1294.エンデの問いかけ



         興味深い「エンデの問いかけ」
                                    S子
最近読んだ「エンデの問いかけ」は、非常に興味深いものがある。
そして、この問いかけが私達日本人からではなく、ドイツという
国外からの指摘であることに、私達は自ら衝撃を受ける。

しかし、よく考えてみれば、日本は元来精神文化を歩んできたは
ずである。ペルーの開国以来、日本は急激に近代化が進み、西洋
文化が流れ込み、徐々にその精神性がすたれていったことは否定
できない。私達はかくも物質文明の恐ろしさを知ることになった
のだが、反面、物質文明は私達に生活の豊かさを実感させてもく
れた。

この生活の豊かさの実感とは私達が肉体労働から遠ざかり、身体
が「らく」になることでもあったような気がする。それを便利で
あるといい、大量生産、大量消費の経済成長至上主義に合致させ
ひた走ってきた感がある。成長途上にある間は私達は幸せ(?)
でいられた。ある程度の精神性を犠牲にしても充分にペイできる
ものだったといえる。

しかしながら、今日の日本経済の長期停滞、デフレスパイラル経
済下、大企業、大銀行の淘汰、更には中小零細企業、卸、小売店
の全国規模での激減で、私達の不安は一気に増殖した。物質文明
に依存して生きることの恐ろしさは、充分すぎるほどに実感して
いるはずである。

今日ある日本経済の異常さを国際派(JOG)グレアム・グリーン氏は
「行政犯罪だ!!」と訴えていたが、まさしくその通りである。
個人で頑張っても限界は見えている。「負け組み」「勝ち組み」
と国民を二極分類させ、資本主義競争からの脱落を強く印象づけ、
その責任を個人へ転嫁させているが、大きな間違いである。

「負け組み」の淘汰が終われば、「勝ち組み」の淘汰が始まるの
は自明だ。成長至上主義経済の中で常に競争に煽られ、追われて
ゆくだけである。精神衛生上非常に悪いことこのうえない。

アングロサクソン流の世界支配は、その国独自の文化の否定と破
壊、資源を枯渇させるまで取り尽くすことにあるようだ。要する
に「足るを知る」なんてことはありえないというわけだ。

世界支配の名のもと、波及してゆくグローバル化は最近の小泉首
相の言動にも如実に表れている。以前より言動の支離滅裂さは指
摘されていたことであるが、ここ最近はすっかり投げやりになり、
とても一国の首相の発言とは思われないようなものまで飛び出し
ている。不道徳性の連鎖という流行に小泉首相は大変敏感である
ようだ。

しかし、彼のバックに米国のブッシュ大統領という大物バカが付
いているために、マスコミはしり込みしていて何も言えないでい
る。抵抗勢力も北朝鮮絡みで弱みを握られ、必要以上の追求はわ
が身を滅ぼすことになりかねないと、保身を決め込んでいる有様
だ。だから9月の自民党総裁選に向けての小泉首相の自信はかな
り強気である。(怒)

こうしてみると、今や我が国に正義感の強い、愛国心に燃えた自
己犠牲もいとわないような政治家など皆無のように思われる。む
しろ米国のあやつり人形みたいなのばかりだ!ゆえに国民の政治
不信はかつてないほど大きく膨れ上がり、結局はそれが政治への
無関心に繋がり、国家に生きる気力というものが失せてきている
ように感じられる。

国民自らがさじを投げたような感さえある。これは非常に危険で
ある。生きる気力がなくなると国家としての衰退は加速してゆく
一方だからだ。私達は99%の絶望にあっても1%の希望に生き
る全てを投入してゆかなければならない。

「エンデの問いかけ」では新しい精神性がこの日本で生まれると
あった。そして、この新しい精神性がどうやら世界の危機的状況
を救うことになるらしい。私にはこの「新しい精神性」という言
葉だけが妙に目に止まり引き込まれ、それが心に焼きついて離れ
ない。

ぼんやりとではあるが「エンデの問いかけ」が意味しているもの
は理解できるような気がしている。今や老若男女に携帯電話は必
須(?)である。インターネットはどこまで普及しているのかわ
からないが、それでも小学校の授業で取り上げられているくらい
だから、かなり普及はしているとみている。鍵はやはりここにあ
ると私は思っている。

この携帯電話やインターネットの普及は何を意味しているのかと
いうと、本人達も気が付かない間に「心」の繋がりを重視し始め
たということにある。メール交信は結局私達に、目に見えるかた
ちでの「心」の交信であるということに他ならない。「心」とい
う目に見えないものが、ハイテク機器により視覚化されたといっ
ていい。

そしてもうひとつ重要なのは言葉の視覚化である。視覚化された
言葉は、耳で聞くよりもその情報処理は格段に速い。一目瞭然と
いうやつである。だから絵文字なるものも流行った。わかりやす
いから五感に訴えやすい。五感に訴えれば潜在的なところで働く
意識にも訴えやすい。

そこから意識の向上、意識改革なるものが私は生まれてくると信
じている。そしてこの意識改革こそが「新しい精神性」に繋がっ
てゆくように私は感じている。

人類が希求してやまない「愛」だとか「平和」という言葉は、頭
の中では充分に理解しているはずであるのに、皮肉にもなぜか人
類はますますこれらから遠のいてゆくようである。

そして精神性重視という歴史を日本が歩んできたにも関わらず、
自らがそれを放棄し西洋文明に毒され傷つき病み、苦しみのその
さなかに国外より精神性を指摘されるという皮肉。また、人間が
失った「心」の重要性を無機質なハイテク機器により指摘される
という皮肉を私達は一体どうやって受け止めてゆくのか。

