5921.社会主義の幻想と限界



社会主義の幻想と限界
                   平成29年(2017)6月29日(木)
            地球に謙虚に運動 代表  仲津 英治
 昨今、社会主義、共産主義国家を未だに賞賛する声、そういうス
タンスに立つことのあるマスコミを見受けます。
 私は、若い頃に社会主義国であった東ドイツとの地区境界に留学
し、その実態を垣間見ておりましたので、一筆書いておきたいと思
います。

1.国鉄の現場で
 私の国鉄(日本国有鉄道、現在のJR各社の前身)時代、昭和50年
(1975)頃に現場長をさせて頂いたことがあります。
 機関区という運転系の現場でデイーゼル機関車、気動車を保守し
、それらを運転する職場でした。
 当時の国鉄は生産性運動に失敗した直後で、労働組合が強く、現
場協議制(略称現協)という、現場管理者と組合の分会役員が話し合
い、職場での労働条件などを決める場がありました。助役など管理
者が組合員からつるし上げを食う場面も多かったようです。

 私の勤務していた機関区は、四つの組合、正式名称で言うと国鉄
労働組合(略称国労)、鉄道労働組合(同鉄労)、動力車労働組合(同動
労)そして全国鉄動力車労働組合(同全動労)の分会がありました。
全動労は昭和49年(1974 )に、社会党支持一本であった動労の中で政
党支持自由を訴え、除名された反主流派が結成した労組で、同機関
区の太宗を占めていました。政党支持自由とは言っても建前の話で
、共産党員もしくは支持者が役員中枢を占めていました。

 ある日の助役会議の折、管理職諸氏から、全動労の連中が「東ド
イツ(ドイツ民主共和国)は、すばらしい国であり、労働者の天国
のような国だ」と褒めちぎっているのですと、伺いました。
 私は「とんでもない、東ドイツは人民を檻の中へ閉じ込めて、成
り立っているような国だ。自由と民主主義の日本国に自信を持って
事に当たるべし」と実際の写真等も見せながら、管理者に申し上げ
ました。
 また、前述の現場協議で、全動労の諸氏と東ドイツの話が出たと
き、私がかの国の実情を言おうとすると、彼等は「我々は団体交渉
に来たのであって、政治向きの話をしに来たのではない」と、私の
発言をさえぎりました。都合の悪くなった時の彼らの取る戦術でし
た。

 2.東ドイツとの境界近くの街
 私は、1972年から1974年に掛けて2年近く、西ドイツのブラウンシ
ュヴァイク市という東ドイツとの境界にあと70~80キロという街に留
学しておりました。当時東西両ドイツを分断する象徴としてベルリ
ンの壁が、よくマスコミなどに取り上げられていました。自由で民
主主義の都市、西ベルリンに流出する東ドイツ市民が多く出たこと
から、危機感を抱いたソ連と東独政府は、西ベルリンを包囲する形
で高さ数メートルの壁を築き上げたのです。

 しかし、ベルリンの壁は長さ数155キロに過ぎないところ、私は、
むしろ1800キロに亘る東西両ドイツの境界はどうなっているのか、
関心がありました。1,800キロに亘り、壁か柵を設ける方が、工事費
も高く付き、監視の人手も掛かるからです。

3.東西両ドイツの境界
 東西両ドイツの境界は、国境=Landesgrenzeではなく、地区境界=
Zonengrenzeと呼ばれていました。第二次世界大戦後、戦勝国の米英
仏ソ4カ国は、ドイツをZone= ゾーン、地区)として分割占領し、1949
年に東側のソ連地域にドイツ民主共和国=略称東ドイツが創設され
、同じく西側の米英仏地区にはドイツ連邦共和国=略称西ドイツが誕
生しました。Zonengrenzeはその名残でしょう。

 ブラウンシュヴァイク市の南方にハルツ山地あり、私どもは、観
光と保養によく出かけました。そこで否が応でも、目に入ってくる
のが、東ドイツ側が構築した境界柵と監視塔でした。
 東西両ドイツの境界のその向こう側に高さ数メートルの脱出防止
用の金網柵が設置されているのです。防止金網柵には自動検知装置
が設置されており、誰かが柵に触れると二箇所から機関銃の弾が飛
んでくる仕組みになっています。現地の人の話では、時折、兎とか
鹿が犠牲になるとのことでした。

 私が写真撮影のために、植え込みに入ると、近くにいたドイツ人
の小母さん達が「ミーネ、ミーネ」と叫んで、私を止めようとしま
した。ミーネ(Mine)とは地雷のことで、実際敷設されておれば、
私は今頃、この世にいなかったかもしれません。後で留学先の大学
の友人に確認すると、地雷が敷設されているのは金網柵の向こう側
とのことでした。  
 コンクリート製の柵もあったようです。1972年前後には私は見か
けませんでした。時代が下ってからのものでしょう
か。

 監視塔は1キロおき位に1箇所立っています。双眼鏡で見ると、塔
の上には3人ぐらいの監視員がいるのが見えました。1,800キロに1
キロ毎の監視塔ですから、1,800箇所くらいあったはずです。そこに
24時間体制で常時3人を張付けようと思えば、その3〜5倍の人数が要
ったはずです。1,800×3×4で計算しますと、約2万人強の若き壮丁
を国民監視のために投入していたと推計されます。そして地区境界
から5キロ以内は、居住禁止との指示が出されていました。東側の境
界付近には人家はありません。西ドイツでは境界付近に住むよう奨
励され、税金も安くされていました。

