2740.ベトナム中部の旅



今回はベトナム中部を見ることにした。チャンパを現地で見ること
で何かの手がかりを得ようとしたことと発展が期待できるベトナム
の現状を調査した。              Fより

今回は前回のアンコールワットと同じようにホーチミン空港経由で
行く。ベトナム航空は、朝10;30成田発であり、それに合わせ
て5時50分に家を出る。今回は妻と娘が同行する。

成田・ホーチミンの所要時間は5時間、現地時間の14:30に着
く。ホーチミン経由でダナンまで飛行機で行き、車でホイアンのホ
テルへ行く。ダナンはベトナム第3の都市だそうで、ホーチミンか
らダナンまでの便は、ボイング777という大きな機体を使ってい
た。

ダナンに着いたのが午後5時で、夕食をチャンパのレストランで取
るが、料理の内容はベトナム料理と同じように感じた。それだけ
チャンパの記憶が無くなっているのでしょうね。

そのダナンとホイアンの間に国道があるが、片側2車線で車は少な
いが、バイクが多い。そこを車は100km/hで走る。国道の海側に
は、新しいリゾートホテルが建っている。そのダナンに比べるとホ
イアンの街は田舎町である。娘はまるで「ととろの森」の時代に来
たみたいだと言う。

現地を案内していただくガイドさんの話によると、ベトナムも小学
校から英語教育をするとのこと。義務教育は9年間ある。ここはフ
ランスが支配したインドシナの中心であるが、それでもベトナム戦
争相手国の言語が世界標準語であるために、それを勉強すると決断
したようだ。このため、レストランでもホテルでも街の店でも英語
は通じる。

また、大学まで行くと軍隊に行かなくてもいいので、多くの人たち
が大学進学を希望していて、大学進学率は30%であるが、大学を
出てもいい就職先がない。ホイアンでの失業率は30%以上である
という。このため、職のある仕事を変えるために大学をいくつも出
ることになるとガイドさんは嘆いていた。

長い英語教育を受け、かつ欧米人が多いホイアンに住む人たちには
英語の通じる人が多いようだ。ホイアンの街のお店でも英語が通じ
る。
ガイドさんは、現地のコンピュータ会社に勤めている。大学は経済
学を出て、次に日本語を習うためにまた大学に通ったようである。
そのコンピュータ会社の給与は月1万円だそうである。ガイドでは
日に1500円以上になると言う。このため、ガイドをサイドビジ
ネスとしてやっていると。金ができたら、日本に半年程度、日本語
の勉強に来たいという。

ダナンのリゾートホテルに欧米人が多く来るというのは、英語が通
じるからで、それに比べると日本人は少ないようだ。特に多いのが
米国人とフランス人であるが、この夏場に多いのはイタリア人とス
ペイン人で、海水浴に来るのだそうである。日本人が多いのは、冬
場の12月から3月までだそうだ。それにしても全然、韓国人も中
国人も見ない。ホイアンは田舎町であり、大型バスが入れずに団体
旅行ができないためだろう。個人旅行する欧米人や日本人しかいな
い。

ガイドさんによると今回、案内するのは我々3人しかいないと。ホ
イアンホテルに泊まったが、日本人が我々のほかに数名いるくらい
である。しかし、ホテルの部屋でNHKの国際放送のテレビを見る
ことができる。

ベトナムの人口は8000万人、ホーチミン800万人、ハノイ
500万人、第3のダナンが80万人だそうである。飛行機便は少
ない。国民の移動はバスだそうである。ハノイとホーチミンを結ぶ
バスは120人以上を乗せて運ぶため、運賃1人2000円程度で
ある。

1.ミーソン遺跡
ミーソン遺跡を最初に見たが、ヒンズー教のレンガ作りの建物で、
そのレンガに特徴がある。アンコールワットの初期ハリハラ朝のレ
ンガ作りとは明らかに違い、チャンパのレンガ作りの方が優れてい
る。レンガの焼く温度が高く、かつレンガとレンガを接着する漆喰
の技術があったように思う。このため、ハリハラ朝の遺跡とは違い
、ミーソンの遺跡は残ったのだろうと思うが、残念ながらベトナム
戦争で遺跡の中でも重要なAグループが徹底的に破壊されている。

ミーソン遺跡はなぜ、チャンパの人たちに聖地とされたかは、その
地にガルーダの山があるからで、写真で見ると分かるがワシの頭の
ような山が近くにあるのだ。ここの遺跡の特徴はスマトラ島にあっ
たシュリーヴィジャヤ王国の影響、インドの影響、クメールの影響
を受けている。レンガだけではなくて、砂岩でできた建物もある。

