1815.最新日本政財界地図(19) ソフト・パワー100年の威力



YS/2004.11.17



最新日本政財界地図(19) ソフト・パワー100年の威力



■森有礼の英国留学

 森有礼がスウェーデンボルグ主義の教団のカリスマ的指導者であ
ったトーマス・レイク・ハリスに出会たのは英国留学中のことであ
る。森は新渡戸稲造や内村鑑三と並んで日本におけるキリスト教の
受容に大きな影響を残し、この人脈が後に新渡戸らの人脈と合流し
ていくのである。

 森の英国留学は薩英戦争(1863年)以後、開国の立場に転じ
た薩摩藩が密航の形で送り出したもので、1865年4月に森を含
めた薩藩留学生15人と五代友厚や寺島宗則ら4人の外交使節が海
を渡った。海外渡航は当時国禁であったため、留学生らは藩からそ
れぞれ変名を与えられ、羽島浦(串木野郊外)から旅立つことにな
る。 
 
 留学生達を乗せた「オースタライエン号(オーストラリアン号)」
はグラバー商会所有の船であった。そして、一行をロンドンで出迎
えたのもジェイムズ・グラバーとグラバー商会のライル・ホームで
ある。この二人は留学生達の教育プランの作成や生活面の支援など、
広範囲に渡って世話をすることになる。ジェイムズ・グラバーはグ
ラバー商会のトーマス・ブレイク・グラバーの兄にあたり、実質薩
摩藩による英国派遣を支援したのはスコットランド生まれのトーマ
ス・ブレイク・グラバー率いるグラバー商会であった。

 1863年9月の生麦事件の報復として英国艦隊が鹿児島湾に侵
入、そして薩英戦争が始まった時、五代友厚は寺島宗則とともに指
揮していた蒸気船三隻を拿捕され、船を焼却された上、捕虜になっ
ている。その失態を怒った同藩士から命を狙われるが、その時に五
代をかくまったのがトーマス・ブレイク・グラバーであり、この時
から五代とグラバーとの密接な関係が築かれ、この人脈から英国派
遣が実現したのである。

 グラバー商会は、資金の大部分をオランダ貿易会社とジャーディ
ン・マセソン商会に依存していたが、薩摩留学生の学資もジャーデ
ィン・マセソン商会(香港)の信用状にもとづいて、マセソン商会
(ロンドン)が薩摩藩の手形を割り引く形で前貸ししていた。従っ
て、実質的な薩摩留学生の支援者はジャーディン・マセソン・グル
ープであった。

 留学生活の準備に追われている時に、ライル・ホームが3人の長
州人に出会ったとの情報がもたらされ、1865年7月2日に薩長
留学生達が英国の地で出会うことになる。

■英国で出会う薩長密航留学生

 この3人とは野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助、山尾庸三であり、
1863年5月に同じく密航の形で日本を出発していた。当初は志
道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)を含めた5名であったが、聞
多と俊輔の2名は、実際に海外に出て攘夷の無謀を痛感し、タイム
ズ記事で長州と英米仏蘭との間で戦争が始まるとの情報が入ったこ
とから、留学を放棄し1864年4月にロンドンを発ち、戦争を中
止させるべく奔走していたのである。

 英国では後に長州藩から密航した5人の若者を「長州ファイブ」
と呼び、彼らもまた明治維新の原動力となった。

 この長州留学生はジャーディン・マセソン商会(横浜、英一番館)
のウィリアム・ケズウィックや英国領事ジェイムス・ガワーの協力
を得て、ジャーディン商会所有のチェルスウィック号で上海に渡り、
ロンドン行きの貨物船ペガサス号とホワイト・アッダー号に分乗し
ながらロンドンに到着している。

 そして、英国留学中の世話役になったのは、ジャーディン・マセ
ソン商会の創業者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたり、
マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めたヒュー・マセソンで
あった。

 このヒュー・マセソンの紹介で、長州留学生はロンドン大学ユニ
バーシティー・カレッジのアレキサンダー・ウィリアム・ウィリア
ムソン博士と出会う。ウィリアムソン博士は、ユニバーシティー・
カレッジの化学教授を務めながら、英国学士院会員、ロンドン化学
協会会長などの要職に就いており、偏見にとらわれない世界主義的
見解の持ち主であった。また、思想的には、ジョン・S・ミルの功
利主義やオーギュスト・コントの実証哲学の信奉者として知られて
いた。

