2025.「供給=需要」の向こう側



「供給=需要」の向こう側 <想像力から創造力へ> S子
          
「利潤なき経済社会」を興味深く、また、意義深く読ませていただ
いております。資本主義経済において、結局、私たちが見誤ったも
のは、マネーにおける「目的」と「手段」をはき違えたことにある
のは間違いないだろう。経済活動における潤滑油とはマネーであり
、そのマネーが滞ることなく流通し、循環してこそ経済の活性化を
見ることができ、個々人としての生きる活動も活発化してくる。

それはまるで私たちのからだを流れる血液のようなもので、血液が
さらさらの状態であれば私たちは健康で日々を無事に過ごすことが
できる。が、血液がどろどろ状態になり、この流れが悪くなり脳で
詰まれば脳梗塞が起き、その部分の脳組織が壊死してしまい、私た
ちは失語症になったり、半身不随になったりする。

資本主義も当初はマネーがモノを交換するための「手段」として流
通していたが、資本主義が成熟してゆくにつれて、いつの間にか「目
的」と化した。マネーの目的化はつまるところ全てを目的化させてし
まい、私たちにあらゆるものの「本質」を見る目を喪失させた。
これは事実である。

そして、それが「供給=需要」という経済活動を必然的に生じさせ
、モノに溢れた社会が誕生した。「供給=需要」という経済活動は
よくよく考えてみれば、「与えられた人生」を送ることになり、
そこには自主性や主体性はなくても私たちは「与えられたモノ」を
購入し、そこそこ無難な人生を送ることができる。

私たちが無難だと錯覚し、安心してしまうのは、周囲が皆「与えら
れたモノ」である「同じモノ」を持っているからである。つまり私
たちは「与えられた、同じモノ」を持つことによって人生の安定や
幸福の尺度をはかっていた可能性がある。「供給=需要」という経
済活動では、人間の欲求すらも本質から遠ざけてしまうということ
である。

本当に自分が欲しいモノだったのか、他人が持っているから欲しい
のか、テレビコマーシャルで見たから欲しくなったのか、売り込み
にきたから購入したのか、ないと困るほどではないがあって困るほ
どでもないので購入したのか等、心から欲しているものではなく、
供給されたから需要したという構図が自然と生まれる。それを自分
の欲求があったから買ったと、私たちは錯覚しているにすぎない。

こうして私たちは「与えられた人生」を無難に安定して生きること
で、「危機感」を抱くことなく日々を過ごし、人生を終える。人間の
三大欲求であり生きる基本の「食・性・寝」も既にこの「供給=需
要」という経済活動に組み込まれ、マネーの目的化とともに人間と
しての本能を私たちは喪失しかけている。現代人はこの自覚すらも
ないという悲しい状況におかれているのである。

しかし、マネーの目的化による「供給=需要」という経済活動では
経済成長が持続できないどころか、経済の空洞化を生み失業者を増
加させ、個人としての生きる活動が阻害されてしまう。そのことに
気づいたのが、今回の欧州連合憲法批准拒否の仏国民である。拡大
EUの存続に待ったをかけた格好となったが、「危機感」を抱いた彼
らの人間的本能はまだ廃れていないどころか、十分に健在である。

仏は世界で一番セックスの回数が多い国で、年間137回だそうで
、日本はその回数が非常に少なく年間46回だという大手コンドー
ムメーカーの調査結果がある。これが何を意味するのかというと、
何も仏人がエッチな国民だと証明しているだけではなく、男女双方
がお互いに向き合い、お互いのことを真剣に考え、生きる姿勢に意
欲的に取り組んでいることを如実に物語っている。

自分たちの生きる姿勢を他人任せにしているのではなく、自分たち
で探りあいながら男女の問題に向き合い主体的に生きている。「供給
=需要」という「与えられた人生」では仏人は真に充足できず、それ
は人間的な生き方とは反することを体感することでからだが覚え、
心が拒否反応を示している。

ひるがえって日本を見れば、「供給=需要」人生が非常に行き届い
ており、大人も子供も主体性をなくし、自信喪失し、想像力にも欠
け生きる気力も無い状態に置かれている。だから米国の言いなりに
しか生きることができないのである。「供給=需要」という「与え
られた人生」を送ることは確かに楽ではある。が、そこには「自分
」というものがない。この人生を生きる「自分」がないのである。

