1726.太平洋戦争の実相



「太平洋戦争の実相 −8.15を機に−」

今夏も8月15日が過ぎて行く。
終戦記念日を避け今年は既に1月に参拝を済ましたため、靖国神社に小泉首相の姿は
ない。

さて、小泉首相の事はともかく、我が国の歴代首相等の靖国参拝が問題とされる理由
としてA級戦犯合祀や政教分離の事が挙げられているが、そもそもより根本的な背景
には歴史の総括がなされていない事がある。

太平洋戦争とそこに至る過程を近代世界史の中に位置付け、反省すべきは反省し説明
すべきは説明し内外に表明する事が、8月15日に靖国参拝を行うか否かという形態
的な問題以前に本来日本の首相がするべき事である。
また、筆者はそれが国家のために死んで行った英霊を安んじるに不可欠であると考え
る。

◆開戦の背景
太平洋戦争開戦に至る流れを述べるためには、1868年の明治維新以前から辿らな
ければならない。
15世紀の大航海時代を経た欧米列強は帝国主義に基づき、世界各地の植民地化を進
めてきた。
アメリカ等の圧力によって為された日本開国もその一環である。

幕末の志士と明治の元勲達の巧みな舵取りに加え、アメリカが南北戦争で身動きが取
れない等の当時の国際情勢の僥倖が重なり、開国後日本は富国強兵、殖産興業を図
り、日清、日露の戦争を勝ち抜く事によって植民地にされる危機から次第に脱した。

これらは、日本をロシア等による侵略の脅威から防ぐと共に、列強の植民地主義勢力
の側に加わった事も意味した。
帝国主義の時代においては、弱肉強食がルールである以上、地勢学的条件によっては
防衛と侵略は明確には区分し難い。

遅れてきた帝国である大日本帝国と、同様に遅れて来て西部開拓の延長として西進を
図るアメリカ合衆国は、中国等の権益を巡り必然的にぶつかり合う事になる。

そして、イギリスに強いられた1922年の日英同盟解消が、日本がアングロサクソ
ンと覇権をかけて対立する外交上のターニングポイントとなってしまった。
また、1928年のケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)は侵略戦争を否定した
進歩的なものだったが、これによって欧米列強が既存の植民地主権を固定化しようと
いう流れが固まりつつあった。

特に、1929年の世界大恐慌後は、先進する欧米列強がブロック経済等で守りの体
制に入る事に対して、既に27年に金融恐慌に見舞われていた日本は、治安維持法の
強化や31年の満州事変の様に、全体主義体制と侵略的要素を強めて対抗しようとし
た。

これまでの帝国主義に基づく列強間のロジックによれば、満州事変による日本の満州
(中国東北地方)の植民地化は、産まれたばかりのケロッグ=ブリアン条約はあれど
滑り込みセーフだったのかもしれない。事実リットン調査団による「侵略」認定を聞
き流しても当時の国際連盟は現在の国際連合以上に微力であり、満州の実効支配を続
け日本の大陸進出をそれに止めれば、やがて国際的認知を得られたとの観測は近代史
学者の中にも少なくない。

◆開戦と敗戦
しかし、日本はその道を選ばなかった。
内外の曲折を経ながら、32年の松岡洋佑外相による国連脱退、37年の盧溝橋事件
に続く日華事変、40年の日独伊三国軍事同盟、大政翼賛会発足、仏印進駐、41年
の日米交渉、ハルノート通告と受諾拒否と続き、同年12月8日の真珠湾攻撃による
開戦に至る。

その後、日本軍はマレー沖海戦のイギリス東洋艦隊の主力を全滅させ、香港・マレー
半島・シンガポール・フィリピン・オランダ領東インド・ビルマなど西太平洋および
東南アジアのほとんどの地域を占領する破竹の進撃で緒戦を制した。

だが、42年6月のミッドウェー海戦での敗北を契機に、日本は制海・制空権を失い
戦局は逆転。同年後半からアメリカ軍を中心とする連合国軍が本格的な反攻を開始
し、翌年以降、ガダルカナル島・アッツ島からの撤退、44年6月マリアナ沖海戦で
海軍の空母・航空機の大半の消失、インパール作戦失敗、サイパン島の陥落、グアム
島陥落、フィリピンのレイテ沖海戦での日本の連合艦隊壊滅、アメリカ軍のフィリピ
ン上陸、同年11月からのB29による日本本土空襲本格化と敗戦色は決定的となっ
た。