 当時の東ドイツの人口は1,700万人そして面積は10.8万平方キロで
、大国ではありません。人口は発足当初の約1,800万人から減少し続
け、西ドイツに吸収された1990年には1,611万人にまで減っています。
従って国家としてこの境界監視警戒体制は、エネルギー&資源も含
め、相当な負担となっていたはずです。

4.ラジオ、テレビなど
 ブラウンシュヴァイクは、東側に接近したところでもあり、東ド
イツのラジオ、テレビ放送を見聞きすることは可能でした。ポーラ
ンド、チェコのテレビ放送を見れました。同じ大學のゲストハウス
で、東欧の諸兄と一緒に見たそれら番組を見たことがあります。
当然逆に東独側でも西側の放送は見聞きすることは可能でした。そ
れらから東側の人をして東西の経済格差、生活レベルの差を識る所
となり、自由を謳歌する西側の文化に憧れる心情を生んだのでしょ
う。1989年のベルリンの壁の崩壊に続く、東欧諸国の民主化に?がっ
て行ったものと思われます。

5.東ドイツの崩壊
 西ドイツに留学し、東ドイツの境界地区を見聞しまして、私は、
社会主義&共産主義国家というのは、人民を檻の中に閉じ込めない
と成り立たない国なのだなと思いました。そしていずれは東ドイツ
のような国は、内部崩壊するであろうと確信していました。しかし
それは21世紀に入ってからのことかなと想像していました。
それが思ったより早く来たのです。1985年ソ連のゴルバチョフ書記
長が西側諸国より遅れを取った経済体制を改革すべく、軍事費削減
、経済自由化を主眼とするペレストロイカを始めました。しかしな
がら結局ソ連は崩壊分裂し、実質支配していた東欧は、1989年から
1991年に掛けて、次々と自由・民主主義国家に生まれ変わって行っ
たのです。東ドイツもドイツ連邦共和国に吸収される形で1990年消
滅しました。
Wikipediaによりますと、東ドイツは、1970年代、共産圏では異例の
消費社会に到達出来た生活水準を実現したと言われています。そう
いった事もあって「(東欧経済における)優等生」「東欧の日本」
とも呼ばれていた時代もあったのです。

 冒頭の機関区の全動労の諸兄が言っていたのは、丁度このころの
東ドイツを指していたのだと思います。ドイツ人は優秀であり、組
織力に優れています。ベルリンの壁封鎖から西側へ逃げられないと
悟ると、国民は内部へエネルギーを注ぐようになり、東欧の優等生
といわれる経済レベルになったのです。オリンピックでも成績はソ
連に次ぐレベルで1968 から1988に至るまで、夏季では409個の、冬
季では110個のメダルを獲得しています。

 しかし西ドイツに比べるとその経済格差はあまりに大きく(三倍
近くあった)、東ドイツの人々は、西ドイツ並みの生活水準を求め
たのでしょう。
そして、如何せん言論の自由がありませんでした。シュタージと略
称される国家秘密警察がナチスのゲシュタポの組織と陣容をかなり
引き継ぐ形で、国民を監視していたと言われます。

6.社会主義国家の崩壊理由
 上述の東ドイツのみならず、世界的に見て、社会主義、共産主義
国家で、国民を豊かにし、自由な生活を享受できるレベルまで高め
ることができた国があったでしょうか?答えはノーでしょう。どん
な国、民族が試みても上手く行かない主義は、主義そのものが間違
っていると考えるべきだと、技術系の私は認識しています。

 私は詳しい理論的なことは知りませんが、社会主義が立ち行かな
くなる根本原因は、その悪平等主義にあると思っています。小中学
校の頃に「能力に応じて働き、必要に応じて分けられる」という考
えが社会主義の根本であると教わりました。この考えは、能力有る
人がいくら努力しても頂く収入は皆と同じという事に?がるので、能
力有る人も働く意欲を失なうでしょう。才能有る人が努力しなくな
ってしまった社会ではパイは大きくなりません。つまり皆に分け与
えるパイが大きくならないのですから、皆が豊かになれないのです。
 東西両ドイツがドイツ連邦共和国として統一されてから、数回、
ドイツを訪問する機会がありました。ドイツの友人から「旧東ドイ
ツから来た連中には、使い物にならないのがいる。平等主義に染ま
りきっているからだ」と伺ったことがあります。

 私は、この話を聞いて、かつて左翼的労働組合の全国組織の総評
(日本労働者総評議会)の中核的労組であった、国労(組合員数20
数万人、2016年現在9,000人に激減(Wikipediaによる)が要求して
いた3;4;3という昇格、昇給の条件のことを思い出しました。
この意味するところは年齢、現職在職年数そして現職群在年数(職
群=職種に応じた給与水準のこと、1~12職群があり、例として運転士
は7職群以上でした)を3;4;3の比で換算し、それに応じて自
動的に昇給・昇格させろということです。まさに悪平等主義の典型
例でした。
                         以上


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