「エンデの問いかけ」は私達日本に新たな覚醒を呼び起こしたこ
とは間違いない。
==============================
國井様へ、

私の愚考に返信を頂きまして、誠にありがとうございました。
私は宗教について、きちんとした本をたくさん読んだり、その分野の
研究者や権威と言われる先生の講義を受けたりすることは、恥ず
かしながら、今までなかったので、やはり宗教に対しては無知である
と言って間違いありません。 これを持って、”善人”と呼ばれる事も
理解できます。 何も知らずして物を語る事は失礼に当たるかも知れ
ません。 反省しきりです。

國井様のご意見にもありましたように、確かに東洋と西洋に分けて
考えては問題だとされる方もいらっしゃいましょうが、確かに、物事
に対する考え方などの根源の違いが確かに存在する両者には、
比較して価値ある選択だと思います。

キリスト教は、ベースにある考え方にその時代時代で変化する道徳
的観点などにうねるような変化が与えられおり、現在でもこの解釈の
違いから宗派による抗争が後を絶ちません。
これは日本や韓国における仏教にも当てはまるかもしれませんが、
抗争における暴力性はキリスト教間の比ではないかもしれません。

やはり西洋と東洋では人口密度の所為なのか、民族を育んできた
気候や歴史的・文化的な違いの所為なのか、確かに宗教に対する
接し方すら異なっているのではと確かに感じます。 

日本では兎角、無神論者を気取る人が多いと考えられるかもしれ
ませんが、これは多分、最近の事ではないかと捕らえています。
無神論がこんなにも教養の証?当たり前のように捕らえられている
のは、学問として科学を収め、これを崇拝する事、猫も杓子も大学へ
行こうと躍起になっていた、現代、受験戦争・有名大学出身崇拝の
エリート主義による結果として生じた産物なのではないかと思います。

そして、日本では、今も一神教ではなく、多神教による文化的・思考的
影響が、未だ多分にあるのではないかとも感じています。 
ここに暮らしてきた私自身には気が付かなかった自己の根幹をなす
考え方が、他宗教的考え方と出会った際に、無知な私でも強く感じ取る
事ができました。 しかし、これもまた恥ずかしながら、真の宗教論に
よる認識ではなかったのですが...

しかし、信じて頂けるか否か、私はどうしても宗教を否定したい人間で
はないのです。 各土地土地に根付く文化や生活習慣を理解すると
言うのはおこがましいとしても、これを感じ取るには、誰がどんな理屈を
つけるにせよ、宗教抜きには考えられません。

この事実を無視する事によって、現在の米軍事独裁政権が突き進んで
いる大きな過ちを引き起こす原因になると、当然至極のように私は思って
いるからです。 これも、一神教であるキリスト教を利用した対外政策で
あった為なのかそれとも、一神教を基本とした考えに基づいて生きてきた
国家・人々が極端へ走ってしまえば、こうなる事も仕方がないのか? 

しかし、富める国が、その国家の戦略や繁栄のためとは言え、他国に
悲劇の種を蒔き、正当性のない大量殺戮・破壊を持って正義だと言い、
そしてその矛盾を放置したまま、これを見て見ぬ振りをする社会では、
これからここで生きて行かねばならない子供達にとっては、気分が悪く
なって、暴れ出したくもなる社会になってしまっているのかもしれません。

科学的な根拠を持って、病体の原因・・・その発生機序を研究・探求・解明
し、その発生/発症過程を妨げる事によって治療とする西洋医学に対し、
患者の尿や糞便、皮膚や舌の色、顔色・表情、感情の起伏を見て、その
人間に対して(病の症に対してなのでしょうが...)、治療を施すような、
東洋医学的な、人間味のある考え方を、少なくとも日本に生まれた東洋人
であるからには、持っていたいと願って’は’います。

しかし、ご指摘の通りの”善人(無知な人間)”にとっては、この先、勉強しな
ければならない事が山積みです。 確かに一生「善人」で居られたら、
これ以上の幸運はないでしょうが、私には宗教に目覚めるまでの人生の
「修行」も、これから先、まだまだ長く掛かってしまうのかもしれません。

草々
古賀
==============================
鈴木 麗加 です。
 
貴国際戦略コラムにご協力をお願い致したく
下記の件メール致します。
よろしくお願い致します。
 
この度世相に少しでも良い影響を与えてもらいたいと
「古代霊シルバーバーチは語る」他多数の翻訳本を
世に出して居る近藤 千雄先生の講演会を企画
致しましてやっと実現の運びと成りました。
出来るだけ多くの皆さんに参加して頂きたく御連絡
致しました。
生有る物が如何に生きるべきかを問う意義のある
内容です。
 
日時 7月19日 (土曜) 午後13時〜17時
講演 13時〜15時 懇談と質疑 15時〜17時
場所 東京の八重洲冨士屋ホテル(桜東の間)
演題 幽顕問答から古武士は語る
会費 会場費 3000円
    懇談と質疑 7000円
合計 1万円 です。
 
参加されたい方は私宛にメール下さい。
メール reika@jp.bigplanet.com
出来るだけ多くの方の参加をお待ちしてます。
 祐気学・心気学総合研究所。日本心霊研究所
 主宰: 鈴木 麗加(e-mail: reika@jp.bigplanet.com)


コラム目次に戻る
トップページに戻る