787−2.世界の構造をどうすればいいか



宇沢さんの意見やスティグリッツのIMF批判など世界の構造改革
の意見が出てきている。これをこのコラムでも検討しよう。Fより

IMFのこの10年の政策をスティグリッツが批判している。
IMFが、破綻した国に対して取った政策は、国際金融業者、ヘッ
ジファンドの方に味方して、その国のためにはなっていない。緊縮
予算、高金利政策を行い、該当国内の産業を潰し、外資に買い取ら
してきた。このため、タイや香港などはIMF政策をして、より疲
弊したが、マレーシアのマハディールは国際資本に敵対して、危機
を乗り切った。このようにIFM流市場主義も問題があるというの
だ。

また、宇沢さんは、次のようなことを言っている。個人や民間資本
だけではダメで、公的資本も必要である。この公的資本を充実して
いるのが今のEUであると。これは米国流市場経済主義と欧州流
社会的資本経済主義のバランスとの読める。

もう1つは、個人の自由と公共の義務、倫理観とのバランスなどで
あろう。個人の自由にはある許容範囲が必要である。これを個人の
公的な義務や倫理と言ってもいいのであろう。この程度をどうする
か??

ここら辺が問われているのであろう。今後この話題を考えよう。
==============================
短期連載−世界新秩序を求めて−リポート●碩学に聞く2
−宇沢 弘文氏(東京大学名誉教授)YSさんより掲示板に投稿。

2002年1月21日 日経ビジネス
社会主義を駆逐した資本主義も21世紀には対応できない。
地球温暖化など大問題への処方箋を描く新しい枠組みを作れ。
ノーベル賞に最も近いとされる日本人経済学者はこう力説する。

 今から10年以上も前のことになるが、ローマ法王ヨハネ・パウ
ロ2世から1通の手紙をいただいたのは1990年8月のことだっ
た。そこにはこう書かれてあった。
 新しい「レールム・ノヴァルム(Rerum Novarum、
元来はラテン語で新しいことという意)」を出す準備作業に協力し
てほしい――。
 ローマ教会の正式な考え方を全世界の司教に通達する文書を「同
時通達」と言うが、その中でも、20世紀の到来を10年後に控え
た1891年、時の法王レオ13世が出された同時通達は、ローマ
教会の歴史の中でもエポックメーキングな文書として、レールム・
ノヴァルムと呼ばれている。
 21世紀を目前に控え、新しい世紀の世界はどのようにあるべき
か――。ヨハネ・パウロ2世は深く思いをいたし、あるいは憂いを
お持ちになり、新しいレールム・ノヴァルムの作成を思い立ったの
だろう。

■既存経済学では解決できない
 100年前のレオ13世のもともとのレールム・ノヴァルムは副
題が「資本主義の弊害と社会主義の幻想(Abuses of 
Capitalism and Illusions of 
Socialism)」となっていた。先進工業諸国は、資本主義
体制の下で繁栄を謳歌する一方、ごく少数の資本家が富を独占し、
一般大衆は徹底的に搾取され、貧困にあえいでいた。半面、社会主
義に移行することで貧困や社会的不公正の問題は解決されると多く
の人々が思っているが、社会主義の下では人々の自由が奪われ、尊
厳が傷つけられ、基本的権利が無視される、と警告したのだ。
 私は「社会主義の弊害と資本主義の幻想」こそ新しいレールム・
ノヴァルムのテーマとなるべきなのでは、と法王にお返事申し上げ
た。
 1929年のニューヨーク株暴落に始まる世界大恐慌は、市場原
理を信奉する新古典派経済学が理論的にも現実的にも適切とは言え
ないことを明らかにした。新古典派を修正した形のケインズ経済学
も、80年代以降の経済構造の転換に伴う経済的な軋轢や社会的混
乱、さらには地球規模の自然破壊には無力であった。
 逆に、1917年のロシア革命に始まり70年以上に及んだ社会
主義体制もひずみが極限まで達し、社会主義体制の解体作業が進み
つつある。21世紀の展望を考える時、地球温暖化こそ人類が直面
する最大の問題で、資本主義や社会主義といった従来の経済学の枠
組みでは解決できない――。
 お返事を差し上げるにあたり私の頭にあったのはそういう思いだ。
 同時通達に教会関係者ではない外部の者が関与したのは、ローマ
教会2000年の歴史の中で私が初めてだったという名誉あるお話
を後で知ったが、法王は大変喜ばれ直接お目にかかり、ご進講する
機会も得た。ポーランド出身の法王は祖国が旧ソ連の圧制から解放
されうれしいが、あまりにも急速に市場経済への道を歩みすぎてい
るのではと心配されていたようだ。
 それから1年後、1991年5月15日に出された新しいレール
ム・ノヴァルムも、このトーンが貫かれていた。人々の自由を奪い
塗炭の苦しみに陥れていた社会主義は崩壊したが、それで安易に
資本主義に移行したからといって、問題は解決されない。