だから真の喜びや真の悲しみを味わうことはまずないだろうし、
そこそこ無難で安定した人生を送ることで「危機感」を覚えること
もまずないだろう。実はそれこそが問題なのである。「危機感」を抱
くこともなければ、正直な話がまともに「自分」とは向き合えない。
「自分」という人間のこともわからずして終える自分の人生って一
体何??ということになる。

マネーが目的化されることで「供給=需要」という経済活動が必然
的に生じ、「与えられた人生」を送ることで私たちは主体性を失い
、自信を失い、生きる源泉ともいえる想像力までも失った。また、
そういう場所さえも失った。想像力を失えばこの世で実現する創造
物さえもなくなるのである。つまり来るべき未来が描けない。

「利潤なき経済社会」ではマネーを手段に転落させることで、資本主
義の論理が大きく揺らぐだけではなく、世界の構造が大きく転換し
てしまう。これまで築き上げてきたもろもろが崩壊に直面している
と言っても過言ではない。それは日本が明治維新以降追求してきた
西洋文明であるかもしれないし、合理化の名のもとに推進されてき
た科学万能主義であるかもしれないし、それを基点とした物質文明
であるかもしれない。

「供給=需要」人生で「危機感」を抱くこともなくなった私たちが
、価値観の転換をはかることは容易にできそうもないのは明白だ。
しかし、マネーの目的化による「供給=需要」経済活動では世界は
やがて行き詰まる。価値観の転換は時間も要するだろうが、案外石
油の枯渇がその契機になりはしないかと、私は密かに思っている。
その「危機感」が「自分」と真剣に向きあうことになり、それが男
女双方への理解へと向かわせる。そこから男女双方の想像力が生ま
れ、それが創造力へとつながり実現化し、新しい未来が描けるとい
うものである。
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利潤なき経済社会4−「近代的市場」とは何か あっしら

■ 「近代経済システム」における市場
「近代経済システム」は、競争関係(社会的分業)にある諸経済主
体が市場原理に規定されながら動くものである。

個々の経済主体は、“正しい”資本活動を行ったのか、他との競争
で優位に立っているのかについて、活動成果である財や活動内容で
ある用役を市場に供給し、そこの需要フィルタを通すことで初めて
わかる。
“誤った”資本活動を行っていれば、売上(利益)を逸したり、利
潤が獲得できないだけではなく、原価を回収できなかったり、資本
全体を失うことにもなりかねない。
他より“劣った”競争力であれば、原価を回収できなかったり、破
綻を迎えることにもなる。

「近代経済システム」における市場は、競争の強弱や有無は認めら
れる社会的分業をつなぐ唯一の結節点であり、経済活動の成果を交
換する仕組みである市場なくして社会的分業そのものが成立しない。
市場とは、社会的分業そのものである。

近代の経済活動主体である資本は、自己(家族を含意)の必要を満
たした後に残った財や用役を市場に供給しているのではなく、そも
そも、他者が保有している通貨を得る手段として財や用役を市場に
供給する活動を行っている。
「近代経済システム」は、このような意味で、財と通貨の交換を
はじめとする諸取引の場である市場が存在しなければ一時としても
存続できない性格を持っている。

また、「近代経済システム」における唯一の主体である資本を保有
せず自己の活動力のみ保有している人々は、活動力を市場を通じて
資本が保有する通貨と交換しなければ、「近代経済システム」にお
ける生存活動である資本活動に加わることができず、家族を含めて
現代的生活の維持がおぼつかなくなる。(公務活動も活動力を販売
することでは同じ)
このような意味で、労働力市場は近代的市場のサブシステムであり
、その広がりが、「近代経済システム」の支えでもある。
(家族や共同体の活動で生存が維持できる状況が残っていればいる
ほど、資本が存続や拡大のために必要とする市場に参加する数と量
が減少する)

生産活動が自己(家族・共同体)の必要を満たすためのものであれ
ば、備蓄や税負担を含めた必要量を得る以上の活動を行って無駄骨
を折るというようなことはしないだろう。
また、余剰の生産物があり、それを市場に供給するとしても、余剰
生産物であれば、それが思ったほど売れなかったり価格が安くとも
、自己の生存や再生産活動が不可能になるわけではなく、過去の活
動の一部が無駄骨になるだけである。

