2143.憲法改正について



毎日コラムを楽しみにしています。
最近憲法改正についての記事が多く見られますが、歴史の勉強不足
で、いまひとつ理解出来ません。
記事にもありますように、GHQが一週間で作り上げたとあります
が、中身はワイマール憲法のコピーといわれています。ワイマール
憲法は何時、誰が、何を目的に作成されたのか、その歴史的背景な
り、隠された政治戦略は何か真実をしりたい。私たちが憲法に書か
れている、自由とか平等とか真の意図する意味が、日本的に解釈さ
れているだけで隠された狙い、意図は全く知らされていない。憲法
論議の前に与えられた憲法の真の意味を誰か詳細に教えてほしい。
このコラムに投稿されることを希望いたします。
name=梅田 邦夫
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(Fのコメント)
ワイマール憲法は第一次世界大戦でドイツが革命を起こし、停戦し
た時、連合国サイドの意向を受けてドイツ人自身が制定した憲法で
、ドイツを戦争しない国家にする理想の憲法として制定したのです。
勿論、フランス、英国などがドイツを戦争しない理想の民主主義で
平和主義の憲法でした。しかし、国家が危機的状態になった場合に
独裁的な指導者を容認していた。

ここをヒットラーに突かれて、独裁国家主義のドイツにしてしまっ
て、第二次世界大戦になる。このために、その独裁制の条項を無く
したのが日本国憲法の骨格でしょうね。その代わりに、ドイツでは
革命で退位した皇帝を認めず、大統領制になかったが、日本の天皇
を日本国憲法では認めた。GHQの天皇制容認と引き換えに今の戦
力を放棄した憲法を日本国家は受け入れたようです。

日本国憲法の制定過程は、普通3つの時期に分けて考えられていま
す。
「第1期」憲法問題調査委員会(松本委員長)による改正作業が進
み、成案がGHQに提出されるまでの時期

「第2期」憲法改正要綱(松本案)がGHQによって否定され、
GHQ案(マッカーサー草案)が日本政府に提示され、閣議でその
受け入れを決定するまでの時期

「第3期」政府によって新たに発表された憲法改正案が帝国議会で
審議されていった時期

このようにGHQでももっともリベラルであったホイットニー民生
局が憲法草案を1週間で作ったために、その作業のベースとしてワ
イマール憲法を持ってきたことで日本国憲法はワーマール憲法に近
くなったのでしょうね。

日本国憲法で問題なのは、憲法9条であるが、日本の平和主義は分
かるが、その戦力を待たないということが現実的ではない。特に日
本周辺は、冷戦構造が残っているために、中台のような対立的な関
係がまだある。共産主義という過去の遺物を抱えている独裁国家が
近くにあることが脅威で、この脅威を除去ために独裁国家に隷属す
ることは日本国民の意識からしても無理がある。

特に中国との関係は古代から続く日本固有文化を守るために属国化
されないように離れる方向で常に維持している。このため、韓国と
違い、中国に隷属できない。

その独裁国家が軍事拡張をしている事実から、どうしてもその対応
が必要になる。これは致し方が無い。ドイツもやはり戦後憲法を占
領軍政府が作っていたが、ドイツは33回以上憲法改正をして軍隊
を持ち、NATOにも参加し海外派兵も可能にしている。日本だけ
が他国と共同で自分を守るための戦力を持てないという憲法はおか
しい。
(参考資料)
1718.憲法第九条と日米インナー・サークル
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/160815.htm
1692.日本は戦後クエーカー国家となった
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/160720.htm
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●ワイマール憲法 
ドイツ連邦共和国 AD1919 ワイマール共和国 
http://www.tabiken.com/history/doc/T/T331R100.HTM
 ドイツ革命により成立したワイマール共和国の憲法。フーゴ=プ
ロイスによって起草,1919年7月31日ワイマール国民議会が修正採択
,8月11日発布した“ドイツ国憲法”を通常ワイマール憲法と言い,
14日に発効した。全文181条。第1条で国民主権を明記した。国の機
関としてとくにライヒ(国)議会と大統領が重要で,政府は,20歳
以上の男女による普通選挙で比例代表原則のライヒ(国)議会に責
任を負い,大統領は国民の直接選挙で選ばれ,任期7年,軍事統帥権
・大臣任免権・議会解散権などを持った。従来からの連邦制は,国
の権限を強化しながらも継承し,また新しく「経済生活」の章で社
会権を保障した。この憲法のもと,比例代表制で明確な議会多数派
が形成されず,政権の安定を欠き,第48条の大統領緊急命令権が乱
用され,ヒトラーの率いるナチスが政権を掌握するに至った。
1933年「授権法」の成立で憲法は実質的に効力を失った。 
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●ワイマール共和国 ワイマールきょうわこく
http://www.tabiken.com/history/doc/T/T331L100.HTM
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1918 ドイツ帝国 