■米国には合法性があるか

 新しいレールム・ノヴァルムは、経済学者に設問を投げかけてい
る。すべての人々の人間的尊厳と魂の自立が守られ、基本的権利が
最大限確保できるような経済体制はどのようなものか、というもの
だ。
 その直後、ソ連社会主義は崩壊し、20世紀を特徴づけてきた資
本主義と社会主義の対立の図式は資本主義の勝利に終わり、その旗
手たる米国の覇権の構図が再び明確になったとも言われる。しかし
、私はその見方に賛同できない。2001年9月11日の同時テロ
も、資本主義は勝利したわけではないとの文脈でとらえることがで
きよう。
 世界貿易センタービル(WTC)が倒壊した時、テロで犠牲・行
方不明になった方は本当にお気の毒だと思うが、ギボンの『ローマ
帝国衰亡史』という有名な本を思い出した。この本が出版された
1776年は奇しくもアダム・スミスの『国富論』が出たのと同じ
年という象徴的な本なのだが、そのエッセンスはこうだ。
 古代世界で、ローマは軍事、経済、政治、流通、法律、行政、す
べての面で比較するものがない、巨大な卓越した国家だった。
 ところが、末期になると、辺境で次から次へと反乱が起き、それ
を力の行使で抑えつけようとするが、そこには合法性(レジティマ
シー)がなかった。その時、民族大移動でゴート人が領内に侵入す
ると、ローマ帝国が東西に分裂する。
 さらに首都ローマ自体が占領されると西ローマ帝国は滅亡する。
つまり、強大で隙がないと思われたローマ帝国も、ゴート人の侵入
という誰の目にも分かる形で明らかになると、非常に脆く壊れるわ
けだ。
 独占禁止法の適用について米国とヨーロッパは鋭く対立してきた
し、地球温暖化についても米国の対応は消極的だった。WTCの崩
壊は誰の目にも明らかだった出来事だけに、レジティマシーが米国
に欠けていることを象徴しているようにも、私には見える。
 そもそも、第2次世界大戦後の世界経済秩序の中で最も大きな転
機となったのが、1971年の米国の金・ドルの交換停止、いわゆ
るニクソンショックだったと私は思う。ここで国際通貨基金(IMF)
体制が事実上崩壊した。その後、石油ショックが73年秋に起きる
わけだが、いずれにせよ、それらは関連している。
 北爆という格好で60年代半ばから米国が本格介入することにな
ったベトナム戦争で世界的な均衡が大きく崩れて、危機が醸成され
始めた。その結果として71年から73年にかけて戦後の世界経済
秩序が崩壊したのだと思う。
 IMF体制が堅牢だった戦後の前半の25年間を支配した秩序は
、米国によって、文化的にも経済的にも政治的にも完全に支配され
たものだった。日本はまさにその典型だったし、欧州もその影響を
大いに受けた。そうした米国主導の世界秩序は70年代前半を境に
崩壊に向かったのだ。
 そして現在に至るまで、世界経済秩序は調整期間に入ったという
か次の時代を模索している段階で、今ようやく新しい秩序のとば口
が見えるかどうかというところだろう。2001年9月11日の
テロもそうした米国主導の世界秩序の崩壊を、いわばだめ押しする
ようなものだったと見ることができるのではないか。
 新しい秩序がどのようなものかまだ明確には見えないが、1つの
モデルが欧州にあるのでは、と思っている。

