2758.日本の漫画アニメ文化について



題名:日本の漫画アニメ文化について

                           日比野  

1.きちんとしてること
漫画やアニメが日本に広まってから随分になる。いまやドラえもん
やポケモンは世界中で受け入れられ、日本のポップカルチャーの代
表作にまでなった。商業誌だけでなく、アマチュア誌の祭典である
コミックマーケットも盛ん。

プロとアマの差とは何に現れるのだろうかといえば、一義的にはそ
の作品が商売になること。そのための必要条件として、作品のレベ
ルが一定水準以上あること。

商売になるということは、有る程度売れることが条件になるから、
市場に受け入れられるものでなくちゃならない。そのためには一定
数以上の人に買ってもらえるものでないといけないし、読むに耐え
る最低限のレベルは必要になる。

だからプロの作品には一定以上の水準があるものの、内容も当たり
障りのないものになりがち。ぶっとんだものはなかなか世に出せな
い。たとえ作者が出したいと思っていても。

これがアマチュアの世界になると結構自由。オタク的になるに従っ
て、興味範囲の指向性がどんどん高くなって、専門性も高くなる。
だんだん周りはついていけなくなるけれど、商売関係なしだから、
ネタの豊富さや深さ、発想のバラエティさなどは制約されない。そ
の代わり広く世には普及しにくい。

だけど、読むに耐える最低限のレベルっていうのも結構重要な要素
。これがどこまであるかで市場にだせるかどうかの指標になる。

島本和彦の漫画で、世の映画がつまらなかったから、アマチュア映
画祭の応援団長を引き受けて、延々とアマ映画を見た挙句、プロの
良さを再認識するという話があった。

主人公の漫画家、炎尾燃の台詞が印象深い。

「ああ・・・いいなあ・・・内容なんて・・・なくても、全然OK
だ。きちんとした構図で・・・きちんとしたタイミングで・・・き
ちんと声が聞こえて・・・きちんとピントがあってるだけでこんな
に癒やされるなんて、びっくりだ!!」

島本和彦の言葉を借りれば、きちんとしてるということは、それだ
けで「ありがとう」ということ。

2.アマの土壌とプロの作物
世にだせる為の壁というか最低水準というものは確かにあるんだけ
れど、この水準は、市場動向や対象市場でいくらでも変動するもの
。

もし、プロ作家にパトロンがいて、何でも好きなものを描いても世
に広く送り出せるとしたら、どんな作品をだすのだろうかと考える
と、倫理上の問題を別とすれば、多分描きたいものを描くだろう。

制約がないから、好きなことができる、発想の次元ではプロとアマ
の垣根がなくなる。

アマの最大の利点は、自由なこと。いくらでも基本パタンを外して
しまえる。プロは最低限の基本は外さないし、外せない。読者を意
識しないといけないから。

昔、料理の鉄人という番組があったけれど、鉄人道場六三郎が素人
と対決した後、いつもこんなコメントを残していたことを覚えてい
る。

「プロなら相手が何をやってくるか大体判りますが、素人さんは何
をやってくるか判らないですからね。。」

基本は守るプロと、簡単に基本を外せる自由を持つアマの違いがこ
のコメントに表れている。

だけど、いくら基本でも延々と繰り返したり、知れ渡ったりすれば
、やがて飽きられるもの。

準主役とか脇役キャラが唐突に主役に絡んで、昔話をしたりするシ
ーンとかになると、すかさず死亡フラグキター、なんて掲示板に書
き込まれたり。

新しいパタンはアマチュアから起こる可能性が高いし、起こってい
るから、アマの世界がまったくないとプロの世界自体が縮小してし
まう危険すらある。

イメージとしては、アマチュアの土壌にプロの作物が育つ感じ。ア
マチュア同人誌からスタートして、プロデビューを果たした作家は
沢山いる。アマの土壌がプロの作物を育てている面があることは否
定できない。

3.コミケは誰のものか
コミックマーケット、通称コミケは、夏と冬の年2回行われる日本
最大規模の同人誌即売会。昔は晴海でやっていたんだけど、規模が
大きくなりすぎて人員収容の問題が出てきて、今は有明の東京ビッ
クサイトで行われている。