 1918年のいわゆる11月革命によって成立し,1933年のヒトラー政
権の出現によって終止符を打たれた約14年間にわたるドイツ最初の
共和国をさす。1919年にワイマールで開かれた国民議会でこの共和
国の憲法(いわゆるワイマール憲法)が決められたことから,この
呼び方は来ている。ワイマール憲法が当時の世界で最も民主的な憲
法とされながら,この共和国が短命のうちにナチズムの前に崩壊し
たことのゆえに,その歴史は民主主義の問題を考える上で大いに示
唆に富む。共和国の歴史はふつう三つの時期に区分される。
【初期 1918〜1923/1924年】共和国の成立とそれに続く混乱の時
期。1918年11月に第一次世界大戦におけるドイツの軍事的敗北を契
機に革命が勃発し,共和制が宣言されて帝制が崩壊する。革命は多
数派社会民主党の主導権の下に議会主義の方向で収拾され,1919年
にワイマールに国民議会が招集され,国民主権主義に立った憲法が
成立する。社会民主党のエーベルトが初代大統領に就任し,政権は
当初いわゆるワイマール連合によって担当された。だが,苛酷なヴ
ェルサイユ条約の押しつけ・厳しい賠償取り立て・破局的なインフ
レーションの進行などにより政治・経済は混乱し,左右両翼からの
クーデタや革命の試み,政府要人の暗殺などが相次ぐ。1920年の右
翼によるカップ一揆もその一つである。1923年フランス・ベルギー
両国軍隊によるルール占領により混乱はその極に達し,同年秋には
ヒトラーによるミュンヘン一揆も起こった。

【安定期 1924〜1929年】共和国の束の間の安定の時期。1924年賠
償に関してドーズ案が成立したことで大量の外資が流入し,経済は
復興に向かう。この時期を代表する人物は外相シュトレーゼマンで
,彼のもとでロカルノ条約の締結(1925),ドイツの国際連盟加入
(1926)などに示される西方諸国との協調外交が展開される。ただ
し,ラパロ条約(1922)以来のソ連との関係もベルリン条約の締結
(1926)によって持続された。この時期には左右の過激な勢力も影
をひそめるが,1925年の大統領選挙で保守派のヒンデンブルクが当
選したことは,共和派の弱さを示す。

【崩壊期 1929〜1933年】1929年の世界恐慌の勃発を契機に共和国
が崩壊に向かった時期。1929年以降ドイツ経済の不況は急速に深刻
化し,1932年ごろには600万以上の失業者を生み出すに至る。1930年
3月には社会民主党のミュラーを首班とする大連合政府が失業保険問
題をめぐる対立のために崩壊するが,これを最後に議会の多数派に
基盤をおく政権は姿を消し,いわゆる大統領政府の時期に入る。
すなわち,憲法第48条に規定された大統領の緊急権限に依拠した政
治が行われるようになる。1930年3月以降政権を担当したブリューニ
ングは,恐慌の克服と議会主義への復帰を意図するが,同年9月の国
会選挙では群小政党の一つにすぎなかったナチスが第二党に躍進し
た。同党は1932年7月に行われたパーペン政権下での選挙では,三分
の一の議席を得て第一党となり,他方で共産党の議席が伸びたこと
とも相まって,議会主議への復帰はますます困難となる。この間,
1932年の大統領選挙ではヒンデンブルクがヒトラーを抑えて再選さ
れるが,彼の周辺では政治工作が渦まき,とくに国防軍を背景とす
るシュライヒャー将軍の政治への介入が強まる。1932年12月自ら首
相となったシュライヒャーは,ナチスを分裂させて政権の安定を図
ろうとするが失敗に終わり,舞台裏でのパーペンの工作によって
1933年1月30日のヒトラー政権の誕生を迎えるに至る。ワイマール共
和国を短命に終わらせた要因としては,国際環境の厳しさ・ワイマ
ール憲法の欠陥・恐慌時の経済政策の失敗・大企業や大土地所有者
の圧力・中間層の困窮と不安・官僚や国防軍の反共和制的姿勢など
,さまざまなものを挙げることができる。

