218−2.第三国人の別視点について



こんにちわ。いつも興味深く読ませていただいています。
第三国人の暴行について、そのことも事実であると思いますが、
このようなこともあったとおわかりいただければと思い、これを
送らせてもらいます。

私の父は少年飛行兵第17期。秋田で終戦を迎えています
(外地へは行ってないそうです)

当時、少年飛行兵は一年過ぎると上等兵、卒業時には伍長となった
そうです。周りには台湾や朝鮮出身の人もいましたが、扱いは全く
変わらなかったということです。立場が違えば捉え方や扱いも違った
とは思いますが、すべての朝鮮人が露骨に差別を受けていたわけでは
なかったと思います。彼らは終戦後母国へ帰り軍隊の教官となった
ものも多くいて、教官という立場上、母国で将校になった人も多か
ったと父は言っています。

また、父の実家は川崎市で下駄屋をやっていましたが、横の空いて
いる土地を朝鮮人の靴の修理屋に貸していて、ほったて小屋を建て
て営業していたということですが、小屋には水道もなかったので昼食
を一緒にとったりお茶を飲んだりと親しくつきあっていたそうです。

終戦後、食糧事情の悪いときに、その、朝鮮人の靴修理屋は、どこ
からか鳥の肉や山羊の肉(と、記憶にはあるそうです)を調達して
きてわけてくれたそうです。当時、下駄は必需品で、比較的困ること
なく物々交換で生活していたということですが、大変助かった記憶が
あると言っています。

余談ですが、その後父は、今はない石川新聞の記者として巣鴨プリズン
に出入りして、戦後のジャーナリズムの一端を担っていた時期も
あったようですが、当時「三国人」という言葉は差別的な意味は
なかったと言っています。これは、マッカーサーの布告で始めて
できたということであれば、特に余計な意味もなくつじつまが合う
のではないでしょうか。

第三国人の暴行については事実だと思います。ただ、今、私が書いて
きたことも事実です。当時、いろいろな人がいて(現在の日本と同じ
ように外国人でも不良もいれば真面目や優秀な人もいて)いろいろな
ことが起きたことは間違いないでしょう。

私の父も71歳で、10年後生きているかには「?」マークが付く
でしょう。今回、戦中戦後のことについて歴史的にしっかりと検証、
記録する最後の時期になっているという思いがあらためてしました。

また、少し時間が経ち冷静になったところで、石原知事の発言内容は
、かなり説明不足だと思いますが、不法入国や不法滞在の三国人
(外国人)のみならず昨今の凶悪事件を鑑みて日本人も含めた不測の
事態に対しての対処方法を考えることが必要であると、あらためて
思いました。

岬
===============================
(Fのコメント)
 いろいろな人がいたのでしょう。今後も、お父様の経験談を投稿
してほしいですね。それがそのまま戦後史になりそうですよ。
その中には、戦後史が触れていないこともあるはずです。

コラム目次に戻る
トップページに戻る