 長州留学生5人はウィリアムソン博士がいるユニバーシティー・
カレッジに学びながら、揃ってイングランド銀行を見学するなど最
先端の知識を吸収していった。

 伊藤博文、井上馨のその後の名声は語るまでもないが、井上勝は
初代鉄道局長官として日本の鉄道の発展に寄与し、山尾庸三は工部
大臣として活躍、遠藤謹助は洋式の新貨幣を鋳造して現在の造幣局
のもとをつくった。

 薩長連合の成立は1866年1月、それより先の1865年7月
に遙か彼方英国の地で後の日本を背負う薩長の若き密航留学生達が
出会い、留学生サークルも誕生し、親密な交流が始まっていたので
ある。

■留学生を送り込んだ幕末・維新期のビッグ・リンカー

 まず、薩長の留学生を密航させたグラバー商会とジャーディン・
マセソン商会に関わる人物のビッグ・リンカーとしての側面を見て
いきたい。

 密航留学生などを通じて薩摩・長州両藩との人脈を築いたトーマ
ス・ブレイク・グラバーは、欧米列強に対抗すべく軍備強化に乗り
出していく幕末・維新期の日本にあって武器商人として華々しい活
躍を成し遂げる。少し長くなるが、すでに両書とも入手困難になっ
ているため、杉山伸也の『明治維新とイギリス商人』(岩波新書)
や石井寛治の『近代日本とイギリス資本』(東京大学出版会)のグ
ラバー商会とジャーディン・マセソン商会の艦船・武器の取引内容
を紹介しておく。

 幕府は1862年7月に外国艦船の購入を許可すると、幕府や各
藩は競って契約に乗り出し、日本は格好の外国艦船マーケットとな
った。こうした中でグラバーはジャーディン・マセソン商会から委
託されて、鉄製蒸気スクリュー船カーセッジ号(12万ドル)を幕
府経由で佐賀藩に売却した1864年10月を契機に本格的な艦船
取引に乗り出していく。

 艦船取引は利潤も大きく、このカーセッジ号についても販売価格
12万ドルに対して簿価は4万ドルとなっており、この取引だけで
ジャーディン・マセソン商会は5万8000ドルの純益をあげてい
る。

 グラバーはこの艦船取引に際して下の三つの方法をとっている。

(1)グラバーが蒸気船や帆船を見込みで買いつけ、商会用にすで
に運航させている船舶を売却する。

(2)グラバーが、ジャーディン・マセソン商会やデント商会など
の販売希望者、あるいは幕府や諸藩など購入希望者からの委託をう
けて適当な購入先や船舶をさがし、仲介・斡旋の手数料をとって販
売する。

(3)幕府や諸藩からの依頼によって艦船の建造の仲介をする。

 この中で特に(2)の場合、利潤はジャーディン・マセソン商会
とグラバー商会の間で折半されることになっていたが、仲介者への
手数料などの経費は予定価格に上乗せして販売されていた。

 留学生達が英国で学んでいた頃、すなわち1864年から68年
の5年間にグラバーないしはグラバー商会の名前で販売された艦船
は24隻、価額にして168万ドルに及ぶ。これは、同時期に長崎
で売却された艦船の約30%、価額にして36%にあたる。そして、
この売却先は薩摩藩が最も多い6隻、ついで熊本藩の4隻、幕府、
佐賀藩、そして長州藩の各3隻となっている。しかし、薩摩藩6隻
の内のユニオン号(桜島丸、後に乙丑丸)は土佐藩士である上杉宗
次郎(近藤長次郎)が仲介して長州藩が薩摩藩名義で購入した船で
あり、実際には薩摩藩5隻、長州4隻となる。

 グラバーはこうした艦船の売却以外に、各藩の依頼によって英国
での船舶建造も仲介していた。この建艦は、グラバーの長兄である
チャールズ、そして薩摩留学生達をロンドンで出迎えたジェイムズ
らがアバディーンで設立した船舶保険会社、グラバー・ブラザーズ
社を通じて行われている。