〔参考文献〕林健太郎『ワイマール共和国』1963,中央公論社

A.ローゼンベルク,吉田輝夫訳『ワイマール共和国史』1964,思想社 
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題目:「ワイマール期カール・シュミットの政治思想――近代理解
の変遷を中心として――」 
http://politics.juris.hokudai.ac.jp/2003b7.html

報告:権左 武志氏(北海道大学大学院法学研究科教授) 
(要約)

序 ワイマール期全体のシュミット解釈が、従来の研究では不十分
であった。とりわけ、版による異同が十分に検討されず、シュミッ
トの知的活動があたかも連続的発展であるかのように受け取られて
きた。そこで、本報告では、シュミットの著作における版の異同を
考慮し、彼の思想の区切り目を強調し、さらに、ワイマール末期の
政治史的な文脈にも配慮することで、ナチズムの知的先駆者という
よりも、激動の時代における危機の思想家としてのシュミット像を
とらえたい。 
 以下、シュミットの活動を三つの時代に分けて分析する。 

1 ワイマール初期における世俗化―内在化としての近代理解 
 『独裁』(初版1921年)では、独裁概念の変遷の探求と近代
主権概念の把握が試みられている。まず、独裁の原型を、古代ロー
マ共和制の独裁官に求める。このような、憲法上の機関により危機
克服のため任命され、任期・権限が限定されている独裁を委任独裁
と呼んだ。次に、委任独裁の二番目の事例として、フランス絶対王
制下、君主によって任命された信任官僚をあげる。続いて、ルソー
の人民主権論を転機として、主権と独裁が結合する新たな独裁が成
立したとして、シュミットは、それを主権独裁と名づけた。主権独
裁の典型は、憲法制定権力論であり、自ら憲法を制定する権力によ
って委任され、任期・権限を限定されていない人民の代理人である。 

 このような区別のもと、シュミットは、ワイマール憲法48条の
大統領緊急命令権を委任独裁の三番目の例としてあげる。このよう
にシュミットは、大統領制度の運用を人民投票によって選抜された
カリスマ的指導者としての期待を担うものとして解釈しようとした。 

 続いてシュミットは、1922年の『政治的神学』において冒頭
で、主権者を例外状況との関連で主権概念を決断主義的に定義した
。そしてボダンのように、「君主は法に拘束されず」というローマ
法命題に忠実に、例外状況において、決定はいかなる規範的拘束か
らも免れ、本来の意味で絶対的になると述べる。ボダンの場合、主
権者は自然法に拘束されると論じたが、シュミットは、ホッブズの
解釈を引き合いに、自然法を含めあらゆる法の解釈を主権者が独占
すべきとして、「真理でなく権威が法をつくる」(Autoritas, non veritas facit legem)
と結論付けた。 

 こうしたシュミットの決断主義理論は、行政幹部から行政手段を
分離集中した絶対王政をモデルとした近代主権国家把握という歴史
的・実体的裏付けを有している点に注意が必要である。シュミット
の決断主義は、絶対主義による政治決断の頂点への集中という歴史
プロセスの帰結を理論的に把握したものといえる。この点において
、彼の決断主義は、ヨーロッパ近代史を普遍的な官僚制化の過程と
見るヴェーバーの合理化論と一致する問題意識によって導かれてい
たといえる。 

 次に、シュミットは決断主義的な主権概念を世俗化テーゼによっ
て、神学的に根拠付けようとした。「近代国家論の主要な概念は、
すべて神学上の概念を世俗化したものである」という命題を掲げ、
絶対君主は超越神の観念を世俗化したものであるという世俗化テー
ゼの前半部分を引き出す。従来このテーゼは、カルヴィニズムの主
意主義的な神概念と近代主権概念とのアナロジーであるというよう
にプロテスタント的な視点から解釈されてきた。シュミット自身も
後に、このような解釈を述べているが、それは自己偽装である可能
性が大きい。なぜなら、『政治的神学』と同時期の『ローマ・カト
リシズムと政治的形式』でシュミットは、ローマ教皇の権威ある人
格だけがクリストの人格を代表できるというカトリック的な代表理
論を展開している。すると、世俗化テーゼは、教皇至上権が主権概
念の最初の原型をなすという歴史的経緯の上に成立していると考え
られる。 

