2062.はだかの起原 不適者は生きのびる



きまぐれ読書案内 島泰三著「はだかの起原 不適者は生きのびる」(木楽
舎)

 通勤の途中、近所の公園に住む野良猫を見ながら、「おまえらみたいに毛皮
があれば、洋服を買う必要もなければ、家もいらない。ローンもなければ、生
活費もいらない。そもそもお金を稼ぐ必要がない。うらやましいなあ」と何度
思ったことだろう。
 人間にはどうして毛皮がないのか、サルにも、イヌにも、ネコにも、スズメ
にも、カラスにもあるものが、どうして人間にはないのか。あったほうが楽に
決まっているのに。我々は進化ではなく退化した動物ではないか。
 そんな疑問は前々からもっていた。だから「はだかの起原」という本には興
味がひかれた。ネットで買えば、新本でも古本でも、すんなりと買うことがで
きたのだが、なぜか書店で買わなければいけないという心の声が聞こえて、い
くつもの書店に無駄足を運んだ。結局池袋の超大手書店ジュンク堂で見つけ、
同じ著者の「親指はなぜ太いのか」(中公新書)といっしょに購入した。新書
の購入を決心できたのは、店頭に行ったおかげである。

 著者は、マダガスカルの珍獣アイアイの生態研究についての世界的権威であ
る。アイアイの前は、日本の林野をかけめぐって野生のニホンザルの生態を追
跡研究していた。
 20年ほど前の台風の日、暴風雨の吹き荒れる房総半島の山林の中、観察し
ていた野生ザルのこどもたちが、その日のねぐらとなる大木の枝が舟のように
揺れている上で、いつもよりも楽しそうに飛び回って遊んでいた姿を見て、著
者は衝撃を受ける。そして、毛皮があれば、台風の中でも平気で暮らすことが
できることを理解し、「どうして人間は毛皮を失ってしまったのか」という問
いに目覚める。
 問いに目覚めること自体が、すでに答えを知ることである、といったのは鈴
木大拙だったか。我々は、さまざまな不思議の中を生きているにもかかわら
ず、なんら疑問をもたずに生きている。人間に毛皮がないことに疑問を抱く人
はそれほど多くはない。

 これまでにこの問題に取り組んできた専門家としては、「種の起原」、「人
間の起原」を書いたチャールズ・ダーウィン、「はだかの猿」を書いたデズモ
ンド・モリス、「人間海中起原説(アクア説)」を説くエレイン・モーガンら
の学者がいる。しかし、著者は、野生観察にとくに重きをおく動物生態学者で
ある。軽々とダーウィンやモリスやモーガンの立論のあいまいさ、手抜き、ご
まかしを指摘して、議論を振り出しに戻す。
 それから、ご自分の博物知識を総動員して、裸の動物の一覧リストを作り、
それぞれどうして裸になったのか、どうして裸で生きていけるのかを、分析す
る。クジラ、ゾウ、サイ、カバといった体重1トン以上の大きな動物から、ハ
ダカオヒキコウモリ、ハダカデバネズミといった小動物にいたるまで、もれな
く考察対象にするところは、小気味いい。実にダイナミックな科学の本であ
る。
 著者は、人間の裸化は、何種類かいる原人の中で、特定の一種だけが突然発
生したと理解し、説明する。デバネズミもオヒキコウモリも、一種類だけの突
然発生である。そのようにして突如発生した裸の初期人類の一種が、火と家と
着物を持つことによって、体温を維持し、体の水分の調節を行えるようにな
り、どこでも暮らしていけるようになって世界へ広がった。
 もしかすると、その突然発生は、南アフリカのクラシーズ河口洞窟で、起き
たのではないか。そう考えると63億人といわれる人類すべてが、南アフリカ
の洞窟で生まれた裸のサルを共通祖先とするという昨今の人類学の共通認識
「イブ理論」と一致する。
 水の便もよく、雨露や冷気から体を守ってくれる河口洞窟の中で何十世代
か、何百世代か暮らしているうちに、もしかすると火を使うことも憶えたのか
もしれない。そうして、だんだんと毛皮の必要性がなくなり、裸の原人が生ま
れた。

 人間は、裸になったことで、裸の不利な点を補う仕組みを作ることを覚え
た。自らを環境に適合させて生きる野性生物であることをやめて、周囲の環境
を自らの生存環境として改変していく文明的存在に変わった。
周囲の環境を人間が生きやすい環境に改変する集団的行為と改変された環境
が、文明(Civilization)であり、文明を拡大し、文明の中で生きていくために
個々の人間が身につける社会や言葉や衣食住の作り方が文化(Culture)であ
る。
 都市が文明であるというのは、都市とそれを構成する建造物は、人類が洞窟
を出て人工的に構築した洞窟群であるということだ。文明的生物となった人間
は、地球上で優越的な立場にたつが、同時に自らを文明の奴隷とした。文明の
中でしか生きていくことができない生き物になってしまったのだ。