■ルール地方の再生に学べ
 例えばミッテラン以降のフランスが象徴的だが、徹底した地方分
権制度を確立する中で、80年代に入ってから非常に全国的なレベ
ルで、乱暴な開発や自動車の通行による都市の破壊から、フランス
の文化、歴史、社会を救うという大きな動きが生まれてくる。
 街の真ん中からは自動車を締め出す一方、モダンな市電、路面電
車をうまく配し、自動車は周辺に駐車してそこから街の中心部に出
るには公共交通機関を利用するという「パーク・アンド・ライド」
方式を取り入れたり、緑、自然を多くする運動を展開したりと、現
在進行中だが、本当に驚くような変貌を遂げつつある。
 中央政府の影響力を排し徹底的な分権化を図る一方、欧州連合(
EU)として域内の調和と発展を保っていく。
 ある意味で江戸時代の幕藩体制のようなイメージだ。幕藩体制と
いうと封建的な圧制を敷いていたとの印象が拭えないが、よく見て
みると、それは幕府の直轄地での話であって、各藩は農民を大事に
し子弟教育に励んでいた。そうしないと藩の経営自体が成り立たな
いからだ。こんな地域の姿が今、求められている気がする。
 そうしたヨーロッパルネサンスの一番の典型が、ルール川流域で
行われている地域おこしだろう。
 独仏の境に位置するルール地方は、ルール川とエムシャー川とい
う2つの川が平行して流れ、ライン川に注ぎ込んでいるが、北九州
よりちょっと小さいその地域はもともと石炭の産地で世界最大の鉄
鋼・重工業の基地だった。独仏間で起きた戦争はこのルール地方を
巡る争いに端を発していると、世界史で勉強した人も多いだろう。
 このルール工業地帯は70年代に入り、日本と韓国の鉄鋼業に完
全に敗れて壊滅してしまう。ところが、住民は地元意識が強く失業
しても地元に住みつき、ルール地方は深刻な失業を伴った経済停滞
に陥ることになる。
 そこでドイツのノルトライン・ウェストファーレン州と20弱の
市が「エムシャーパーク」という世界博覧会プロジェクトを89年
から立ち上げた。博覧会といっても、日本でイメージされるような
ものではない。その時々の先進的なテーマを取り上げ、それをプロ
ジェクトとして恒久展示するというものだ。
 産業排水路だったエムシャー川のコンクリートを剥がし、川を昔
の蛇行した形にして、周辺の環境を整える。地域固有の樹木が生え
るようにしようというのだって、ただ植林するわけではない。20
年くらいでうっそうたる森林になるように工夫し「長期戦」で構え
る。そうすると、その地域特有の小鳥とか、小動物、草花が見事に
回復する。それを博覧会形式でやるわけだ。
 一方、この地域の工場は19世紀から20世紀前半に作られてお
り、最近の工場と違って非常に頑丈だし、構造もデザインも優れて
いる。そこで廃虚同然となったそんな、ある意味で芸術的な工場を
いろいろな形に使う。例えばレストランにしたり、ディスコにした
り、美術館、さらには産業デザイン関係の美術センター、果ては大
きな工場の壁を生かしロッククライミングの練習場にするとか、ま
さにベンチャービジネスなわけだ。
 中心であるエムシャー川のほとりには非常にしゃれた研究棟を作
り、ベンチャーを中心とした技術開発が盛んに行われている。その
資金は主としてEUが提供し、それが新しいヨーロッパの象徴にな
っている。
 エムシャーパークの例は、21世紀の秩序を考えるうえで参考に
なろう。

■「社会的共通資本」がカギに
 国と国の競争というのはどうしても経済競争になるが、都市と都
市の競争は、文化や、生活の質といった面での競争になり、そこに
は勝ち負けはない――。今のヨーロッパにはそういうスローガンが
あるように思う。多様な文化を持って、歴史を持った都市が非常に
アクティブに支えていく。官僚的な国家を否定していったり、ある
いは、その役割をできるだけ小さくしていく必要があるのだ。
 ヨーロッパは1つと見ている向きが多いかもしれないが、歴史が
古いだけに怨念や恩讐というのは逆にほかの地域に比べて多いのか
もしれない。
 私がよく訪れるスウェーデンにも、デンマークに対する複雑な思
いがある。16世紀の初めにはデンマークに支配されており、その
時にデンマークはスウェーデンの貴族をストックホルムのある広場
に集めて皆殺しにした。その広場は今、観光の名所になっているが
、いずれにせよ、スウェーデンの人の心の底にはその時の恨み、
つらみがあるのだろう、と感じる。ただ、EUという形でまとまる
ことで、そうした個々の怨念を捨てていくというのがEUの考え方
だと思う。そういう方向に進むべきなのだ。
 怨念という意味では、スペインのバスク地方は、民族的にもスペ
インやフランスと異なり、非常に過激な独立運動がある。そこで、
EUはバスクにも巨大な資金を提供して、ビルバオの復活を手助け
している。ビルバオは、先に述べたルールに次ぐ鉄鋼・造船の基地
だったが、やはり日本や韓国に負けて荒廃したが、見事立ち直って
いる。
 私が愛用している赤いベレー帽のような帽子は、バスクの独立運
動の象徴だ(上の写真)。私はこの3、4年、バスクに思い入れが
深く、一種の名誉市民としてこの帽子を授けられた。
 いずれにせよ、バスクは自治領として高度な自治権を与えられて
いる。もちろん、バスクの分離・独立運動が全く消え去ったという
わけではないが、そうした過去の対立や怨念を克服しようとしてい
る。こうした動きも新しい秩序を探るうえでヒントになるのではな
いか。
 新しい世紀が抱える問題は資本主義の考え方でも社会主義の思想
でも解決できない。そこで、重要なコンセプトになるのは、社会的
共通資本という考え方だと思う。
 社会的共通資本というのは、もともとは74年に私が出版した『
自動車の社会的費用』の中で用いた言葉で、自動車がもたらす社会
的費用測定にあたり、自然環境や社会的インフラストラクチャーを
どれだけ汚染したり破壊しているかという点に焦点を当てるべきだ
と考えた時に使った概念だが、その2つ以外にも教育や医療、司法
、行政といった制度資本も含まれる。
 こうした社会的共通資本は経済学で言うところの外部性を持って
いる。例えば、森林はその土壌に豊富な有機物を含み、雨水を浄化
し、大気中の二酸化炭素を吸収して地球温暖化を防ぐ効果もあると
いう具合に、その機能は単に樹木を育てて伐採して様々な用途に充
てるというだけではない。
 こうした社会的共通資本は市場原理や一部の官僚のモノサシでそ
の管理・運営が委ねられるということではいけない。あくまで社会
的観点という新たなモノサシを用いるべきなのだ。
 特に、教育と医療は重要だ。いずれも個人一人ひとりが人間的尊
厳を保ち、市民的自由を最大限に享受できる社会を安定的に維持す
るために必要、不可欠で、人間が人間らしい生活を営むために重要
な役割を果たすからだ。
 つまり、ある種の「制度」作りを進めることで、資本主義や社会
主義の考え方では解決できない問題に対処していこうというものだ
。そうした社会的共通資本の管理の主体はそれぞれの職業専門家集
団、専門的な知見に基づいてやるべきだと思う。

