2763.とてつもない日本の歴史2



日本の古代史をもう少し、詳細に見よう。   Fより

日本古代史は中国古代史と繋がっている。中国史は複数民族がいた
ために民族興亡史でもある。今の中国領土の大きさはEU(欧州連
合)と大体同じ大きさであり、そこには複数民族がいたし、今も複
数民族で構成されている。中国古代史もこの民族の戦いだった。
この民族戦争で負けた方の民族が日本に逃れてきたことが、近年の
考古学の調査で分かってきた。

1973年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余姚市の河姆渡遺跡
(かぼといせき)は紀元前6000年〜紀元前5000年頃のものと推定さ
れ、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行ってい
た事からその住居は高床式であった。またそこの稲はジャポニカ米
であり、その原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここ
と見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。今までは稲の原
産地は雲南地域を思われていた。

中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年 - 紀元前
2500年)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年 
- 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では
黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征
服された結果と考えられる。ここに住んでいた民族は苗族で、台湾
の先住民であり、弥生時代に海を渡って日本に来ることになる。

その証拠に、長江の民・苗族の一方は、雲南省などの奥地に追いつ
められ、その子孫は今では中国の少数民族となっているが、その村
を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイ
ムスリップしたようだ。

苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が
指摘されている。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆
や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼
いとそっくりの漁が行われている。

日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生する文明を
持っていたし、そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る
稲作漁撈民であったことで、両者ともに自然との共生し、戦いを望
まない人たちであった。このため、生活環境が違うのと戦いを嫌い
民族であったことで、共生と平和が確保されたのでしょうね。

河姆渡遺跡が滅亡した時期に日本へ苗族が最初に渡り、日本の岡山
県・朝寝鼻貝塚(紀元前4000年)に水田を作り、そこから米の
化石が出たことに通じ、長江中流領の馬橋文化は約4千年前から
2千7百年前であり、その後、苗族が日本に渡ってきた二陣目が、
日本の菜畑遺跡、紀元前700年の水田跡に繋がる。その間の文化
も侵略を受けて、徐々に日本に移民したように感じる。ここまでの
文明は文字を持たないために、記録がない。

そして、その後に呉(紀元前585年頃 - 紀元前473年)が、この地域
にあったが、越に負けて滅亡し、この民族も日本に来た事が分かる。
日本の漢字の読みは呉音である。逃げるなら海しかない。そして、
中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説がある。

このように、中国で負けた民族や王朝は、次々に日本へ来ることに
なる。古代の船に数家族で来るので、少数であるが重層的な帰化人
が日本文明を形作ることになるが、どちらにしても、中国史を見て
いないと、日本の古代史は語れない。

現代日本人の遺伝子構成は、弥生時代の始まりを契機に流入した遺
伝子がほぼ65%を占めていることから、この苗族など帰化人の影響
が大きいことは確かだ。しかし一方で、縄文の文化は後世に継承さ
れている、つまり縄文人を駆逐するまでには至らなかった。例えば
、帰化人によって営まれた水田をもつ環濠集落においても、水田稲
作用の新しい農具や工具が持ち込まれている一方で、土器などその
他多くの道具は縄文時代と基本的に変わらないのが実状で、何より
も縄文の婚姻制は戦後に至るまで継承されている。少数の弥生人と
縄文人の婚姻もあったように思う。

 このことから、帰化人が大挙して押し寄せたのではなく、少数の
帰化人がバラバラに各地で水稲耕作という安定した食糧供給を背景
に、高い人口増加率(≒寿命の長期化)を保持し、人口増および人
口比の逆転をもたらした、とする方が妥当性が高いと思われる。

そして、このようなことから日本の古事記や日本書紀を読んでも、
日本の古代史は分からないと言うことである。しかし、古代の全体
を知ると、なぜそう記述したかが分かるのである。古い神社にある
書物には、ある真実が隠されている。これを調べたのが、原田常治
である。

(参考)
大量渡来か少数渡来か(1)
http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=24724
国際派日本人養成講座  日本のルーツ? 長江文明
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html
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ミャオ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ミャオ族(-ぞく、苗族, 英語: Miao)は中国などに住む少数民族
である。モン族(英語: Hmong)ともいう。中国では貴州省に最も多
く、他に湖南省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖北省、
海南省などに住むほか、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなど
にも住む。歴史上移住を繰り返した流浪の民である。