 続いてシュミットは、神が内在化し、汎神化していくことで、絶
対君主でなく人民が新に主権者になるという世俗化テーゼの後半部
分を唱える。この内在化の段階と先の世俗化の段階を概念的に区別
することを提案したい。従来、混同される傾向あったこれらを区別
することで、『政治的神学』と次の議会主義論を発展史としては、
別個の段階として把握する必要があると思われる。なぜなら、『政
治的神学』でシュミットは、君主制的正統性の側に立ち、内在化の
帰結としての民主的正統性=人民主権原理と対決姿勢をとり、ルソ
ーの人民主権論を明示的に批判し、決断主義的な主権概念の再生を
図ろうとしているからである。 

2 ワイマール安定期における内在化の帰結の承認 
 1923年の『現代議会主義の精神史的地位』(以下議会主義論
)においてシュミットは、一転して人民主権論を受け入れ、それを
独裁概念と結び付け、自由主義的原理から切り離そうとした。第一
に、公共の討論の形骸化を批判し、第二に、ルソーの全員一致によ
る意思決定モデルに依拠し、民主主義を治者と被治者の同一性と定
義した。しかし、ルソー自身は、同時に公民が奴隷状態に陥ると、
「恐怖と追従が投票を拍手喝采に変える」と指摘しているが、これ
をシュミットは、完全に無視する。そして、人民の意思は拍手喝采
によって民主的に表現可能であり、議会主義なしでも民主主義は存
在しうるし、独裁は民主主義と対立しないと結論する。 

 ここで重要なことは、『政治的神学』と異なり、シュミットが内
在化の帰結である民主的正統性の確立を正統性概念の発展としては
っきりと承認している点である。ただし、人民の自己立法能力に対
しては、懐疑的であり、後見人による独裁が不可欠とされた。こう
した独裁と民主主義の結合という構想には、ヴェーバーのカリスマ
的支配を解釈変えし、カリスマ保有者に対する人民の拍手喝采とい
う民主的正統性の理解が背後にあると考えられる。 

 1928年の『憲法論』においてシュミットは、近代憲法の総合
的解釈と包括的な体系を示した。まず、ワイマール憲法の正統性を
、人民の政治決断に求め、承認した。 
 第二に、シュミットは、近代憲法を自由主義的な法治国的構成部
分と、民主主義的な政治的構成部分の結合からなると理解した。更
に後者は、民主制的な同一性原理と君主制的な代表原理の結合から
なるとした。民主性原理とは、治者と被治者の同一性に基づき、世
論という近代的な方法の拍手喝采による決定によって民主的な公共
領域を形成できる。君主制原理とは、政治的統一を公共領域で人格
的に現前化するという代表概念に基づく。 
 ここでシュミットは、絶対君主も議会制君主や大統領と同様人民
の政治的統一の代表者に過ぎないと述べ、このような代表概念は従
来1923年の『ローマ・カトリシズムと政治的形式』をモデルと
して解釈されてきたが、これは修正を要するように思われる。『憲
法論』の代表概念は、内在化の帰結を承認したあとの代表概念を
それ以前の段階に逆投影したものと考えられる。こうした代表とい
う政治的形式と法治国原理の結合は、1924年以来進行したシュ
ミットの脱カトリック化の表れと思われる。 
 続いてシュミットは、法治国的構成部分を配分原理(基本権)と
組織原理(権力分立)からなるものとして解釈した。シュミットに
よれば、法治国的構成部分それ自体は、形式原理を含んでおらず、
政治的構成部分と混合・結合し、さらに、政治的構成部分の内部で
も君主制、貴族制、民主制という形式原理を混合させるという二重
の意味で市民的法治国の憲法は混合的な憲法であると結論付ける。
この権力分立論をワイマール議会制に適用すると、議会制、内閣制
、首相制、大統領制の四類型が運用上可能であるとシュミットは解
釈する。そして、ヴェーバーによる首相制を明示的に批判し、拍手
喝采によって大衆から信任を得た大統領こそ真の指導者であると結
論する。 