 最初に建造された艦船はサツマ号で1964年に建造されている。
薩摩藩が発注したのは『薩摩海軍史』では1865年となっている
ことから、発注前に建造されていることになる。このサツマ号は不
運にも日本への回航の途中に破船しているが、薩摩留学生が密かに
旅立ったのが1865年4月だったことを考えれば、この建造費用
の処理などをめぐる話し合いが五代友厚立ち会いのもとで密かに英
国で行われていた可能性が高い。薩摩藩は留学生とともに英国に渡
る五代に対して小銃、弾薬、紡績機械の買い付けに当たらせていた
のである。

 グラバー・ブラザーズ社が手掛けた日本向け建造船舶はサツマ号
を含めて7隻あるが、この内の鳳翔丸と雲揚丸の二隻が長州藩発注
となっている。

 グラバーはこの艦船取引の他に、小銃や大砲などの武器や弾薬類
のビジネスも手掛けており、1866年1月から7月と1867年
に長崎で売りわたされた小銃の合計3万3875挺の38%にあた
る1万2825挺を扱っていた。

 中でも有名なのが長州藩との取引である。幕末の長州藩は幕府の
敵で、長崎では武器の購入ができない。そこで、1865年、土佐
の坂本龍馬や中岡慎太郎らは薩長和解のために亀山社中を使って薩
摩藩の名義でグラバーから武器を購入して長州藩に譲り渡す仲介を
し、7月には長州藩は薩摩藩士になりすました英国留学組の伊藤博
文と井上馨を長崎に派遣した。この時の取引でミニェー銃4300
挺、ゲベール銃3000挺を9万2400両で購入した。

 この亀山社中が斡旋した艦船取引もある。土佐藩士である上杉宗
次郎(近藤長次郎)が仲介して薩摩藩名義で購入したユニオン号が
これにあたる。しかし、この仲介は表面化し、上杉宗次郎は盟約違
反を同志らに問われ切腹する。長州から得た謝礼金をもとに英国留
学に旅立つ目前であった。

 また、グラバーは幕府から薩英戦争で鹿児島の街を焼き尽くす最
新式のアームストロング砲35門、砲弾700トン、総額18万3
847ドルにものぼる大量の注文を受けていた。一部は1867年
に長崎に到着していたものの、幕府は瓦解寸前で、新政府側に同砲
は渡った。仮に幕府が入手していたら、戊辰の戦いだけでなく、そ
の後の国の行方さえ違っていたかも知れない。

 興味深いのは、薩英戦争前に、薩摩藩はこれから戦おうとする英
国からアームストロング砲100門をグラバー商会に注文していた
ことも記録に残っている。しかし、この話を耳にした外務大臣ラッ
セルが1863年2月20日に販売を禁じる指示を出していた。従
って、グラバーの日本での活動はジャーディン・マセソン商会を通
じて英国政府に伝えられていたことは間違いない。

■マセソン・ボーイズとロスチャイルド家

『多くの冒険の末に、3人(5人の誤り―引用者=駒込武注)はロ
ンドンに着いた。そこで、彼らは、コモン・センスを備えたキリス
ト教的人物の世話になるという幸運に恵まれた。その人は、彼らの
逃亡を援助した会社のメンバーであった。ヒュー・マセソンである。
今日の日本は、ヒュー・マセソンの相談と世話に少なからぬものを
負っている。「はい、私はマセソン・ボーイズの一人でした」。先
日、日本の首相は私に語ってくれた。「私は多くのものを彼に負っ
ています。」』

 上は京都大学の駒込武の『「文明」の秩序とミッション―イング
ランド長老教会と19世紀のブリテン・中国・日本―』(『地域史
の可能性―地域・世界・日本―』山川出版社)からの引用であり、
日清講和条約締結の準備が進められていたさなかの1895年3月
4日の『ウエストミンスター・ガゼット』に掲載された伊藤博文首
相へのインタビュー記事である。

 駒込によれば、この記事の中で伊藤は、交渉相手である中国政府
の非文明的な性格、たとえば責任の所在の曖昧さについて不平を漏
らすとともに、李鴻章は「私の西洋に対するすべての知識と、私が
日本で行ってきたすべての改革について知識を得たがっていた」と
誇らしげに語っている。