しかし、近代の資本(経済主体)は活動成果の全量を販売すること
を目的としているから、供給する財や用役が思うように販売できな
ければ、再生産が維持できなくなったり、破綻に陥ることになる。
資本の増殖は、偏に販売市場(需要)の拡大に負う。
だからこそ、西欧諸国や日本は、軍事力を行使してまで販売市場を
確保しようとしてきた。

前近代においても、職人や商人など自己のためではなく他者のため
に財や用役を供給する活動はあったが、それらが社会全体に占める
割合は低く、供給対象(需要)との関係性も具体的なものであった。
(農耕機具は、農業共同体の需要状況との見合いで生産され、過剰
生産という問題は生じなかった。武器製造は、現在と同じように、
政治的支配者との関係で行われ、生産者を再生産ができない状況に
追い込めば、政治的支配者の存続が危ぶまれることになる。奢侈品
も、顔が見える一部限定層相手のものであり、彼らの庇護のもとで
生産されていた。用役のほとんどは支配層や金持ちの“お抱え”で
あり、芸能の一部などが大衆を支えにしていた)

前近代と近代の市場の差異を要約すれば、「限定性と普遍性」・「
具体性と抽象性」・「部分性と全体性」・「機能性と規定性」と列
挙することができる。

● 「限定性と普遍性」
これは、社会(共同体)の生産活動循環を維持する上で市場が果た
す大きさの違いである。
人々の生存と再生産過程の維持にとって、市場がどれほど関わりを
持っているかということの比較である。

前近代は、市場(交換)がなければ、不便であったり余禄を得られ
ないということはあっても、多くの人の生存が脅かされるというも
のではなかったが、近代においては、市場がほとんどの人の死活に
関わる不可欠の存在となっている。

これを、異なるニュアンスとして「利便性と不可欠性」と言い換え
ることができる。

● 「具体性と抽象性」
これは、市場を媒介とした経済主体(人々)の関係性の違いである。

前近代であれば、供給者と需要者は基本的に顔見知りで、相互が欲
しいものを持っているのであれば、通貨を媒介としない交換(市場
取引)も行われていた。
近代では、生産財や原材料といった経済主体間の取引では顔見知り
という関係性も維持されているが、最終供給者とその需要者は、宣
伝や調査などを通じて出来あがったイメージとしてお互いが知って
いる気分になっているだけで、通貨を媒介とした非人格的交換が原
則である。

具体的有用性を欠落させた“財”である通貨があらゆる財や用役の
交換手段になっている現実が、近代における人的関係性の抽象性(
よそよそしさ)を再生産している。

● 「部分性と全体性」
これは、生産される財(活動成果)のどれほどが市場を通じて取り
引きされるのかという比較である。

前近代は、生産者にとって余剰とみなされる生産物が支配者によっ
て徴収され、政治的支配層においても生じる余剰が他の財との交換
のために市場に供給されるというものだった。(支配層が求める軍
備や奢侈的な財とそれらを生産する人々が必要とする必需財を交換
する機能として市場(商人)が存在したと言える)

現在においては、農家が自家消費する程度で、生産されるほとんど
の財が市場を通じて他者に販売されている。
近代的生産活動は、生産する全量が他者に販売されることを前提に
行われている。

(オーナー企業の経営者であれば対価なしで生産した財を手に入れ
ることはあるが、そのような行為は“近代人”とは言えないもので
ある。ちゃんと買って、報酬や配当として支払った通貨を回収しな
ければならない)

● 「機能性と規定性」
これは、市場が生産活動(生存維持活動)にどういう影響を与える
かという判断である。

前近代の市場は、余剰生産物を保有している人が他の財と交換した
り、基礎的生存必需財を生産していない人の不足を補う機能として
存在したが、近代の市場は、生産活動そのものを規定する“厳然た
る力”として存在している。
(この規定性をもって、「近代経済システム」は市場原理と言える)


“市場原理”を尊ぶ人たちが、市場が内包するこのような歴史性を
了解しているとはとうてい思えない。
「近代経済システム」における“市場原理”とは、商業原理(金融
原理)の横溢であり、生産活動の論理が抑え込まれた特殊な近代限
定の市場原理でしかないのである。