3 ワイマール末期における近代理解の変容 
 1928年以降のシュミットの新たな近代理解は、次の二点にま
とめられる。第一に、内在化の帰結を承認し、民主的正統性に即し
た憲法原理を模索しようとした。第二に、自由主義原理を共和国成
立後は、人民自身の意思によって選び取られ、憲法の不可欠な構成
要素であると認めざるを得なくなった。こうした近代理解は、「中
立的国家」や「中立的権力」といった形で現れる。 
 1929年12月の「中立化と脱政治化の時代」では、政治的な
ものの領域が神学から経済的な領域に移動していくことを中立化の
過程と呼び、君主や国家が中立化され、中立的権力、中立的国家と
いう自由主義的学説が生じてきたとして、シュミットの議論は、中
立的権力の擁護に次第に移動していった。 
 同年3月の「憲法の番人」では、混合政体で生じる紛争を中立的
な第三者たる「憲法の番人」が調停するべきであるとして、ライヒ
大統領を中立的権力に位置付けて説明する。 
 こうした中立的国家という自由主義原理に対するシュミットのコ
ミットは、直後の世界恐慌やナチ党の躍進という共和国の危機状況
の中で、再び転換していく。20世紀に入ると、国家の社会への不
介入という中立的姿勢をとれなくなり、国家があらゆる領域に干渉
する全体国家へと転換せざるを得なくなると主張する。 
 1932年の『合法性と正統性』でシュミットは、第一に、ワイ
マール憲法第一編の議会制国家が「形式的法律概念」や「政治的な
法律概念」を前提とする限り、価値中立的な合法性観念に帰着せざ
るを得ないと指摘する。しかし、憲法敵対的政党が合法性原理を合
法的に除去する恐れを指摘し、議会制立法国家が自己自身の前提に
対し中立であってはならないと警告する。こうしてシュミットは、
合法的支配の正統性類型への疑念を示し、人民投票的正統性、すな
わちライヒ大統領に期待をかける。 
 第二に、ワイマール憲法が価値中立的な第一編と実質的価値を定
めた第二編に分裂しており、その二者択一を迫られた場合、後者の
実質的価値に決断すべきと提案している。つまり、人民投票的正統
性に支えられたライヒ大統領が、議会主義的合法性に対抗し、「憲
法の番人」として法治国的実質を救い出すというシナリオである。 
 これをまさに実践すべくシュミットは、1932年以後、シュラ
イヒャーの助言者として政府中枢まで深く関わった。例えば、シュ
ライヒャー内閣において、議会の決議を無視できるという大統領宣
言文の起草などに関与したが、この計画は挫折し、ヒトラーが合法
的に首相に任命されるに至る。 

結び 
 このような政治的実践を考慮に入れ、ワイマール期シュミットの
著作活動の評価を試みたい。@人民の拍手喝采により選出された大
統領こそ真の政治主導者、A大統領が諸政党を和解させる調停者=
中立的権力というシュミットの大統領制に関する二つのテーゼは、
議会と内閣が激しく対立分断する、当時の共和国における分割政府
の状況において無力であった。このような状況において、シュミッ
トは、合法性原理かそれとも法治国の価値かという根本的な二者択
一を大統領に迫った。 
 1932年7月から翌年1月までのシュミットの日記帳に示され
た彼のブレーン活動の記録から判明したことは、民主的正統性の名
においてライヒ大統領へ政治決断を集中させるというワイマール期
の彼が一貫して唱えつづけたテーゼが、実はより少ない悪の選択に
関する誤った政治的判断であったという単純ながらも恐るべき政治
的真理であった。この点において、シュミットのブレーン活動の実
践的破産は、「憲法の番人」であるはずの大統領に対し、すべての
決断を託すというワイマール期シュミットの理論活動の破産をも意
味していたと言わざるをえない。 

(参考文献) 

権左武志「ワイマール期カール・シュミットの政治思想―近代理解
の変遷を中心として―」『北大法学論集』第54巻第6号 

(文責:法学研究科修士課程  空克博)


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