319−2.ビジネスクラスの引きこもり



・ 沈黙の食事時間

  ときどき外国への行き来にビジネスクラスを使うことがあるが、
最近違和感を覚えることが多い。

  私にとってビジネスクラスでの作法は、食前酒までは自分の時間
にひたっていても、食事の時間だけはとなりの人とおしゃべりをす
るというものだ。これは実際に自分がビジネスクラスで旅行した経
験から身に付けた作法である。ところが最近隣合わせになる日本人
の若い方はまったく話をしないのだ。

  仕事に追われて忙しくしているというわけではない。ヘッドフォ
ンで機内の音楽サービスを聞いていたり、機内誌を読んでいるだけ
なのだが、決して話しかけてはこないし、そもそもあいさつを返さ
ない。

  たしかに、隣同士になったからといって絶対に食事の時間におし
ゃべりをしなければならないという決まりはない。だが、私のこれ
までの経験では隣が日本人であろうと外国人であろうと、食事のと
きには雑談をするというのが常だった。
だから、食事の時間の沈黙は、どうにも居心地が悪い。変な気分だ。

  ときどき隣を窺うが、隣人は平然と食事している。その平然さが
また不思議というか不気味なのである。

・現代文明の中の孤独

  自動化技術や通信技術の発達した現代社会では、人間と人間が対
面しなければならない場面が著しく減った。

  昔だったら、煙草一箱買うのだって対面行為だったし、隣近所と
の付き合いもあったし、家族がそもそも大人数だったから、ひとり
になろうと思っても、なれなかった。

  今は逆に、会社や学校という組織に属さないかぎり、一日じゅう
誰とも口をきかないで過ごすこともできる。

  そしてそれらの強制的組織を離れてしまえば、まったく誰とも顔
を合わせる必要はないのだ。テレビやビデオや音楽CDやインター
ネットなど、ひとりの気を紛らわせるものは掃いて捨てるほどある。
スクリーンやヘッドフォンは、こちらで好きな番組や曲を選ぶこと
ができるし、こちらの好きなときにいつでも一方的に切ることがで
きる。

  プライヴァシーという隔離装置の中にいれば、生身の人間の機嫌
を伺いながら話題を合わせるわずらわしさや気苦労ともおさらばで
きる。現代人はおとなになっても母親の胎内の気楽さから離れられ
ないのかもしれない。

・わずらわしさを楽しむ心が必要

  僕がまだ子供だったころ、僕の両親は、隣人や親戚との人間関係
をいかに薄くしてすませるかといったことばかり気にしていた気が
する。人付き合いや親戚付き合いは面倒くさいから、できるだけ簡
単にすまそうと。

  ほかのご家庭の事情は知らないが、全般的に戦後の日本では、核
家族であることがいいことであるかのような風潮があったのではな
いか。その結果として、飛行機の食事の時間に一言もしゃべらない
ビジネスエリートが日本に生まれたのかもしれない。病巣の根は深い。

  周囲に対して目くばりし、何に対しても心を開き、自分ができる
ことがあったら他人に助けの手を伸ばす。それを楽しめるような意
識を作りださなければならない。ひとりひとりの意識を開放的で柔
軟で力強いものにしなければならない。

  他人のために時間を使えるということは、自分の存在の証しとな
る。そのために勉強したり、趣味の道を極める必要があるのだとい
うことを、子供たちに教えるためには、大人たちが自らそれを実践
する必要があるのではないか。

(得丸久文、2000.10.10)
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気持ちはすごく理解します。私も何度も経験しています。ばってん
それは仕方なかじゃん。
自由ですもん。本人が嫌なものを強制できるわけでもないし。
みなさん、自分に満足して、個の世界に生きておりある面では日本
の、日本人の姿ですよ。
ほっときなさい。

私は、向う三軒両隣には挨拶しなさい、必ずお世話になるよと。の
教育を受けております。子どもにもそれだけは教育しました。故に
、批判する前に自分から話したらよかですよ。私は、そう感じたら
自分から話しかけます。そしたら、必ず、話が弾みます。約束しま
す。期待しては期待が外れます。それが世の常です。

みなさんはみんなみんなの話を期待し、待っています。個に生きれ
ば生きるほど・・・・。Iron1ご免!
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> 批判する前に自分から話したらよかですよ。

ええ、もちろんそうなのですが、、、、
私の力不足であります。
でもなにせ相手はヘッドフォンをつけながら食事をされて
おられて、ちょっと付け入る隙がないという感じなのです。

得丸
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この投稿で主張したいことは

「周囲に対して目くばりし、何に対しても心を開き、自分ができる
ことがあったら他人に助けの手を伸ばす。それを楽しめるような意識
を作りださなければならない。ひとりひとりの意識を開放的で柔軟
で力強いものにしなければならない」なのでしょうか?

 これ自体は何方も異論はないと思いますが「飛行機の中で食事中
隣に乗り合わせた人と話をしない人」から始まって巧妙な起承転結
の文章展開ですが、しかしこれらを関連づけることには無理がある
のではないでしょうか

西洋では食事中に話しをしない事は作法に反している様ですが、飛
行機の中で、たまたま隣り合わせとなった赤の他人との関係で西洋
の作法に従う事もないですし、ましてや投稿では特に日本人につい
てのことです。そもそも伝統的日本の食事作法として食事中に話し
をすることは不作法と成っていませんか。少なくとも飛行機の中で
乗り合わせた人が話したくないのであれはその自由を尊重すること
こそその場の作法だと思います。

それから些か揚げ足取りの誹りを受けるかもしれませんが「僕がま
だ子供だったころ、. . . 」のくだりと「他人のために時間を使え
るということは、. . . 」のくだりはお互い矛盾するのでは無いで
すか。つまり投稿者のご両親は投稿者が子供の時それを教えなかっ
たにも拘わらず投稿者は大人になった今そのようにしておられるの
ですから。小生の申し上げたいのは投稿者が親の行動習性と異なる
ところがあるとすれば、それは単にもって生まれた性格の違いによ
るところもある、ということです。

本所

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