385−3.父親の悩み



BABEL Mail  2000/12/12 14:37 
 YSさん
> 出てきたら出てきたで大変ですよ。 

子どもが産まれた後、どうすればいいのか何もわからないのです。
どうぞよろしくご指導ください。 

>一時期我家のかみさんも育児ノイローゼになりかけたことがあり
>ました。私の方は家にかける電話の回数が増えるぐらいで会社を
>休むわけにもいかず、ここでもほとんど役立たずでした。 
>幸運なことに我家の場合は、くっついてきたのか、転勤なのか今
>だよくわかりませんが、たまたまかみさんの両親が近くに引っ越
>ししてきたので助かりました。 
> 
> でも今はそうではない家庭がほとんどです。 
> 近所の方に聞くと皆さん同じようなことがあったようです。 
> 自分だけが特殊だと思うと余計に辛くなるみたいですね。 
> かみさんは早いうちに相談しておけばよかったと言ってます。 

時々YSさんのコラムを拝見した限りでは、理性の勝った冷静な方
で、常に確信に満ちておられるという印象が強かったのです。 
ですから、夫やお父さんとして悩まれることもおありなのかと知る
と、びっくりしました。 
反面、どこか共鳴も覚えてしまいます。(ずいぶん失礼な物言いで
すみません) 

> 私が小さな頃は確かに近所にやたらと世話好きのおばちゃんがい
>ました。今はこのおばちゃんが姿を消したようです。 
> みんなバラバラになってしまったんでしょう。 
> そしてバラバラは家族の中にも侵入しようとしているようです。 
> 現在父親としてバラバラ現象に立ち向かうべく入念に対策を練っ
>ています。 
> どなたかいいアイデアありません? 

家族の分断は、家庭の外からも内からも起こり得るし、どの家に起
こっても不思議はないということでしょうか。 
このような問題は、常に弱い者に真っ先に矛先が向く気がします。
クローズアップのために、片親の家庭や障害児を持つ家庭で考えさ
せていただけますか。 

母(父)子家庭や障害児を持つ家庭で深刻なのは、経済問題(健康
で文化的な最低限度の生活がとても達成できない程度の行政サービ
スはあるようなので)というより、むしろ、自分たち(親)が倒れ
たりいなくなった後、我が子を安心して社会に託すことができない
、弱者たる我が子の居場所をなかなか見出せない点にあるように思
います。
弱い立場の家庭どうしで支えあう個人レベルのネットワークは、い
くつも存在するようですが、町内会レベル、市町村レベルのネット
ワークとなると、そううまくは機能していないのでしょうか。 
弱者の家庭は、ひきこもりがちですし(この点は、欧米では少しち
がうように思います。デンマークにお住まい(?)のどばしさんは
どう思われますか?)、ごくふつうの日本人家庭のお父さんやお母
さんは、彼らに関わりにならないことが「相手を尊重する」と考え
がちです。 

私は、自分のまわりに無関心であることが、最も恐ろしいと思いま
す。片親家庭や障害児を持つ家庭の苦悩は、とても他人事とは思え
ません。いつか、自分の家庭・子どもにもふりかかりうる問題とし
て、彼らの苦悩や痛みを感じてしまうのです。
(仮に感じても、頭脳がないところが情けない限りですが) 

サイエンスの世界では、Plan−Do−Seeがある指針になり
得ますが、人や社会の世界では、Feel−Think−Doの方
がより適しているような気がします。(吉田松蔭なら、「仁・智・
勇だろ!」と叫びそうですが)ただ、私のような一般人には、せい
ぜい町内会レベルでDoを実践することしかできません。 
もっと高度な専門技術の必要なレベル(地方公共団体、国、国際レ
ベル)は、その道の専門家にお願いするしかないです。(このコラ
ムで分析しておられるように) 

では、ここからは町内会レベルのアプローチです。(国際戦略とは
見事なまでに遠いですね、、、このBBSに書きこむ自分にあきれ
ています) 

Feelでは、自分のごく身近なところにセンサーをはります。
このセンサーには新聞もTVも要りません。自分で歩き、見たもの
で充分です。日頃忙しいお父さんなら、お母さんが見たもの、お子
さんが見たものがそのままセンサーになるのでしょう。 
この段階で、父や母、子の感性を家庭内で多少なりとも共有できな
いでしょうか。 

Thinkでは、感じたものを自分の頭の中で位置付け、方向づけ
ます。例えば、困っている人を見たのなら、その人が何を求めてい
るかを考えるとか、そのために自分がどの範囲で関われるか判断す
るとか。 
私はこの段階でおおよそ難しいことは考えられません。宮沢賢二の
詩のレベルまでです。 
この段階で、父や母、子の価値観を家庭内で多少なりとも共有でき
ないでしょうか。 

Doでは、文字通り体を動かして何かします。例えば、駅のホーム
を歩いている盲人の人をせめて車内までエスコートするとか、道端
でわんわん泣いている子どもにしゃがんで声をかけてみるとか、
公園でいじめっぽい風景を見たら、こらーっと怒鳴ってみるとか、
実際に書いてみるとバカみたいですね。 
(実は、実際に私が働きかけているのは小学生までです。コワイ中
・高生以上にDoするのは、合気道でもやった後にしようと思って
います。)私の子どもが産まれたら、自分の子の周りにいる子も
一緒に公園につれていって遊ぶ、本を読む、昔話をしてみる、とい
うことも考えられるかもしれません。 