「近代経済システム」は、経済論理的に言えば、あらゆる生産活動
を商業活動の内包物に変容させた。

商人が商品を造る生産部門を持つようになり、生産活動が目的であ
る商業活動の手段となったと考えればわかりやすいだろう。
現実としては生産者が商業活動も行っているように認識されている
が、歴史的には国際商人が近代産業の成立条件をつくりだした。
産業家とは商人の特性を持った生産者であり、商人の特性を持たな
い生産者はいかに物づくりに長けていようとも産業家にはなり得な
い。
一方で、生産者の特性を持たない人であっても、商人の特性を持っ
ていれば産業家になり得る。

これは、生産するものが他者が保有する通貨に変えるための商品で
ある限り、“良い物”であることより“売れる物”であることが重
要視され、“悪い物”であっても“売れる物”であるならば問題が
ないと思料される基礎でもある。

生産活動の商業化という商業論理の横溢こそが、「近代経済システ
ム」の特質であり、市場原理と認識される所以である。
生産活動のこのような性格変化により、市場が生産活動を規定し、
ときには、市場という機能が生産活動=生存活動を破壊するまでに
なった。

(物納から貨幣納への転換が農民に与えた打撃は、2・26事件を
引き起こしたことでわかるように計り知れないものがある。米価が
どんなに安くなっても売ってお金に換えなければ、税を支払うこと
もできず、残りの家族の生存のために娘を身売りすることにもなる)

市場原理とやらが、経済学者や政治家が語っているように、経済資
源の最適配分や経済主体に利潤をもたらすものだろうか?
最適配分は、別に“最大多数の最大幸福”という価値観的基準では
なく、純粋“資本の論理”を基準にした評価である。

市場原理は、商才に長けた経済主体が“利潤”を手に入れ、それが
再投資されるのであれば、それらの経済主体の意向に従って資源の
再配分が行われるようというものであって、資源が“資本の論理”
(個別経済主体ではなく国民経済)に適うかたちで最適に配分され
るわけでも、利潤を創出することもない。

なぜなら、経済資源が市場原理で最適に配分されていないからこそ
、何度なく恐慌や不況が起きてきたのであり、利潤が、市場原理で
生み出されるものではなく他者からの移転でしかないからこそ、
その抱え込み(“余剰通貨”)は経済活動を縮小させてしまう。
(恐慌や不況が資本制のリストラクチャーの役割を果たしてきたこ
とを無視しているのではなく、そのような過程を通じてでしかリス
トラクチャーできないことを問題にしている)

再投資もしくは資本化につながらない利潤(“余剰通貨”)に相当
する通貨的富が、貿易黒字や投資ないし金融果実として外部国民経
済から流入してきたり、政府部門が赤字財政支出で補われれば、経
済活動は縮小しないで進んでいくことができる。

市場原理がどんなに立派なものでも、その仕組みによって利潤を発
生させることはできないのである。
ある経済主体が利潤という名の超過利得を得れば、別のある(残り
の)経済主体は単純な再生産さえ不可能になる。
ある経済主体が利潤を獲得し続け、それを再投資に向けない事態が
発生すれば、経済活動は縮小し、残りの経済主体は徐々に破綻して
いくことになる。
(これは同時に、貸し出し利息についても言えることである。金融
家が貸し出しを通じて生産者から利息を取れば、経済主体は単純な
再生産さえ不可能になる。借り入れをしているからといって、生産
した財が必ずしもその分高く売れるわけではない)

利潤を得ることが善とされる経済価値観を基礎に、市場が利潤を獲
得するための仕組みとして存在する限り、利潤が退蔵されることに
より、利益の獲得できないどころか国民経済が縮小していく。

市場原理の礼賛は、「近代経済システム」ではそのような方法以外
に資源を配分するしかないという現実の追認でしかない。

市場原理重視者が「そのようなことはない。市場原理に従えば、皆
とは言わないが、多くの人は経済的利益を上げられるはずだ」と言
うのなら、その論理を示して欲しい。

日本が既に陥り、これから世界(先進諸国)が陥ろうとしている「
デフレ不況」及び過剰不良債権=過剰債務(銀行の預金を含む)の
根源は、“余剰通貨”の放置が国民経済活動を縮小させるという当
たり前の論理が深刻なレベルで顕在化していることにある。


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