865.異文化交流術



しばらく途切れておりました異文化交流術、続編をお届けします。

異文化交流術 12 文化と時間

 どのような分野においても、素人(アマチュア)と玄人(プロフェッ
ショナル)の議論は明確に違う。素人は、そこにあるもの、たまたま
自分が目にするものを語る。それくらいしか語るべきものを持たな
いからだ。玄人は、そこに何がないかを具体的に語る。自分の心の
中に本来あるべきものの姿が見えるからである。
 素人の議論に深みが欠けるのは仕方ない(だからこそ素人なのだ)
が、玄人の意見に耳を傾け、それを素直に受け入れないかぎり、素
人はいつまでたっても素人の域から抜けだせない。(下嶋耕平「プロ
とアマの違い」より)

・ 時間の観念がない文化人類学の「文化」論
 文化人類学において、文化の定義としてもっともひろく受け入れ
られているエドワード・タイラーの定義「文化あるいは文明とは、
社会の構成員として人間が獲得する知識、信仰、技能、法、道徳、
しきたり、その他の能力や習性を含む複合体全体」
("Primitive Culture", 1871)には、時間の観念がない。

 文化は遺伝子に組み込まれた先天的本能的なものではなく、後天
的に社会の中で獲得するものである。個々の人間は赤ん坊として生
まれ、社会や建築や自然の環境の中でさまざまな体験をし教育を受
け、徐々に意識を形成し、文化を身につけていく。それぞれの人間
個体の中で、自分史として文化獲得史がある。

 文化人類学は、文化は獲得されるものであると定義するが、どの
ように獲得されるかのプロセスにはあまり興味を持たない。この問
題はむしろ発達心理学あるいは教育心理学の関心領域となるのだろ
うか。

 また、文化は時代とともに変遷する。日本語ひとつとってみても
、100年前と現代では表記も違えば、語彙や用語法も違う。今から
100年たてば、また変る可能性が高い。日本に住む人々の衣食住も
ここ100年で実に大きく変った。冠婚葬祭のやり方も、農作業やもの
づくりの現場も、近所付き合いも、学校で教える内容もすべて変った。
文化自体が変っていくことは、文化人類学の興味の対象ではないよう
だ。

 そもそも文化はなぜ生まれたのか、それは生まれなければならな
いものとして生まれたのか、それともたまたま偶然に生まれたのか
。人間はなぜ文化を身につけるのか、身につけなければならないも
のなのか、身につけたくないと思えばそれですんでしまうようなも
のなのか。

 文化人類学は文化をアプリオリに認める。目の前にある文化の見
えない部分に疑問をさしはさむ精神的ゆとりはない。文化は必然か
偶然かという議論は、むしろ人間を動物の一種であると扱う動物行
動学から問題提起が行われた。今後は遺伝子学あるいは大脳につい
ての研究からさらなる問題提起が行われるかもしれない。

・ 文化人類学の静的な視点
 時間の観念がないために、文化人類学は人間社会あるいは人間の
文化的営みを、まるで一枚の静止画のように観察する。フランドル
の農民の生活を描いたピーター・ブリューゲルの絵でも眺めるよう
に、そこに提示されたものをあるがままに観察するのだ。

 文化人類学には、ひとりひとりの人間の中での文化獲得の過程、
世代間の文化伝承の方法、まったく新しい文化の創造、困難な状況
の中での文化適応、植民地化や敗戦などの外的圧力による文化断絶
、石油化学文明や工業文明といった環境の変化が人間の文化に与え
る影響、そういった文化のダイナミズムが欠落しているのである。

 実際のところ文化人類学は、時間の問題を空間の問題として解こ
うとしてきた。つまり未開部族についてのフィールドワークを、文
化の過去の近似値として扱ってきたのである。未開は、文明国に比
べて発展が遅れているという意味であり、同時代であるにもかかわ
らず過去を生きているとして扱ってきたのであり、失礼なことに生
身の人間をまるで化石標本のように扱っていたのだ。

 しかし文明から空間的距離によって隔絶されていた未開部族の調
査は、今では不可能だ。交通と通信の発達によって未開部族は地球
上から消滅し、さらには地球規模の環境汚染や気候変動によってか
つての生活を続けることができなくなったからだ。最近、文化人類
学があまり脚光を浴びないのも、手法的に行き詰まっているからだ
ろう。

・ 文化と人間
 文化人類学の功績は、文化を国民国家のイデオロギーから解放し
たところにある。

 上のタイラーの定義は「文化あるいは文明とは、、」と始まり、
文化と文明をほぼ等しい意味で使っている。それは、1870年当時の
ヨーロッパにおいて、文明と文化は、言葉は違っていても、それぞ
れフランスとドイツの国家イデオロギーとして採用されていたから
だ。