45年3月東京大空襲、日本の主要都市は空襲で焼け野原と化し、硫黄島の戦での玉
砕、4月アメリカ軍沖縄本島上陸、5月ヨーロッパでのドイツ降伏、7月米英ソ3カ
国首脳が日本の無条件降伏をもとめるポツダム宣言を発表、2月ヤルタ会談でソ連の
対日参戦等が密かに決定された。
日本のポツダム宣言拒否を理由に、アメリカは同年8月6日に広島、ついで9日に長
崎に原子爆弾を投下、日本政府と軍首脳部は天皇の聖断によってポツダム宣言の受諾
を決定、14日に連合国側に通告、15日には天皇が玉音放送を通じて国民に知ら
せ、約4年間にわたる太平洋戦争は日本の敗戦で遂に終結に到る。

◆歴史的位置付け
このように、太平洋戦争は英米に対しては、アジア、太平洋の覇権を掛けての戦いで
あった。

同時に、東南アジア諸国に対しては、この覇権戦争のための物資供給を主目的とした
侵略戦争であった面が強い。
戦争目的としてのアジア開放は、これを純粋に考えていた者もいるが、八紘一宇の言
葉が開戦後に初めて唱えられたことに示される様に、少なくとも体制的には後付けで
考えられたものである。

なお、敗戦の原因として、物量面で元々勝てない戦いであった事以外に、日本軍の
数々の作戦の失敗を見るに当時の日本の全体主義が米英の民主主義、自由主義に較べ
てシステムとして著しく合理性を欠いていた事も否定できない。

太平洋戦争が起こり、日本が緒戦の勝利に引き続き大敗した事が、結果として欧米列
強による植民地支配体制を終焉させる発端となった。
敗戦により日本が去った後に戻ってきた旧宗主国は、東南アジア諸国を再び同じよう
に植民地化する事は出来なくなった。
この連鎖反応として、アフリカ諸国等でも民族意識が高まり、植民地支配を難しくし
た。
なお、もし日本が太平洋戦争を勝ち抜いていれば、日本によるアジアの植民地支配が
形を変えて続いていた可能性は否定出来ない。

植民地主義は、数世紀スパンで歴史の流れを俯瞰すれば、先進国の文化文明、産業が
植民地に移植され世界に広まるための器であったとも言える。
同時にそれは、現地民に流血や服従、搾取を強いた。
この矛盾は、最終的には植民地支配の開放により解消され、世界がトータルで発展の
方向に向う事になる。

これを角度を変えて、歴史を「自由を目的とする絶対精神の自己展開」として捉える
19世紀の哲学者ヘーゲルの世界史観に則せば、仮に欧米による植民地支配=「正」
として、日本の進駐=「反」、これらを止揚する日本の敗北と解放戦争の勝利等によ
る植民地支配体制の終焉=「合」との弁証法的展開の見方が大局で成り立つ。
(なお、「正」「反」はヘーゲル哲学の用語であり、何らの価値判断を含まない。)

筆者は、太平洋戦争は様々な要素を含むが、その実相、本質を短く述べるとすれば上
記のような事だと考える。

◆通過義礼としての総括
戦争責任という言葉があるが、負けた責任なのか、侵略した責任なのか、米英に刃向
かった責任なのか、固定化しつつあった列強の権益を覆し当時の世界秩序を乱した責
任なのか、極東軍事裁判の判決はともかく、この言葉は渾然とした曖昧な使われ方を
しているのが現状である。

太平洋戦争については、米英に刃向かった責任等は戦の習いで「勝てば官軍」の世界
に過ぎないが、合理的に見ても元々勝てない戦争をして国民が苦しんだという失策の
面と、結果的な植民地体制終焉を踏まえつつも侵略により国によって濃淡はあれどア
ジア諸国に流血と服従の苦しみを与えた事実の二つの責任が日本政府にはある。

