建仁寺の道元 皆さま、 道元について報告します。 得丸 建仁寺にいた道元像 ・ 西洞院高辻から東山鷲尾へ 12月6日から13日まで「道元を読み解く」を出版した報告やお礼参 りに京都にでかけた。 6日朝フェリーで神戸に着き、まず訪れたのが西洞院高辻の示寂の 地だった。道元は建長5年8月、永平寺から京都に戻ったとき、西洞 院高辻にある俗弟子覚念の屋敷に滞在した。 どうして鎌倉武士であった覚念が京都の真ん中、菅原道真の屋敷跡 に居を構えていたのか、誰も説明していない。そもそも病気で亡く なる直前の道元がなぜ京都に戻ったのかも謎である。 道元は建長5年8月28日、西洞院高辻で亡くなると、東山鷲尾で荼 毘に付された。道元の遺体を運んだであろう道を歩いてみた。四条 通りを烏丸、河原町、四条大橋をわたると祗園、建仁寺の所領であ る。 東大路に面した八坂神社の南沿いの斜面をあがると、右手に高台 寺のある静かな区画があり、道元がここで荼毘に付されたことを記 念する石の塔がある。当時ここには建仁寺の末寺があったという。 ・ 宇治・興聖寺の老梅庵 鷲尾の宿に荷物をおいて、京阪電車で宇治に向かう。表紙カバー 写真として、道元を祀る興聖寺老梅庵の写真を使わせていただいた お礼を伝えるために。 道元は中国から帰ったあと、建仁寺に三年ほどいたが、自分の仏 法を究めるために深草に興聖寺を開き、越前の永平寺に下向するま での12年ほど活動拠点とした。 宇治の興聖寺は、道元の遺徳を偲んだ永井尚政候が建てたもの。 今年は永井尚政候の350回忌にあたり、法要と茶会が開かれたという。 http://www.miyaobi.com/chakai_nagai.html 雲水に私と道元の出会い、大谷哲夫先生から受けた恩義を説明し 、老梅庵で道元にも報告した。 ・ 建仁寺から盗まれていた道元像 7日朝は建仁寺を訪れた。宝治元年(1247)から二年(1248)にかけて 鎌倉を訪れた道元を迎えた寿福寺三世大曷欠了心は、後に建仁寺九 世として京都に移る。その時期を知りたかったことと、了心の著作 が残っていないかを確かめるためだった。 残念なことに、道元も読んでいたであろう了心の〇厳経心書は建 仁寺の蔵書目録になかった。火事で焼けてしまったのだろうか。宋 代の著作である〇厳経疏注を読ませてもらったが、道元が廣録で引 用している言葉「空が生じるのは海の中に泡が生じるようなものだ 」を見つけた。 雲水によれば、建仁寺は宝治二年に火災で焼失していて、前年の 火災で焼失した寿福寺を建て直した了心が、京都に招かれた可能性 は高い。道元が鎌倉から永平寺に戻るとき、了心も同行していた可 能性がある。思ってもみなかったことだ。 鎌倉行化以降、永平寺にこもって正法眼蔵と廣録の著作に専念す る道元を、了心は京都から支援していたのだろうか。当時、京都と 鎌倉が片道十五日かかっていたというから、通信時間を大幅に短縮 したことになる。 面白い話を聞いた。興聖寺老梅庵に祀ってある道元の坐像は、も ともと建仁寺に祀られていたものだった。興聖寺から像を譲ってほ しいという依頼が建仁寺に届いたとき、建仁寺はいつなら護衛がい ないと回答し、興聖寺が道元像を盗んで持ち去ることを黙認したと いうのだ。 興聖寺の道元像は、17世紀中葉まで四百年間建仁寺に祀られてい て、所有者黙認のもと、闇に紛れて興聖寺に盗みさられたものだっ た。「道元を読み解く」は、道元の越前下向が、臨済宗から曹洞宗 へと法系を変えることを目論んだ日本達磨宗の計略であった可能性 を論じた。道元像でも同じようなことがあったのか。 ・ なぜ了心は道元を支えたのか 寿福寺にいたと思っていた了心が、宝治二年から建仁寺の住持を していたとなると、道元をよりこまやかに支援したであろうと思わ れる。 たとえば建長三年秋に、正法眼蔵と廣録の清書作業のために書記 と蔵主が永平寺に派遣されたときも、了心は京都で采配をふるって いたのだろう。建長五年に健康状態が悪化した道元を永平寺から京 都に移動させたのも、京都で療養するための屋敷を手配したのも、 了心ではなかったかと思う。 鎌倉幕府の御家人であった俗弟子覚念が、西洞院高辻に屋敷を構 えていたというのは不自然だと以前から気になっていたのだ。 示寂した道元の亡骸を東山に運んだのも、了心だったであろう。 興聖寺にある道元像を造らせたのも了心であった可能性が高い。 了心は、宋への留学経験や〇厳経心書という著作もあり、寿福寺 と建仁寺という最上位の寺の住持をしていたわりには年齢も出身も 不詳で驚くほどプロフィールがみえない。