 また駒込は英国に密航した5人の長州留学生を『いち早く西洋近
代文明への「改宗者」になった』と評し、彼らもまた『自分たちの
社会の劣等者を今や彼らが「文明」とみなすものに向けて改宗させ
るための、もっとも熱心な宣教者となる』と書いている。

 続けて、当時の覇者英国は、キリスト教的な使命感も手伝って、
自国を「文明化の使命」と位置付け、『「文明」の担い手にふさわ
しい人々と、その対極にある「非文明的」な人々を序列化しながら、
多元的な「中心―周縁」構造を生み出していった。「中心」は「周
縁」の人々を魅きつけ、「周縁」から「中心」への旅を生み出すこ
とになる。』とし、『近代日本は、そこからキリスト教をとり除き、
天皇制という疑似宗教を忍び込ませるという作業を密かに行いなが
ら、「文明化の使命」という点ではブリテンを模倣しようとした。』
と結んでいる。

 グラバー家は英国国教会に近いスコットランド聖公会に属し、ト
ーマス・ブレイク・グラバーもフレイザーバラにある聖公会系のセ
ント・ピーターズ・エピスコパル教会で洗礼を受けている。

 そして、英国留学生の世話役になっていたヒュー・マセソンは、
イングランド長老教会の海外宣教委員会の委員長を1867年から
1898年までの30年以上の長きにわたって努め、宣教師の人選、
現地の活動状況に応じた資金の配分などに大きな権限を持っていた。
つまり、ビジネスマンと宗教家のふたつの顔を持っていたことにな
る。そして、スコットランドの「ケルト辺境(Celtic fringe)」の
出身者としてのケルト民族であったことにも注目しておきたい。

 駒込の「中心―周縁」構造を借りれば、イングランド出身の英国
国教会徒が当時の英国の「中心」に位置している中にあって、その
「周縁」にいたスコットランド系のヒュー・マセソンとグラバーは、
英国の「中心」へと駆け上がる野心から、日本を「自らの周縁」に
するために「周縁」としての薩長と手を組みながら「中心」である
幕府を崩壊させたことになる。

 グラバーは、明治維新の成功が長崎貿易の縮小をもたらし経営が
悪化、倒産に至る。しかし、高島炭坑の支配人、三菱が高島炭坑
を買い取ってからの渉外担当顧問として、岩崎彌太郎、彌之助、久
彌に仕え、キリンビールの基になったジャパン・ブルワリー・カン
パニーの経営にも携わりながら、1911年12月16日、「周縁」
の地の歴史に名を刻みながら麻布富士見町の自邸で息を引き取った。

 多数のグラバー関連文書が見落としてきた重要な事実をここで指
摘していきたい。グラバーとは対照的にヒュー・マセソンは英国の
「中心」を率いるエスタブリッシュメントとして、1873年3月
に鉱山採石最大手と知られるリオ・ティント(リオ・ティント・ジ
ンク、RTZ)を設立し、1898年まで会長を務めた。設立に関
わった金融業者、事業家による国際コンソーシアムの中にはロスチ
ャイルド家の名前もあった。さらにロスチャイルド家は1887年
から89年にかけてリオ・チィントの大株主となり、経営に大きな
発言力を持つようになる。

 左手のアヘンを兵器に持ち替え、「左手に兵器、右手に聖書」と
なったグラバー商会やジャーディン・マセソン商会は、密航という
手段を用いてまで、「周縁」の若き担い手達を留学生として「中心」
に招き入れることで、人的交流を深めながら「周縁」との関係を強
化しつつビジネスにつなげていった。

 この手法は、ヒュー・マセソンやロスチャイルド家によって英国
の「中心」に取り込まれ、ハード・パワー一辺倒の戦略から「ソフ
ト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」へと転換させていく
のである。

■ソフト・パワー100年の威力

 英国の「ソフト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」を最
も象徴するのが、ローズ奨学生制度である。

 ローズ奨学生制度は、英植民地政治家として知られたセシル・ロ
ーズがロスチャイルド家の支援を受けて南アフリカで1888年に
興した世界最大のダイヤモンド生産・販売会社であるデ・ビアスな
どの財産をもとに1903年に創設された。

