばれる単身者用住宅や
廃材でつくったバラックのような劣悪な住宅も多数あった。

 黒人居住区は、人間の住む場所だと思われていないためか、家の
ほかに何もなく、安らぎを感じる場所やものがない。「都市に出稼
ぎに出て来る健康な黒人が一時的に住む」という前提で街づくりが
行われたため、子供や老人や病人のための設備もない。実際はそこ
で生まれたり死んで行く人もいるのに。冷徹な建前が現実を踏みに
じってきた。

1−7 訪れたのが丁度復活祭の日曜日の朝で、男は白黒、女は紅
白の祭礼服に盛装して歩いている姿が目につく。教会で特別のミサ
があるのだろう。温和な顔の中年女性を呼び止め、教会でコンサー
トがあることを確認し、我々も聞けるかと訪ねたところ、心よく教
会の司祭に紹介してくれた。

 ここはランガ・メソジスト教会。500人程度収容できそうな建
物は満員。小学校の体育館を小さくした感じの飾り気のない建物。
祭壇のほうに聖歌隊が陣取る椅子や踏み台がしつらえられている。
我々が案内されたのは、一般信徒の席より祭壇寄りに置かれた特等
席。後でわかったが、隣に座っていたのは司祭の父上だった。

 まだ聖歌隊が入場する前の朝10時に一般信徒席の一番前列に陣
取った7、8人の男たちが音頭を取り始めてアカペラ(無伴奏)の歌
が始まる。徐々に他の信徒たちも立ち上がりその場で踊りながら歌
の輪に参加すると、教会の中はゴスペルの渦に巻き込まれる。指揮
者もいないのにどうしてこんなにきれいにハモれるのと思うほどき
れいなコーラスだった。

 その後聖歌隊が入場し、祭壇と一般信徒席が一体となって、次か
ら次へとゴスペルが続く。途中でいくつか説教が行われた。歌も話
も英語ではなく理解できなかったが、リズミカルな熱の入った話で
、意味もわからず聞いていて楽しかった。

 コンサートは4時間続いた。途中で何度か、「もう十分楽しんだ
」、「ここを出よう」、「おなかが減って死にそうだ」というM氏
の哀願を「君は若い」、「それは失礼にあたる」、「待て、好機を
逃す」と拒み続けて、最後まで付き合った。コンサートが終わり礼
を言って辞そうとすると、「みんなと食事をしていきませんか」と
声をかけられ、司祭の家で大ごちそうを頂いた。

1−8 ランガを辞して、2、3km東にある黒人居住区ググレツ
に行った。住宅や街並みの様子から判断すると、ランガよりも生活
水準は低そうだった。

 居住区内を車で一回りすると、原っぱに建てられた大きなテント
の中から、南アの女性歌手ミリアム・マケバ風のよく通る女性の声
で歌が流れ出していた。歌謡ショーでもやってるのかしらと車から
降りて近寄ってみると、ここも教会だった。40m四方のテント屋
根を張っただけの仮設の教会だが、ざっと見渡すと2千人ほど人が
集まっていた。服装はばらばらで、ランガの信徒より貧しい風だっ
た。 若い男が近づいてきて、我々をテントの中に導いてくれた。
ここは「サム主教の力のゴスペル教会」というらしい。

 ステージは土に直接板を渡しただけだったが、その真横の特等席
に座っていた人をどかして、彼は私たちを座らせてくれた。目の前
でマイクを持った女性が歌いまくっている。

 歌の後は手かざしだ。奥で待っていた信者が一列になってステー
ジに上がって来ると、男がひとりひとりの頭に手をかざして、なに
やらお祈りの言葉をかける。ひとりの女性は手かざしをしてもらっ
た瞬間に卒倒し担ぎ出されて行った。

 詳しいことはわからなかったが、ランガでもここでも我々は日本
からの客としてみんなに紹介された。いろいろとお世話になったこ
とへのお礼も兼ねて、笑顔を振りまき手も振った。

1−9 南アのキリスト教会の活動について深くは知らないが、各
地でテント張りの教会を見かけた。熱心な信者が増えている模様。

 ここの教会は、死への不安や煩悩の炎に心を悩ます人が、想像や
言葉の上でしかない神の国や死後の世界について話を聞いたり懺悔
を行うことによって、一人よがりの気休めを得る場所ではない。む
しろ、生活の豊かさや安定性や娯楽から悉く疎外され、つかの間の
安らぎすら許されていない人々が、疲れた体や傷ついた心を癒すた
めの場所として極めて具体的な役割を担っているように感じた。

 ここには厳かな祭礼の雰囲気も、目を見晴らせるステンドグラス
も、説教じみた聖人像も、我々の罪を肩代わりして痛々しくはりつ
けにされた人の像も、その母の慈愛にみちた顔もない。矛盾を内包
した教義や説教めいた脅し文句もない。
楽器もなければ、ゴスペルコンサートを記録するための録音機材も
カメラもない。ないないづくしの会堂の中で人々が確かにできるこ
とは、今この瞬間に自分たちの肉声を発することだ。