A級戦犯等の戦争指導者は指導者責任として上記の二つの点につきより重い責任を負
うべきだが、翼賛体制以前は実質的に普通選挙制に基づく国民主権が成り立っていた
事を考えるとこの責任は日本国民全体が負うべきである。
天皇の戦争責任については、当時の曖昧な体制を読み解き、旧憲法上は大元帥であっ
た天皇に実質的に権限があったかどうかで判断されるべき問題である。

なお、日本国将兵が国家意思としての戦争に従事し、国家という「公」のために命を
賭して任務を遂行した事自体は、国家の戦争責任とは切り離すべき別次元の問題であ
り、決して貶められるべきではない。

また、現在もアジア諸国が国により違うが、全体的に欧米よりも日本に反感を持って
いる一因として、日本が植民地主義末期に参入して植民地経営のノウハウが稚拙だっ
た事が挙げられる。
加えて、「赤き清き心」と「祓いと清め」の他は理論的、構造的な教義を持たない日
本神道は、現地人を皇民化、日本人化する意外に教化する方法が無く、物理的にはと
もかく欧米によるキリスト教化より現地の文化、習慣を変更する精神的苦痛を強いた
面が否めない。

日本を含む近代以降の列強による植民地主義、帝国主義は、欧米諸国も総括出来ては
いない。日本は過去の失敗を反省し教訓としつつも、開国後から太平洋戦争までの歩
みを近代世界史の大きなパースペクティブの中に位置付け総括し、内外に向け表明す
べきである。

筆者は、それが日本がアジアのリーダーとして再び立つための通過義礼と考える。

佐藤 鴻全
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 国際戦略コラムno.1719.「脳内現象」と「ダライ・ラマ ゾクチェン入門」

国際戦略コラム NO.1719
「脳内現象」と「ダライ・ラマ ゾクチェン入門」に於いて S子様は 「心の清浄な
光明」 である
「光の体験」をされたと書かれておられますが、もしかして、あの空海が室戸岬にお
いて体験したもの ー  海と空との間から飛来してきた明るく輝く星が口の中に飛び
込んだ ー と同じであったのでしょう!王より
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日の丸こそは天下一

 戦後、日の丸が毛嫌いされて久しい。現代の日本人にとって祝祭
日に国旗を掲揚することは、大東亜戦役の太平洋戦争における敗戦
の記憶を思い起こすこととなり、毛嫌いする人が大変多い。しか
し、最近、私は日の丸こそは天下一と感じるようになった。

 「わたくしの国と歌」(ISBN4−88320−180−5)に
よれば、正式に国旗として日の丸が制定されたのは明治であり、そ
の目的は欧米に対して我が国が決して引けを取らないことを明示す
ることにあったと記されている。また、明治時代の制定以前では、
江戸の安政元年(1854年)に外国船と日本船のと識別を目的と
して、薩摩藩主島津公の発議により日本人の船に日の丸を掲げるよ
うに幕府からのご下命があったそうだ。それ以前においては、遠く
朝廷での政において用いられたことを始まりとして、旗のもつその
勢いが各層の人々に受け入れられ浸透していったとも記されている。

 そうしてみると、日の丸という旗は、諸外国からの圧力を交わす
ため、また内政を切り盛りするというために、軍国化した時にポッ
と決まった事でないことが判る。お叱りを受けるかもしれないが、
敢えて鎌倉幕府の頃に日の丸が使われ始まったとすると、900年
程の歴史の中で、節目節目に掲げられ、また江戸時代においては船
の安全を確保するために掲げられ、単に戦いを意味するものでは無
かった事が判る。その歴史に対して、たかだか8年間の起きた、日
本の歴史にしてみればくしゃみの一瞬である大東亜戦役(盧溝橋の
事変を暫定的に始まりとし、終戦までの間)に日の丸がよく使われ
たからと言って、この旗を捨てることは賢い振舞いだろうか。この
旗には、我らが祖先の900年以上の日本人の愛着が染み付いてい
る旗なのである。


 一方、自分にとって「天皇」がどのような存在であるかと考えた
末、私は「日の丸」という旗の、その勢いの源泉を知った。

 日の丸の「白」は善、清を意味すると私は思う。また、その
「赤」は、古来日本人が大切にしてきた「誠実」を意味すると思
う。つまり、清い心で善を目指し、誠実を以て隣人に接するという
我らが祖先が目指したものを、旗に表現したものを私は信ずる。ま
た、丸でなくてはならず、三角形でも四角形でも星形でもいけな
い。なぜなら協調、協力を大切にしてきた日本人の本質に合致しな
いからだ。