クメールの影響は花や複雑な文様を刻んでいることである。ミーソ
ン遺跡のできた時代は5世紀から7世紀である。リンカーのある神
殿と供物を置く塔と人が待つ建物の3つがセットになっていると。
聖地であったので、1年に数度、王族や貴族がお参りをするために
作った宗教的な施設であったようだ。

そこで、チャンパの末裔と言う人たちが、民族音楽を見せていたが
、単調な雅楽のような色彩を持つ音楽と踊りである。打楽器が中心
の音楽を聞いた。娘は大島で見たアンコ椿の踊りに似ているという。

2.ホイアンの街
ホイアンは長崎と姉妹都市である。ここには江戸初期に3000人
の日本人が住んでいて、通称日本橋があり、ここらに日本人が住ん
でいたという。日本橋の近くの商家を見たが、雨期に川が氾濫して
土間の上30cmから2mまで水が押し寄せたが、その後が残っている。
華僑のこの家には螺鈿が施された柱や家具が多くあるが、2階の庇
に鯉の彫り物もある。

華僑はずーとこの国に居て、道教の寺院なども建てているし、それ
が今もある。華僑は地元に同化するために、地元の女性と結婚して
安定を得るというが、中国とベトナムは1000年以上もの戦争を
している。そこで生き残るにはそれしかない。ほとんど、地元人に
なっている華僑と言う存在があるからこの寺院が存在できているの
でしょうね。ガイドさんに中国人の印象を聞くと、両国の戦争期間
が長い分、中国人に反感を持っているように感じた。

ホイアンの時代に使っていた船の模型を見たが、日本の弁天船に似
て木造船であるが、帆は3枚、舵は着いている。ダウとは違う。
16世紀のベトナムで焼いた陶器の破片から、どこまでが行ったか
が分かるが、東は日本、西はエジプトやアフリカまで航海していた。

ホイアンを貿易港としたのは16世紀以降であり、この時代には
チャンパからベト族(キン族)にこの地域の支配権は移っていた。
チャンパ時代のホイアンは漁村であり、大きな貿易港ではなかった
ようだ。そして、より大型船になった現在、ホイアンの港では大型
船が停泊できないことで廃れた。その港湾機能はダナンに移ってい
る。

しかし、ホイアンから航海したのは、海洋民族であるチャンパの人
たちである可能性はある。しかし、ホイアンを見て疑問がまた浮か
び始めている。チャンパ船とチャンパの航海範囲である。

次に、シルクの織物をしている工場を見たが、ベトナム人の女性が
刺繍をしている。女性と男性がミシンで縫製している。この手さば
きが非常にいい。ベトナム人は忍耐力と手が器用であると聞いたが
、この工場を見るとうなずける。衣料品、繊維産業の工場は、中国
からベトナムに移転するような気がする。妻と娘もそこでアオサイ
を仕立てた。午後2時にオーダーしたのに、翌朝7時にできている。
仕立てた1着の値段が4000円であり、非常に安い。

ホイアンの街を散策する。小さい街で道路が狭い。こので車が来な
いからすぐに歩けるが、その狭い通りをバイクが大量に通行してい
る。このため、バイクを避けて通るのが一苦労である。私たちが行
った日はベトナムのお盆で提灯の日であり、夜7時からバイクの通
行が禁止になっていた。

また、街の商店は2階建の家が連なっているので、タイムスリップ
して、50年前の日本の田舎街を見た感じである。そういう意味で
は「千と千尋」や「ととろの森」の宮崎駿の世界である。

3.フエ
16世紀にベトナム中部をチャンパから手に入れたベト族は、地域
の安定を得るために、18世紀にベトナム中部フエに王都を移した。
1945年にフランスからの独立で傀儡王朝も撤廃された。王宮は
中国の紫禁城を模した作りになっている。カイリン帝廟を見たが、
装飾に陶器の破片を張り合わせて文様を作っている。写真で見ると
分かるが、中国にはない特徴である。王朝の色を黄色としているの
もベトナム的である。皇帝の象徴を龍にして屋根に龍を乗せるのは
、中国と同じである。仏教の寺院も見たが、少年僧が多数、勉強を
していたが、ガイドさんによると孤児が多いとのことである。

フエは観光都市で、駅の近くにホテルがたくさんある。このフエで
川下りをしたが、その船は水上生活者の船で、家族全員が船に乗っ
ている。そして、この川には漁業や川砂取りなどの水上生活者が多
数、生活している。ここにも海洋民族チャム族の影を見た。