日本達磨宗の開祖として 祭り上げられた道元を影で支えるために、あえて自分の存在を消し たものと思われる。 そこまでして了心が道元を支えたのは、明全亡き後、道元を支え るのは自分しかいないという思いもあっただろうが、それ以上に道 元が天童如浄から嗣ぎ、日本の仏弟子たちに伝えようとしている仏 法が大切であるという思いがあったのではないか。 釈尊から第52代目の仏祖として活動した道元の著作「正法眼蔵」 と「道元和尚廣録」は、日本のすべての仏弟子に共有されなければ ならない。 こう考えたとき、「そうだ、私の著作を比叡山の天台宗にも献上 しよう」と思いついた。天台宗宗務庁に電話して、翌朝坂本を訪れ ることになった。 ・ 天台宗宗務庁 大谷哲夫著「永平の風」によれば、深草にあった興聖寺は仁治四 年五月に、天台宗の僧たちよって攻撃を受ける。その影響もあって 、道元は夏安居が終わるとすぐに越前に下向したのだ。 この記述によれば、天台宗は道元を敵対視し、暴力的弾圧を加え たことになる。 私は、むしろこれは日本達磨宗が計画したヤラセで、天台宗の名 を騙って道元を攻撃し、一日も早く越前に下向させたかったからだ と考えている。 比叡山で学び得度した道元は、比叡山を母校と考えていただろう し、天台宗としても道元は特に優秀な卒業生として肯定的にとらえ ているのではないか。 坂本は比叡山の滋賀側にあり、天台坐主が山を下りたときに過ご す滋賀院がある。また、最澄が生まれた産湯の井戸がある生源寺も ある。ここの宗典編纂所を訪れ、拙著を献呈し、「正法眼蔵」と「 道元和尚廣録」は日本のすべての仏弟子が共有すべき言語資産であ ることを訴えた。 ・ 金戒光明寺 日曜日に学会に参加し、会場の東山のウェスティン都ホテルの窓 から北をみたら、平安神宮の少し先にある低い丘のうえになぜか心 惹かれる三重塔と社殿があった。これが金戒光明寺で、浄土宗第三 祖の然阿良忠がいた寺だった。 道元は鎌倉で名越に滞在したが、材木座にある光明寺の裏手で、 直線距離で500mほどだ。良忠は道元と同い年で、深草興聖寺で道元 の教えを受けたこともある。道元は鎌倉滞在中に良忠と頻繁に会っ たことだろう。 良忠はたくさんの著作を遺しているが、とくに重要とされる浄土 三部経と選択集を宝治二年、浄土大意抄(金篇)を翌建長元年に著 しているのは、道元と議論した結果、多くのことを思いついたから ではないだろうか。また、道元示寂の翌年にあたる建長六年に選択 仏弘決疑抄(金篇)、三心私記などを著しているのは、友を失った ことが影響していないだろうか。 仏教大学図書館を訪れて、良忠の伝記を読んだところ、宝治二年 春に上洛とあった。良忠は鎌倉から永平寺に戻る道元と同行してい た可能性がある。 「三祖良忠上人」(大橋俊雄著)によれば、「そのとき聖覚法印の 妹浄意尼の招きによって「選択集」の講義をした」そうだが、道元 も陪席して話を聞いていたかもしれない。 良忠は「都にとどまって教えを弘め」ることを求められたが、「間 もなく善光寺に出立」したとされるが、もしかすると善光寺は口実 で、道元に同行して永平寺を訪れた可能性がある。鎌倉から永平寺 に戻った後の道元は、まったく迷いも不安も感じさせずに仏法の探 求にまい進する。良忠がしばらく永平寺に滞在して、道元の話し相 手になっていたのだろうか。 ・ 道元はなぜ京都に戻って示寂したのか 興聖寺からもう一度きませんかというお誘いを頂いたので、京都 を離れる日の朝、二度目の訪問をすることにした。 合気道の朝稽古があったので、午前六時過ぎまだ暗いうちに、東 山鷲尾の宿を出るとき、「栄西と明全眠る東山つとめを終えて君も 眠るや」という歌が自然とわいてきた。 比叡山を下りて建仁寺に入った道元を指導した明全は、いっしょ に入宋したものの、道元に法を伝えた如浄が天童寺に入ったころ病 気で客死する。1227年8月、道元は明全の遺骨を抱いて帰国した。 正法眼蔵と廣録の完成を師明全の墓前で報告するために、道元は 最後の力を振り絞って京都に戻ってきたのではないか。 私は道元が病をおして京都に戻った理由がこれまでわからなかっ たが、ようやくそれがみえてきた気がした。 木幡より比叡に歩く河原道輿にて渡る君の亡骸 我が宗は唯語句なりという覚り世の人はまだ気づいておらず 奥書と識語が守る真筆をすべての人に伝えまほしき 興聖寺では雲水にこの一週間の出来事を報告し、もしかしたら老 梅庵に祀られている道元は、建仁寺に帰りたいと思っているかもし れないと伝えた。 2017年12月14日午前4時 サンフラワー船中にて 得丸久文