 また、天皇という存在が、人間の善、清さがこの世に存在する証
と考えるならば、白地こそは天皇を意味し、赤い丸はその善と清さ
がこの世に存在することを信じ、これを守るという日本人の誠実な
心の現れのようにも感じる。これは、この国が建国された意義を、
建国後の長い歴史の中で今はもうその建国の意義を知ることができ
ない現代においても、旗を見る者に脈々と受け継がれてきた日本人
のDNAに訴え、想起させてくる気がしてならない。


 ある者は言う。忌まわしい戦争の記憶を忘れるために旗を変えろ
と。また、在る者は言う。他国の旗と比べると色彩に乏しくて貧弱
に見えると。

 しかし、旗を変えても記憶を忘れることはできない。私たちに必
要なのは、旗を捨てて自分を捨て、忘れることのできないことを追
い求めることではなく、むしろ、決して忘れずに同じ轍を踏む事無
く、我が国が遠く建国された意義を思い起こし、その意義をこの世
に広く知らしめる別の道を模索することだろうと思う。そのために
は、くじけそうになった時に我が国の建国の意義を思い出す事ので
きる、この旗を愛することは大切だと思う。

 また、世界万国の旗の中に於いても日の丸が貧弱であるとは思わ
ない。子供の頃、運動会には万国旗が掲げられた。数多、多彩な色
使いの旗のひしめく中で毅然として、白と赤だけの、それも白地に
赤丸の日の丸こそは、ひしめく旗の中においても、一際その存在を
主張しているように感じる。


 我が家においても言えることだが、最近はマンション、アパート
に住むことの多くなった現代人にとっては大きすぎて、また、大き
さ故に街宣車で町中を走る一団と同一視されそうで、一般に販売さ
れている日の丸国旗を掲揚することに抵抗を示してしまう。私個人
としては、自分の戸口や背丈に合うようなこじんまりとした国旗を
控えめに祝日祭日の節目に掲揚したい。私はこれを「ブチ国旗掲揚
運動」と称したい。各々方、如何なりや。
へのへの419
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件名:平成を嘆く「昭和」回想者の悲歌  

天皇の権威により維持された昭和/人間の徳忘れて「明治」は再生せず
評論家 高瀬 広居
戦中世代に昭和再認識の情念

 昭和元年は六日間しかない。昭和は実質的に二年から始まった。すでに七十七年、喜寿
 を迎える。そんな想いからか「昭和時代・昭和史」への回想と論及が急に高まっている。

 もちろん、それだけではあるまい。イラク派兵まで踏み切った「ふつうの国日本」の総
 身を傷つけてきた戦後の、「近代日本・記紀神話日本・伝統と歴史の国日本への中傷・
 断罪・告発・否定」を一挙に覆して、正当な、徳望ある品格と名誉の国家であったこと
 を再認識せしめたいという情念が戦中世代に燃えさかっているからであろう。

 憲法改憲や教育基本法の抜本改革を推進しようにも、東京裁判自虐史観への反論や南京
 虐殺の有無に矮小化されているような論議や、太平洋戦争の侵略・解放二者択一論を繰
 り返しているようでは、国家あるいは個人としての昭和史観の根拠を見出すことはでき
 ない。事実、そのような「愛国と民主」の不毛の論争は白樺派世代から丸山真男世代に
 至るまですでに十二分に語りつくされている。(大佛次郎論壇賞を得た小熊英二著、
 「愛国と民主」はその精細なプロセスを見事に収集分析している)。また、宮本常一の
 著作は華やかで勇壮な軍国日本の裏側にうごめく民衆の汚臭と絶望的生活を克明に描き、
 昭和の虚構の二重構造を陽に曝している。松本清張や司馬遼太郎も昭和の陰湿な国家体
 質がなぜ生まれたのか、国民は何故あれほど愚直にしかも誇らかに時代風潮・流行思想
 ・イデオロギーに無条件的に迎合し舞い踊ったのか、軍・官・民の三つの切り口から解
 明している。

