928.ヨハネスブルグ環境サミット−2



ヨハネスブルグ環境サミット ロジ担日記 その2

事前調査の準備の合間に、この環境サミットの意味を歴史的に検討
してみよう。
1 概念の混乱、現実の錯乱 − 概念を混乱させるのが目的のよ
うな国連会議の系譜
1) ストックホルムから30年
 地球環境問題が人類によって認識され、国際会議の場で議論され
たのは、1972年にストックホルムで開かれた国連人間環境会議が
最初である。この時にローマクラブは人口・工業化・化石燃料・
食糧・環境悪化の5つのパラメータを使った世界システムシミュレ
ーションを行ったが、それが「成長の限界 − ローマクラブ『人
類の危機』レポート」(ダイヤモンド社)である。

 当時世界人口は約30億人であったが、これ以上の人口増加と
工業化は天然資源と食糧が不足してできない、人類は人口増加と
経済成長を止めなければならない、というのがローマクラブの導き
出した結論だった。

 しかしながら30年たってみると、この会議で議論されたことは、
ひとつも生かされていなかったことがわかる。人口は、30年で2倍の
60億人以上に増加した。これまでのところ食糧と石油は不足しなか
った。だが、確実に環境は悪化した。地球規模の海洋汚染の広がり
、気候温暖化、オゾン層喪失、森林喪失、絶滅種の増加などなど。

 要するに、人類は、地球上の他生物の生存を切り捨てることに
よって、自分たちだけが食べていくという選択肢を取ったというこ
とだ。その結果として、地球規模の環境悪化が進んでいるのだが、
人類はできるだけそれを考えないように、見ないようにしてきたの
だ。

 この30年がそのようになってしまったことの最大の原因は、南北
問題である。豊かな北が南に「人口抑制」を求めたところ、南から
北へ「経済成長批判」要求となって返ってきた。そんなわずらわし
い事態は、ごめんだとばかりに、南も北もお互いに批判を控えて、
「お互いに好きなようにやりましょう」ということになったのだ。

 ストックホルム会議の結果をひと言でいうならば、経済成長批判
と人口抑制をタブー化したということだ。

2) リオデジャネイロから10年
「成長の限界」には、「この努力は、われわれの世代に対する挑戦
であり、つぎの世代にゆだねることはできない。この努力は断固と
して直ちにはじめなければならず、また重要な方向転換がこの10年
の間に達成されなければならない」と明言されている。

 この重大な責務に対して、人類は10年後の会議を開かないという
サボタージュでこたえた。人類は無意識のうちに、考えること、
行動することを拒否していたのだ。リオデジャネイロで、国連環境
開発会議が開かれたのは、20年後の1992年である。

 リオの会議では、人類様の機嫌をそこねる危険な言葉、南北問題
を顕在化し対立を明示することになりかねないキーワードは、慎重
に取り除かれている。つまり、ストックホルムで使われた「人間」
という言葉が取り除かれる一方で、成長神話そのものを肯定する
「開発」という言葉が加えられた。

「うーん、まだ眠い。もう少し寝せてー」と布団の中でむさぼる
惰眠のように、人類は本当の問題から目をそらし、夢見のように
環境問題を考えるふりだけをしたのが、リオの会議の実情であった。

3) 言葉の意味を問わない慣習の確立
 きわめつけが、「持続可能な開発(sustainable development)」で
ある。

 この持続可能な開発という言葉は、魔法の呪文のようにここ10年
の人類の耳にやさしく語りかける。持続可能な開発とは、「食べて
も食べても米がなくならない米びつ」、または「捨てても捨てても
一杯にならないゴミ箱」のようなものである。そんなものは実在し
えないのにもかかわらず、経済成長と環境保全を両立させましょう
という空しい標語なのである。「持続可能な開発」は、「概念矛盾
」である。

 ジャン・ボードリヤールは「消費社会の神話と構造」の中で、
消費社会においては、言葉は人びとにとってファッションと同じ
記号に過ぎず、誰も言葉の中味、言葉の意味するものについて考え
なくなると言った。ボードリヤールが指摘するとおりに、今まさに
「持続可能な開発」という記号だけが一人歩きして、誰もそれが何
を意味するか考えないという状況にある。

 環境NGOの人たちや、環境省の人たちに、「『持続可能な開発』っ
て何ですか」と尋ねてみるがいい。きちんとした答が得られたら、
ぜひとも教えて欲しい。

 私が尋ねた人たちの多くは、「言葉の定義がきちんとひとつにま
とまっているなんてことは、普通ないのですよ。」と言葉を濁して
ごまかす。それに対して「いろいろな定義があってもいいですが、
あなたがどのような意味でその言葉を使っておられるのかを教えて
下さい」と私が追い討ちをかけると、「得丸さんのように、言葉の
定義を明確にしないと言葉を使ってはいけないというと、誰も何も
いえなくなってしまう」とそのときだけ口をつぐむ。

 でもこの人たちは、僕の姿が見えなくなれば、「持続可能な開発
」とか「持続可能な未来」とか、言葉の中味を明らかにすることな
く、ふにゃふにゃと概念をふりかざすのだ。自分の使う言葉ひとつ
にも責任を持たない無責任な環境専門家のいかに多いことか! 笑
ってしまう。

 僕はいう。「言葉を使うときには、その言葉にどのような意味を
込めるかを、わかって使うべきです」と。それができない人間は、
ひとまず黙ってほしい。

 リオの成果は、環境問題も記号化してしまったということであり
、何が本当の問題であるのかを考えようとする人間が言論界からも
消滅したという恐るべき事実である。

4) ヨハネスブルグまであと2ヶ月
「ストックホルム+10」の会議は開かれなかったが、「リオ+
10」の会議が開かれるのは、人類が環境問題により真剣に取り組
むようになったというわけではない。
むしろ逆だ。環境問題も記号化して、中味について考えなくなった
から、10年の節目だからといううわべ上の理由だけで、中味を気に
することなく、平気で会議を開くことができるのだ。人類はますま
す恥知らずになったといえる。

 それに、今回は、「持続可能な開発のための世界サミット」とい
うご立派な名前になった。つまり、とうとう環境という言葉すら取
り除かれてしまったのだ。現地ヨハネスブルグのネット上の記事に
は、「開発サミット」と平然と書かれていた。

 ストックホルム以来、徐々に現実から目を背け、言葉の意味に
ついて何も考えなくなった60億の人類は、ヨハネスブルグに集まっ
ていったい何を語りあうのだろうか。

 これまでニューヨークやバリ島で、4回にわたって準備会合が開
かれてきたが、成果とよぶに足るようなものは特にない。ヨハネス
ブルグがぶっつけ本番のようなものだ。

 ヨハネスブルグ環境サミットって、けっこう面白い。
(得丸久文、2002.06.13)


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