伝説
中国の伝説によれば、紀元前26世紀ごろ華夏の民族(いわゆる「漢
族」の原型)の君主・黄帝が蚩尤(しゆう)の民族の討伐作戦を行
い、タク鹿(たくろく、河北省と遼寧省の省境付近)で破ったこと
があったという。戦いは黄河の台地で行われた。華夏はその討伐地
域の悪条件にも関わらずコンパスを用い正確に蚩尤の民族を破る事
ができた。一方で敗れた蚩尤の民族はミャオ族と黎族(リー族)に
分裂した。ミャオ族はこの後南東方向にむかって移動を続けたとい
う。ミャオ族は漢民族からは「蛮」と見なされ差別を受けたが、
一部は周王朝時代に華夏民族と同化したという。

揚子江定住
漢人がこの流浪の民を苗(ミャオ)と呼び始めたのはの先秦時代
(戦国時代)であった。そのころ苗(ミャオ)族は、苗民(ミャオ
ミン)、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子
江流域に住んでいたが、またもや中国の攻撃を受け南方へ移住を始
めた。六朝時代に揚子江南部を支配していた南朝は北方民族の侵入
に苦しめられており、あまりミャオ族を歓迎しなかったが、五胡に
よる揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝の領域に入っ
てきた。中には漢民族と同化することもあったという。

西南中国へ移住
唐王朝時代初頭、六朝時代に同化しなかったミャオ族は貴州・雲南
など西南中国へ移動した。その後ミャオ族は雲南に南詔を建国した
とする説もある。

同化政策と抵抗
ミャオ族が最も多く住む貴州・雲南一帯は13世紀の元王朝によって
中国の版図に入った。明代になると、この地域への漢族の移住が多
くなり、土着のミャオ族との摩擦が増加、大小100回を越えるミャオ
族反乱が起こっている。
清軍の残酷な討伐や弾圧のため、19世紀には多くのミャオ族が東南
アジアのタイ・ビルマ・ラオス・ベトナムに移住していった。

言語
苗(ミャオ)族は独自の言語をもち、ミャオ・ヤオ語族(別の表現
ではモン・ミエン語族)に属している。この語族に属しているのは
ミャオ語、ヤオ語以外には中国東南沿海部(福建・浙江方面)に残
存しているシェ族の言語だけである。
住む国によって中国語やタイ語などに通じている場合もある。

宗教
精霊信仰(アニミズム)である。

食文化
多くの場合、米を主食とし、野菜、肉類、魚などをトウガラシ、塩
、酢などで味付けした副食と共に、1日3食食べる。漢族の料理に似
た炒め物や蒸し物、魚の唐揚げなどの揚げ物もある。もち米で餠を
作る習慣もあり、揚げ餅も作られる。豆類も重要な食品である。蕎
麦も作り、トウガラシと醤油の味付けで食べる。漢族の習慣に合わ
せて春節を祝い、餅や豚料理などのハレの料理が用意される。北京
など、中国の大都市にはミャオ族料理を出す専門店ができている。

人口データ
全体の人口の内約半数が貴州省に集中している(1990年)。その他
以下の省が中国国内のミャオ族の98%が住む地域となっている。
貴州省: 3,600,000人 
湖南省: 1,550,000人 
雲南省: 890,000人 
四川省: 530,000人 
広西省: 420,000人 
湖北省: 200,000人 
海南省: 50,000人 

ミャオ族の中で何千人単位で北京・広州に移住した者もいる。一方
タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどには2000万人のミャオ族
が住んでいる。

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黎族
http://japanese.cri.cn/304/2006/12/05/1@80609.htm

黎族は、中国55の少数民族の一つで、人口は125万人(2000年国勢人
口調査より)、そのうちの117万人が海南省に住んでいます。歴史の
記述によりますと、黎族の先祖は紀元前11世紀前からこの地に住む
ようになりました。 

 黎族は、自民族の言葉、黎語を使い、また、地元の漢民族と密接
に交流してきたため、多くの黎族は漢民族の言葉にも精通していま
す。1957年、ローマ字の形の黎族の文字が作られました。 

ところで、山の奥に暮らしている黎族には、古くから女性の体に「
刺青」をいれる習慣があります。黎族の女の子は12、3歳の時、成人
式を迎えます。その日、村の女性の長老の主宰による祭祀の儀式が
行われ、女の子の顔、首、胴体、手足に自民族を代表する模様を特
別な「水」で書いてから、竹や木の葉の茎で作られた針で「刺青」
を完成させます。 

しかし、社会の発展に従って、この習慣はだんだん無くなっていき
ます。「刺青」をする若者は今ももういません。刺青をしているの
は、ほとんど50代以上の女性で千人しかいないといわれ、これから
先、この「刺青文化」は消えていく運命にあるでしょう。


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