 この徹底的な無所有のおかげで、南ア黒人は外部の何ものにも依
存することなく、自分たちの声と体だけで幸福を実現する術を身に
つけた。教義や理念などの概念を媒介とせずに、直接人々の心に届
き、それをいたわり、癒し、元気づける、愛の力を発揮するものを
生み出した。

 幸いなるかな貧しき人よ、汝らは地上の幸福をことごとく否定さ
れることで、外部の何かに依存する必要がなく、誰も否定しえない
絶対的な地上の幸福にめぐりあえた。

1−10 教会を出て、車で近くの黒人・カラード居住区を回った。
 17年前にケープタウンに来た時には、ひとりでレンタカーを運
転して、クロスロードというスクオッタキャンプ(不法居住地区)に
迷いこんだ。ここは何もない空き地に掘っ立て小屋が多数建ってで
きた「街」で、広場の真ん中に水道栓をひとつ見たほかは、電気も
下水もないようだった。

 スクオッタキャンプは、その後ますます増え続け、今やニューク
ロスロードやカエリチャをはじめとして、古くからある居住区やス
クオッタキャンプの近隣の不毛の殺伐とした砂地の上に大量のバラ
ックが建っている。復興開発計画(RDP)のおかげか、そのような
街でも電話や電気や水道や下水処理設備が整備されつつあるようで
、電線が配線されていた家も多くみかけたし、そこいら中に洗濯も
のが干されており、トイレもちゃんと整備されていて異臭はなかっ
た。(路上や公園の緑地で大小便をしていたインド・カルカッタの
風景や街の匂いとは大違いだ。)

1−11 新政権になって、黒人やカラードのための住宅建設が推
進されているが、建設中の家はどれもコンクリートの物置小屋のよ
うな心のこもらない安普請のひどいものばかりだった。部屋数も2
つしかないものが多く、植民地時代に建設された「マッチ箱」の方
が広くて気がきいているという批判も込めて、人々は新しい家のこ
とを「半マッチ箱」と揶揄している。

 これは全国的な傾向であり、どの街に行っても新しく建設中の公
営住宅は、むき出しのコンクリートの壁に狭い部屋がひとつかふた
つあるだけの殺風景なもの。契約発注を行った街当局が契約に慣れ
ておらず、見積りを値段だけ考慮して選定したことも原因だという。

 ヨハネスブルグに移動した後に訪れた、ヨハネス南方郊外のシャ
ープビルという街(1960年3月に平和的抗議行動を行っていた
民衆に警察が発砲して虐殺事件が起きた街)では、家の質があまり
に悪いので、ウィニー・マンデラ(ネルソン・マンデラの前夫人)
が人々に拒否をよびかけたために、建築途中の壁だけの状態で放置
された家の一群を見た。ウィニーはこのように大衆の気持ちを汲ん
で機敏に行動するポピュリスト(人民派)の政治家であり、いまだに
人気が高い。

1−12 植民地体制・アパルトヘイト体制下では、集団地域法(
Group Area Act)などの法律によって人種ごとに住むところが分け
られていた。この区分けは、かなり細かいらしく、カラードでも肌
の色の濃い薄いによって、カテゴリーが違っていたそうだ。

 一旦このように人種別の街づくりをしてしまったら、それも片や
住み心地に配慮しもともと緑豊かで庭も広く金もかけた街とし、か
たや荒涼としていて草も木も植わっていない砂地で通勤にも買い物
にも不便で娯楽も商店も社会資本もなくただ寝るだけの街としてし
まったら、両者を一体化し融和へと導くことは大変に難しい。

 少数の大富豪と大多数のド貧民が分かれて住むべく街が存在して
いる。人種・階級ごとに居住区が別々である現状から判断するかぎ
り、アパルトヘイトは終わっていない。これをどのように融和へと
導くか、無階級社会日本の都市計画家・建築家にぜひ南アにおいで
頂き、問題解決のための知恵を絞ってもらいたいものだと思った。

 もちろん人種別に居住区を定めた法律はなくなっているから、成
功して金をためた黒人が徐々に白人地域に移り住んで来ている。市
場原理にしたがって白人黒人が融和して住む時代を待ち望むという
可能性がないではない。しかし現実には黒いしみ(Black Spot)が
つくと、純粋な白人地域を目指して引っ越す白人が多いという。
圧倒的に黒人の数が多いこの国で純粋白人地区が消えるのは時間の
問題だ。その時がきたら白人たちはどうするのだろう。

 仮に白人地域に黒人が多数移り住んでも、大富豪とド貧民として
区画された街づくりがそのままでは、豊かな黒人と貧しい黒人の間
の格差が残る。アパルトヘイト体制下では原則的には全ての黒人が
ともに居住区に住んでいたのだ。その平等の精神が崩れていくのは
もったいない。

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