ホイアンからフエまで車で移動したが、片道3時間もかかった。
この道はハノイとダナン、ホーチミンを結ぶ国道1号線でベトナム
で一番の幹線であるが、それでも都市部は片側2車線であるが、少
し田舎になると片側1車線になる。その1号線に沿って鉄道も走っ
ているが、その鉄道も単線で非電化である。

このようにベトナムの国内交通網の整備もまだまだの状態である。
日本の技術と金でダナンとフエの中間にある東南アジアで一番長い
トンネルができて、ダナンとフエ間の所要時間は相当短縮したよう
だ。そして、今、日本の技術で20年後にハノイとホーチミンの間
に新幹線を作る計画が進行中とのこと。

また、ホイアンとフエの間に大理石を加工する工場を見たが、その
彫刻の芸術性は非常に高いと思う。ベトナム人は手が非常に器用で
ある。これは頭もいい証拠である。

フエを案内してくれた別のガイドさんは、日本に留学することが決
まっているとのこと。日本では農学部に入るようで、帰国したらベ
トナムの農業を指導し、農産物輸入の日本の会社に勤めるようだ。
このように日本との関係がどんどん高まっていくのでしょうね。

4.ホーチミン
帰国日の飛行機が23:40発であるので、ホイアンを朝早く出て
ホーチミンで帰りの飛行機までの1日を過ごした。ここで一番の繁
華街ドンコイ通りを散策したが、日本人を多数見た。ホイアンに日
本人がほとんどいないのとは大きな違いである。街には日本人のビ
ジネスパーソンも多く見かけ、かつドンコイ通りの店では日本語が
通じる。

戦争博物館の説明でも懐かしい石川さんや沢田さんの写真が多数展
示されている。ベ平連などの活動を展示して、日本に気を使ってい
るように感じる。戦争博物館を見るとベトナム戦争もイラク戦争も
侵略戦争で、かつ傀儡政権を建てるがうまくいかないと一緒である
と思った。米国のやることはいつも同じである。古い国家戦略観を
引きずった方針で国家運営をしている。

5.ベトナムの今後について
ホイアンの織物工場や大理石の彫刻で見たように手の器用さがベト
ナム人にはあり、中国の衣料品や雑貨品で今、中国が世界の工場で
あるが、当然労働賃金が安いベトナムにとって変わるように感じる。

また、ホーチミンから成田への帰りの飛行機にベトナムのたくさん
の若い人たちと席を隣にしたが、旋盤工として日本に研修生として
行く所がそうである。日本語も3ケ月の研修を受けただけであり、
このため日本語もたどたどしい。しかし、彼らは希望に満ちた明る
い顔をしている。ベトナムはこの若い人たちと同様に発展する素地
を持っているように感じる。

ベトナムと日本を繋ぐガイドさん、そして、教育大学出では職業が
なくて、日本語を専門学校で習い、ガイドをして日本語の実力を上
げて、日本の農業大学に入るフエを案内してくれたガイドさん、ベ
トナムは失業者が多い現状かもしれないが、希望に満ちた多くの若
者がいる。これに比べて、日本は豊かであるが娘も含めて日本の若
者の多くは、どうも希望が少ないのではないかと感じる。

キャノン製のデジタルカメラを娘が持っていったが、この最新式の
キャノンのカメラを褒めるし、自分も買いたいと言う。どうもキャ
ノンのプリンターのほとんどがベトナムで製造されていることをベ
トナムの多くの方は知っているようである。カメラはメイドインジ
ャパンとあり、少しガッカリした雰囲気を感じた。

今後のベトナムの発展において、道路や港湾施設、鉄道、電力施設
など社会資本を円借款の援助で作り、日本企業が田舎にも工場を建
てることができるようにする。道路整備などで物流を確立して日本
企業を誘致すれば、ベトナムはその進出企業やその工場に勤める従
業員からの税金で円借款を返し、かつインフラが整備できているの
で世界から多くの工場を呼び寄せることができるようになり、経済
的に大化けする可能性がある。

また、日本は世界を豊かにするように経済支援と企業進出を行い、
世界から尊敬される国を目指すべきで、米国のような侵略戦争を行
って世界覇権を確立するべきではない。新しい国際戦略を確立する
のが、日本の役割であると感じる。

ホーチン国際空港は出発日に新ターミナルの運用開始日であり、世
界水準のターミナルになっていた。それまでは田舎の空港のような
感じであった。このように近代化を進めて、ベトナムは徐々に世界
の標準的な設備になっていくようだ。
ホイアン・ミーソン・フエ

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