天皇への帰依と忠誠が命綱に

 なのになぜ、いままた「昭和」なのか。しかも、その昭和の焦点は初年から三十年代迄
 に絞られ集中化している。(これを一般にレトロ昭和と呼んでいるそうだ)。当然「戦
 争・敗戦・占領を軸に風俗・芸能・そして、江戸以来の旧習と俗風」が、相交わること
 のない各界層の情報の混在のなかで得手勝手に語られている。例えば、文藝春秋の「諸
 君九月号」掲載の筆者たちの記憶の一覧をみても実に雑多で世代の違いはあれ、かくも
 庶民はてんでんばらばらの生き方をしていたのかと驚かされる。阿川弘之氏は昭和十五
 年東大の食堂では二十五銭の上寿司が出たと「十五年戦争暗黒史のウソ」を指摘してい
 るが、昭和十八年、私は芝の紅葉舘での姉の結婚披露宴でフルコースのフランス料理を
 食べている。十五年の東京府立中学校では昼食時に焼きたての菓子パンが届けられてい
 る。

 中国戦線で泥水すすっていた兵士もいたろう。「湖畔の宿」の替え歌を楽しむ小学生、
 「昭和維新の歌」に泪する学生もいただろう。そして千差万別の庶民が共通して抱いて
 いた郷愁の回想は「軍歌」と「映画」。床屋へ行けば古参兵で一時帰国した商店のおや
 じが中国女性への暴行を得々と語っていた。怖れていたのは「特高警察」と「憲兵」
 「密告」。もちろん、この解体されたも同様の国家共同体は、ただただ「天皇」の権威
 によって維持されていた。新たに始まった「昭和史の考証と再評価・点検」とは、実に
 この一点に要約されているのである。

 いいかえれば、軍部によって私生活から生存与奪の権まで奪いとられてしまった昭和史
 民は、ひたすら天皇への帰依と忠誠を誓うほかなんの命綱も持たなかったのである。戦
 後、改めてそのことに気づいたとき、天皇巡幸に涙する国民はみな「プロジェクトX」
 の荷ない手となって焼け跡を生産地に甦らせた。ある意味で昭和天皇は奇蹟の人であり、
 日本という国家・国民・歴史そのものであったのであろう。しかし、今日まで天皇は英
 邁・高潔・徳性・無私の人格体として語られてきたが、新たな昭和前・中史発掘では視
 点が違う。

軍官民すべてが明治より劣化

 第一に天皇は歴史的に昭和共同体の統合の象徴であり超憲法の支配者であったこと。第
 二に天皇は大正を超えて明治天皇(古代史王朝の継続性ふくめて)に直結する存在であ
 ること。もし、日本が戦後六十年の汚濁と屈辱に満ちた時間をのりこえて、千数百年前
 の律令制に連結する国家像を再構築しようとするならば、昭和天皇を通して昭和史に生
 き続ける「明治の徳治の倫理」を再燃させるほかはない。いいかえれば、それほどの英
 明な天皇を頂きながらも、一人の乃木希典も夏目漱石も生み得なかった昭和は軍・官・
 民すべてが劣化していたのであり、それは、明治と昭和の精神の決定的ギャップにあっ
 たのであろう。一つには人間の徳を支え教えしむる「儒学の死」が教育上の問題として
 あり、総力戦で勝つ戦略・戦術を超えた高貴な人間の在りようを忘れた近代自我肥大の
 虚妄が昭和人の退廃を招いたのであろう。

 事実、昭和人が嘆くように平成人はより劣性化を深めている。メディアが美空ひばりや
 裕次郎・加山雄三を大きくアピールする背景には、辛うじて昭和の残滓が残る歌曲の水
 脈をさかのぼって「抜刀隊」へ辿りつきたいという願望があるからだと思える。NHK
 が数年後に「坂の上の雲」のドラマ化を志向するのも同根の情念ゆえと思う。しかし、
 明治はおそらく再生することなく終わり観念としての(宗教)ウルトラ・ナショナリズ
 ムの断想が散布されるだけで終わるのではないだろうか。
 (世界日報)掲載許可済み
Kenzo Yamaoka


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