■企業のダイナミズムも必要
 こう申し上げると、一部から「官僚主義がはびこる温床になるの
では」という批判が出てくるかもしれないが、私が言いたいのはも
ちろんそういうことではないし、そうした制度作りはある意味で、
理想像を示したものだ。現実的には、徹底的な分権化を進め、地域
に密着するという形でそうした官僚主義を打破できると思っている。
 制度作りという意味で、例えば地球温暖化の問題をもう一度、考
えよう。
 炭素税の賦課により、温室効果ガスである二酸化炭素の排出量を
削減できるという議論があるが、そもそも二酸化炭素は1週間で世
界をぐるっと回ってしまう。つまり、どの国で排出してもその価格
、税率は同じになる、あるいはすると考えるべきなのだ。
 91年に炭素税を導入したスウェーデンでは、二酸化炭素1トン
当たりに換算すると約150ドルというものだった。税率をそのぐ
らいに設定しないと効果がないというわけだ。それではこのスウェ
ーデン基準で世界の国々が炭素税を導入したら税率はどうなるか。
 1人当たりの所得が3万ドルある米国では1人当たり7トンの二
酸化炭素を排出している。となると炭素税の支払額は約1000ド
ルになる。ガソリン税その他を含めての支払額だから、払えない金
額ではない。日本も同様だ。
 ところが、インドネシアはどうか。当時、1人当たり1トン出し
ていたが、その時の所得水準は250ドル。その中で150ドルを
支払ってしまうと、経済は成り立たない。インドネシアより所得水
準が低く、人口が多いほかのアジアやアフリカの国々はさらに炭素
税導入が困難だ。
 一方で、こうした所得水準が低い国々に合わせて、炭素税の税率
を例えば1トン当たり3ドルといった低い水準にしてしまうと、排
出を抑制する効果はほとんどなくなってしまう。
 そこで、私は1人当たり国民所得水準に比例して炭素税の税率を
設定するというアイデアを提案した。日米欧の先進国が1トン当た
り150ドルだとしたら、インドネシアは1トン当たり例えば2.5
ドルといった水準に設定するわけだ。
 それは「一物一価」という市場の最も重要な原則には反するが、
どの国でも現実的に導入でき、しかもガス排出を抑制する効果もあ
るものだ。これが「制度」の1つの姿ではないだろうか。
 私は近著『ヴェブレン』でそうした「制度」について、20世紀
初頭の米の経済学者、ソースティン・ヴェブレンの業績をつぶさに
観察した。彼は制度学派経済学の始祖で、真のリベラリズムに忠実
な経済体制の制度はどうあるべきか模索してきた。この考え方は世
紀を超えて今でも有効だと思う。
 さらに古典をひもとけば、「人間は他の人の自由を侵害しない範
囲において自由である」――ジョン・スチュワート・ミルの『自由
論』はそう主張する。それがリベラリズムで、いわゆる自由主義の
無制限の自由とは異なる。また、ミルは『経済学原理』でマクロ経
済は安定しながらも、その中で企業がダイナミックに活動し文化的
な営みも行われるといった華やかな姿が古典派の求める国家像だと
論じた。
 ヴェブレンはそうした国家、社会は、自然にできるものではなく
、それが可能になる制度を作ることが経済学の仕事であると考えた
。日本で今叫ばれている小泉構造改革の議論も、こういう視点で見
つめ直すことが必要であると、痛感している。(聞き手は花渕敏)

■宇沢弘文(うざわ・ひろふみ)氏


コラム目次に戻る
トップページに戻る