「普仏戦争におけるプロイセンの勝利(それはドイツの国民的統一
の達成でもあった)が、ドイツでは文化の勝利として熱狂的にむか
えられたことを、ニーチェは『反時代的考察』の中で、きわめて皮
肉に記している。他方、フランスの側はこの敗戦を文明の危機とし
て受け止め」た。(西川長夫著「地球時代の民族=文化理論 脱「国民国
家」のために」1995年、新曜社, P79)

「それぞれに『文化』と『文明』の理念をかかげたドイツとフラン
ス両国の政治的民族的な対立が頂点に達した時代に、タイラーはヘ
ルダーの『歴史哲学』やクレムの『文化史』におけるドイツ的文化
概念の脱イデオロギー化を行ないながら、人類学の用語への転換を
図ったのであった(タイラーの定義の冒頭にある、『文化あるいは文
明』という表現には対立する両者への配慮を感じる)」(同、p125)

 ではどうしてタイラーは、文化の脱イデオロギー化を行ったので
あろうか。おそらく交通の発達により、人々が今まで以上に移動す
るようになって、自分の帰属する共同体以外の他者に出会うように
なったからかもしれない。

 他者の存在なしに、人間は自らの文化を自覚できなかった。呼吸
や食事や睡眠と同じくらい当たり前のものとして、人間は文化を身
につけていた。意識的に文化を身につけていたのではなく、食料を
確保するため、毒性のあるものを食べないため、人と意思疎通する
ため、生きるために必要だから、疑う余地なく文化を修得していた
。親から、共同体から、強制的に教え込まれていた。

 文化がなかったら、人間は生きていくことができない。人間は自
然界で動物と同じようには生きていくことはできない。人間は歯も
消化能力も弱いため、動物のように生の肉や草を食べることはでき
ないし、毛皮がないために家屋や衣服や布団によって体温調節をし
なければならない。走るのも遅いし、木から木へととびうつること
もできない。道具なしには生きていけないのだ。

 私は、人間にとって文化は、コンピュータハードウエアにとって
のソフトウエアプログラムのようなものだと思っている。ソフトウ
エアなしのコンピュータはただの箱にすぎない。コンピュータをう
まく使うためには、必要なソフトウエアをインストールしなければ
ならない。たくさんのソフトウエアを切り替えて使う場合には、
うまく機能するようにチューニングが必要である。

 普通使っているときには、コンピュータのハードウエアとソフト
ウエアは一体化しているが、何かトラブルが起きると、それがハー
ドによるのかソフトによるのか切り分けて対策を行う。21世紀の人
類は、環境問題や民族紛争や家庭崩壊など、さまざまな問題をかか
えている。それらの問題の文化的側面を明らかにすることによって
、問題の本質がよりよく理解されるようになるのではないかと思う。

・ 時間軸の中での位置付け
 人々が文化を語る際に、時間概念の欠落した文化人類学の文化の
定義がもっとも受け入れられていることの背景には、それを語って
いる人間自身もそもそも時間の制約を受けているところにある。

 私たちは100年前の社会を想像することはできるが、実体験するこ
とはできない。
百年後の世界を想像することはできるが、実体験することはほとん
どの場合不可能だ。

 異文化交流は、よその国の人間といかにうまく付き合うかといっ
た視点で語られることが通常である。同時代を生きるものとしか、
いっしょに仕事をしたり、いっしょに食事をすることはないから、
それはそれで大切なことである。

 しかし、現代の文化だけを静止画のように見ていては、大切なこ
とを見落とすのではないだろうか。人類史における文化の創造や適
応のダイナミズムを理解したうえで、個々の人間の文化をどの方向
に発展させなければならないか、どのようにして文化を獲得させて
いくのか、を考えていきたいと思う。

 それが必要とされるほど、現代は文化の危機状況にある。

得丸久文(2002.04.11)
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皆様、はじめまして。

新参ものの黒崎宣博と申します。

得丸さんの書かれた「文化と時間」は大変興味深いものでした。
私も現代の急速な文化変容、連続的イノベーションは、文化が成熟
するのに必要な時間が欠けているという問題意識を持っています。

宣伝になって恐縮ですが、現在、私のHPにある会議室では、「文
化変容の強制と苦痛」をテーマに6月末を目処にディスカッション
を行っております。よろしければ、ご参加くださいませ。

とりあえず、のご挨拶まで。

2002/4/11 黒崎宣博
 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/5582/


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