 人類は、文明空間を徐々に広げてきた結果、多くの他の野生生物が生存する
ことができず、絶滅していくように地球を改造してしまった。著者が心を痛め
ながら観察しているように、人間によってマダガスカルの原生林は、次々と伐
採され、野焼きされて焼失していく。そこを生活の場としていた野生のサルは
今絶滅の危機にある。
 しかし同時に、野生ザルを絶滅に導いている人間たちも、結局は自分たちの
作り出した文明のブーメラン効果として、砂漠化、温暖化、海洋汚染、水質汚
染、その他もろもろの環境壊滅がおき、自らの生存すら危うい状況を作りつつ
ある。
 類人猿が毛皮を失ったところから、地球の文明化がはじまり、現在の地球的
な環境問題が起きてしまった。どうしようもない文明と文化の時空間の広がり
が、地球というサイズにいよいよおさまらなくなりつつある。著者は、人類文
明が暴走する現代を、人類進化の歴史的枠組みで鳥瞰視し、野生動物と人間と
両方の立場から眺めている。著者のドライな悲しみが伝わってくる本である。
 
得丸久文(2005.7.22)
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http://www003.upp.so-net.ne.jp/oyuki/lemur/books.html
「人間はナゼはだかなのか?」…これって、考えてみたらものすごく不思議で
すよね。はだかの皮膚で生きていくって、動物としてとても不利なことではな
いですか。
そんな人間のはだかの起源を探っていくと、ダーウィンやその他有名な人間の
起源説にはインチキな匂いがプンプンすることがわかってきちゃうんです。
そこに容赦ないツッコミを入れまくる島先生の筆の冴え!
果たして、人間はどこからやってきたのか…!? これを読めば現代を生きる
ホモサピエンスとして、気持ちを新たに今後を生きていく気構えが生まれます
よ!
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http://www.muumuu.com/members/morikawa/0817.htm
『はだかの起源』によると、
人類は7万年以上前に突然体毛を失ったようで、
はだかになちまったからこそ、
最後の氷河期を生き延びられたはずというのは興味深い話だった。
氷河期になったとき、
ネアンデルタール人も、ホモ族の別種の人たちも
毛むくじゃらだったわけで、
ちょっと考えると
その方が生き残りやすいように考えられるけど、
寒さをいかにしのぐかという意志(前頭葉の働き)は、
はだか族のほうが強かったみたいだ。
その結果、はだか族は服を発明し寒さをしのげたのに対して、
毛むくじゃらな人たちは、
薄い体毛だけでは氷河期を乗り切れなかった。
そういうことらしい。
このときの前頭葉の発達が、現代の文明を可能にしたのだ。
ってことらしい。
ちなみに、最近の子供達は前頭葉の発達が悪いと言われる。
ゲーム脳(笑)も前頭葉の働きを悪くし、
簡単な足し算で前頭葉を刺激することが、
「頭がよくなる」ことらしい(笑)。
なんでも前頭葉かい。
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http://www.japet.or.jp/index.cfm/4,1081,99,html
あべこべ:人類は不適者
 「はだかの起源」不適者は生きのびる 島 泰三著、木楽社は
Darwinへ反対の主張である。四角な頭を丸くするには良い話である
。著者はDarwinの適者生存説の完全な否定であると主張する。それ
もいいだろう、大物に反対すれば本も売れるだろうし。
 突然変異で丸裸がうまれた。気候の変化に弱い筈の人間が氷河期
を見事に乗り越えた。だからDarwin説はあだめだと著者は言いたい
らしい。
 私は考える。人間は裸でも大きな頭脳を持って生まれた。それを
利用して着物で着飾りと楽な家を発明して、不利な気候や環境を凌
いで、出会った氷河期でさえ乗りこえた。裸と頭を合わせれば人類
はやはり適者であったと言える。適者の意味の問題である。屁理屈
で喧嘩するにもあたらない。
 それにしても「裸と頭」で人類が適者になったとの考えは面白い
。あべこべも捨てたものではない。
    適者とは生存した者を言う。
    進化とは生存する事を言う。
これは無意味な A=A に見えますが、生存のためには形質の遺伝も
あるが、加えて文化の伝承も役立つとすれば、あながち無意味でな
いかも知れない。要するに生存が進化であるが、進化は生存の継続
を意味しないと言う事である。
 生存は進化であるが、進化は生存ではない!
はだかの起原―不適者は生きのびる

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