>私が小さな頃は確かに近所にやたらと世話好きのおばちゃんがい
>ました。 
このようなおばちゃん的行動を、違和感も感じつつやろうとしてい
るのでしょう。 
自己満足や自分の中の偽善に、よくぶつかります。 
それでも、ごく身近なことから始めることで、私は次世代へ社会を
受け渡す手伝い=すべての親が安心して子を託すことができる社会
を少しでも作りはじめられないか、と思うのですが。 
==============================
Re:父親の悩み どばしようこ

 こんにちはBABELさん 
>弱い立場の家庭どうしで支えあう個人レベルのネットワークは、
>いくつも存在するようですが、町内会レベル、市町村レベルの
>ネットワークとなると、そううまくは機能していないのでしょうか。 
>弱者の家庭は、ひきこもりがちですし(この点は、欧米では少し
>ちがうように思います。デンマークにお住まい(?)のどばしさん
>はどう思われますか?)、ごくふつうの日本人家庭のお父さんやお母
>さんは、彼らに関わりにならないことが「相手を尊重する」と考え
>がちです。 

母(父)子家庭や障害児を持つ家庭の例ですが、もちろん、いろい
ろ個人差はあるので、いちがいには言いきれないのですが、まず
「母子・父子家庭が弱者の家庭」である、という意識があまりここ
にはないように思います。それは、前にも書いた離婚する夫婦/同居
していて別れるカップルなどがあまりにも多すぎて、何がなんだか
わからなくなっているせいもあります。 

いちおう、社会的カテゴリーには「未婚の母・父/嫡出・非嫡出」 
などという区別もあるようですが、それが法的に区別されて 
いるわけでもないし、一般の人の口にそれらのことばが出ること 
もめったにありません。子どもの権限は、どんな場合でも法的 
には平等なので。それに、デンマークでは大学まで教育費は 
無料なので、両親の負担もある程度は軽いのかもしれません。 

障害児の場合も、障害の重さにもよりますが、障害児をあくまで
「障害児」として見る考え方もありますが、障害も「個性」とみな
してできるだけふつうの意識のもとに育てることが多いように思い
ます。小中学校でも、障害をもつ子どもには特別の補助をつけて普
通学級に参加させていることが多いように聞きました。 

障害をもつ人たちも、できる限り人に頼らず積極的に街に出ている
ことが多いように思います。 
もちろん、車椅子の人や乳母車を押している人がバスに乗ろうと 
していたら、周りの人は積極的に手を貸します。 

「障害児」ではないのですが、前ラテン語のコースで知り合った 
クルド人のともだちがいて、その人は事情で両手が義手なのですが、 
今障害者のことを考えていて、「ああ。。彼って障害者だった。。
。」と思いついた感じです。彼との会話で「障害」という単語が出
てきたこともなかった。 

デンマークでは町内会のような単位での活動は、あんまりないです。
介護などの実際的なことは「市」にあたる機関が請け負います。 

でも、忘れてはならないのは、「弱者」と思われている人たちも、
人を選ぶということです。彼らも、自分を助ける人が誰でもいいと
は思っていないと思います。 

なんだか混乱してきましたが、一回ここで送信します。 
==============================
 町内会レベルのアプローチ=国際問題です YS 
   
 女性専門の下着屋さんですか。これはなかなか大変ですね。 
私の場合たとえ子供を連れていったとしても誘拐犯か変態親父に間
違われる恐れがあるため少し考えさせて下さい。 
待てよ。親子揃ってミッキーマウスのトレーナーを着ていけば大丈
夫かな? 

ところで町内会レベルのアプローチは、これからは極めて重要な
国際的な問題になりますよ。 
まだ気付いている人が少ないだけです。いいえ海外では急速に議論
が高まっています。 
地域コミュニティの崩壊は世界的な規模で深く進行しているからです。 
私が今もっとも注目している方がいます。アメリカカリフォルニア
大学バークレー校の『持続可能な資源開発センター』研究員のベル
ナルド・リエターです。 
著作『マネー崩壊』(日本経済評論社 2000年)のなかで次の
ように書いています。 
                          
♪人類学は、まず、『コミュニティーは必ずしも「距離的近さ」か
ら生じるものではない』ことを発見した。これは、大都市に乱立す
る高層アパートに必ずしもコミュニティが生まれていないことを見
ればわかる。 
そしてもうひとつの発見が、「言語、宗教、文化、血の共有はコミ
ュニティーの形成を「支え」はするが、真に「つむぐ」ためのカギ
は別のところにあるというのだ。人類学の答えでは、その「コミュ
ニティー創造のカギ」は「お互いに与え合うこと」にある。♪ 

私は自分の子供に目一杯の愛情を注ぎます。でも決して一方通行で
はありません。 
子供はたくさんの元気とぬくもりを与えてくれます。 
それに子供から学ぶことがいかに多いことか。 
なにかこのことに気付いていない方が最近多いように思います。 

BABELさんは一杯与えることができるようですね。素晴らしい
ことです。 
でも与えられることも必要です。するともっと与えることができる
かもしれませんね。 

「つむぐ」ための方法を一緒に考えていきましょうか。


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