 大英帝国繁栄のシンボルであったビクトリア女王の死去(190
1年)、そしてボーア戦争(1899−1902年)では予想外の
苦戦を強いられ、国際的な正統性を失い孤立を深めていく。エドワ
ード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を引き合いに大英帝国の衰退
と没落が語られ、自信喪失感が漂い始める。彼らの目には1904
年から翌年にかけての日露戦争で勝利した日本人が、愛国心に富み、
ロシアに対し一丸となって戦うモラル高き民族に見えた。

 ハード・パワーの限界に直面した英国にあって、ソフト・パワー
強化のためにローズ奨学生制度が生まれ、1907年には日本の武
士道に影響を受けてボーイスカウト運動が始められる。ボーイスカ
ウト運動を提起したベーデンーパウエル卿もセシル・ローズの土地
を意味するローデシアや南アフリカで前線部隊総司令官などを務め
ており、初期段階の次世代の兵士を育てるための青少年への軍事訓
練としてのボーイスカウト運動は瞬く間に世界へと拡がっていく。

 およそ100年を経て、新たな「中心」となっているにも関わら
ず、英国の影響を強く受けたローズ奨学生政権が誕生した。クリン
トン前大統領を筆頭にウールジーCIA長官、タルボット国務副長
官、ステファノポロス大統領補佐官、ライシュ労働長官など、いず
れもローズ奨学生だったのである。

 このローズ奨学生政権を僅差で破って誕生したブッシュ政権は、
再選をかけた戦いを聖戦と位置付け、両政党にまたがる国際派エリ
ートを自負する東部エスタブリッシュメントを見事なまでに叩きの
めし、名実ともに「周縁」が「中心」へと躍進した。

 軍産インナー・サークルとキリスト教右派・ユダヤ教右派連合に
支えられたはブッシュ政権は、「左手に兵器、右手に聖書」の強力
な陣営を率いて、現代版十字軍遠征に進軍していくのである。

 ローズ奨学生であったミスター・ソフト・パワーことジョセフ・
ナイは、ハード・パワーを過信するブッシュ政権に警告を発し、巷
ではボーア戦争とイラク戦争を重ね合わせながら、今再びギボンの
『ローマ帝国衰亡史』が注目を集め始めている。

 若きクリントンにローズ奨学生になることを勧めたのは、自らも
ローズ奨学生として英オックスフォード大学に学んだJ・ウィリア
ム・フルブライトである。このフルブライトが上院議員時代に広島、
長崎への原爆投下にショックを受け、「世界の平和を達成するため
には人物の交流が最も有効である。」との願いから1946年に創
設したのがフルブライト交流計画である。

 このフルブライトの奨学金でこれまでに米国に留学したフルブラ
イターと呼ばれる日本人同窓生は約5900名にのぼり、官界、法
曹界、金融界、財界、学界、ジャーナリズム、芸術分野で戦後の日
本を支え、数多くのビッグ・リンカーを生み出す国際派エリート人
脈を作り上げている。しかし、本来リベラルであるはずの彼らは、
フルブライトの平和への願い虚しく、イラク戦争をも受け入れた。

 100年後のモラル高き民族は、西洋近代文明の改宗者から熱心
な宣教者へと見事に変貌を遂げ、ハリウッドから届けられたスクリ
ーンの中だけの「ラスト・サムライ」を呆然と眺めていた。

 そして、米国と並ぶ世界的なダイヤモンドジュエリー市場となり、
給料3カ月分神話に支えられて今なお「永遠の輝き」を放ち続けて
いる。

 これが「ソフト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」の威
力である。

▼参考引用

駒込武『「文明」の秩序とミッション―イングランド長老教会と1
9世紀のブリテン・中国・日本―』
http://www.educ.kyoto-u.ac.jp/~koma/mission.html

1873    The Rothschilds become shareholders in Rio Tinto
http://www.rothschild.info/history/popup.asp?doc=articles/pophist2_1873

1887    The Rothschilds finance the establishment of De Beers
http://www.rothschild.info/history/popup.asp?doc=articles/pophist2_1887



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