コミケの参加者は自分で作った作品を売ったりもするけれど、お目
当てのブースでお気に入りの作品を手にいれる楽しみもある。互い
に売ったり、買ったり。交流の場。

開催期間は全国から物凄く人があつまる。のべにして、40万人か
ら多い時では50万人を超えるという。

ここまで集まると当然経済効果が生まれてくる、下手な花火大会な
んかより全然凄い。

1994年におきた幕張コミケ追放事件では、大量のキャンセルを
出した影響で、周辺の宿泊施設や飲食店に甚大な被害がでたという
。

同人誌市場であっても規模が拡大すると、描きたいものを描いても
それを喜んでくれる人が出てくる。商売を抜きにした、一種の特殊
市場が成立してくる。

プロもそこに顔をだし、自分が本当に書きたいものを描いてくるよ
うになる。昔はコミケで名を売って、出版社の目にとまりプロデビ
ューという流れがあったけれど、今は逆にプロが同人誌を出す逆の
流れもあるという。「プロ同人作家」という言葉もあるくらい。

こういう市場では、金とか利益とかなんて、もはや二義的なもの。
自分が描きたいものを描いて、それを喜ぶ人がいて。喜ぶ側の人も
その作品に触発されて自分で同人誌を出すようになったりする。創
作活動と購買活動が連鎖的かつ双方向的になっている。能動的購買
活動になってゆく。

能動的購買活動は自分が購買者であると同時に、発信者として相手
に何らかの影響をあたえる。ファンから次回作を期待される、頑張
る、また喜ばれる、そんな循環。布施の商品の市場。

コミケはそんなニーズから発生した必然の場なのかもしれない。

だけど、作品が世の中に受け入れられるに従って、作品は個人のも
のから、社会のものへ、ひいては国や世界全体の共有財産になって
ゆくもの。

一定以上のレベルの作品になると当然市場が発生するわけだから、
商売が絡んでくる。どんなに素晴らしい作品でも個人だけでは世の
中に普及させるのはとても時間がかかる。

今のように時代の流れが早い社会だと、すぐに埋もれてしまって流
されてしまう。やがて再評価される場合だってあるけれど、忘れら
れてしまう可能性のほうがうんとある。その意味で、商業主義はま
ったくの悪だというわけじゃない。

儲かりそうだから、広く売って利益をあげるものと、世の中の共有
財産だから広く世の中にいきわたってゆくものとは、分けて考える
べき。

つきつめていくと、芸術や文化って誰のものか、という問いになる
。

他国にも影響を与えるほどの文化や芸術作品は、国家戦略兵器とし
て使える、と考える人はソフトパワー論に従って戦略的に使おうと
する。作家本人の意図に関わらず。

とどのつまり、昔から言われていることだけど、芸術は何に奉仕す
るのかという命題に突き当たる。

4.文化芸術が世の中に奉仕するとき
作家本人は、自分が表現したいものを描きたい。だけど作品を売っ
て、食べていかなくちゃならないから、出版社の意向に沿うように
なるのは仕方がないこと。出版方針には逆らえないし、編集者のい
うことも聞かなくちゃいけない時もある。それが嫌ならパトロンを
見つけるか、別のバイトをして食いつなぐしかない。

だけど、本人の意図を超えて、作品が世界に広がるときがある。そ
こまでいくと作品は本人の手を離れ、世界に奉仕する芸術になる。

多分それは、芸術を知らない人にも芸術と判るほどの芸術。天才は
その分野に精通するしないに関わらず、それと分かるもの。

サッカーで、東京ヴェルディの名波と浦和レッズの小野を比較して
述べた有名な言葉がある。

「名波のプレーを見ると、少しでもサッカーを知っている人間なら
彼が天才だと分かるんだよ。でもな、伸二のプレーを見るとサッカ
ーを知らない人間でも彼が天才だと分かるんだよ。」

普通、芸術作品を世にだすとき、その作品の対象とする市場は芸術
の分野。でも天才はその領域を超えて芸術以外にも影響を与えてい
く。

文化芸術そのものには意図はなく、理解され、受け入れられるとき
には自然に受けいれられ、広がってゆく。

スタートには、プロもアマもない。それにただ、商売が絡んだとき
からプロとアマの区別が始まる。

プロは有る程度市場に受け入れられなくてはならないから、あんま
りマニアックなのは作れない。アマはそんな制約はないから、自由
な表現が可能。その表現の土壌がプロを支え、新しい発想を生む。

プロにしろアマにしろ、本人の手を離れてしまう程の作品をどれだ
け生み出せるか、そしてその総体が国の文化力なのだと思う。

(了)


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