2698.穢れと禊



題名:穢れと禊

                           日比野

1.日本人を縛る穢れの思想

自殺者が年間3万人を超えるという。ちょっとした戦争状態に等し
い。自殺の原因は様々だけど、日本人特有の諦めの良さも結構関係
していると思う。外国人は日本人と比べてずっと諦めが悪い。特に
中国人は諦めないらしい。

日本人はいさぎよさを重視する。窮地においてじたばたするのは見
苦しいとされる。

外人からよく日本は清潔だといわれるのは、日本人が穢れを嫌うか
ら。日本人は意識の中で、穢れを許せないし、許さない。正直さ、
誠実さは穢れのない証拠。だから日本人は正直さや誠実さを尊ぶし
、みんな持っていないといけないものと思ってる。

ささいな悪事でも後ろめたさを感じるのは、悪事に手をそめたこと
で自らが穢れたと思うから。犯罪者は穢れた者。法に触れなくても
道徳的によくない行為を働いた場合でも穢れた者となる。汚名を着
せられても穢れたと思うし、思われる。たとえ濡れ衣であったとし
ても。

法に触れた場合は、通常、刑罰によって償いをして終わりになるけ
れど、日本人の美意識では、刑罰の他に本人が禊を行ったかどうか
も重要な指標となる。

写経をしたり、被害者へ悔恨の意を表したりして、自分を責めたり、
反省したりする姿勢は禊を行っていると受け取られる。

穢れた者は禊を行って初めて許される。逆にいえば、穢れてしまっ
たのにも関わらず、禊を行わない者は、眉を顰められる。距離を置
かれる対象となることさえある。

だから、特に著名人なんかが世間の非難を受けると、お百度参りと
か、八十八箇所巡礼とか、いわゆる”禊の旅”に出たりする。一定
期間が経てば、禊は終わったと戻ってくる。

何をもって禊が終わったとするかは、あいまいというか基準は無い
んだけれど、修行の過酷さと禊の期間を掛けた積でなんとなく判定
されている。


2.禊の基準

日本社会では、罪は穢れと扱われ、禊をすることで世間から許しを
得る。

たとえていうなら、綺麗な服を着ている人が、罪という泥で服が汚
れたら、周囲の人にまず謝る。その後で穢れた自分を恥じ入り、こ
んな格好で皆様の前にはいられないと、山に篭る。しばらくたって
、汚れが薄くなって目立たなくなったころ、そろそろ戻っていいで
しょうかと、世間様にお伺いを立てて、帰ってくる。

だけど服についた泥は洗って綺麗にした訳ではなくて、自然に乾い
て目立たなくなっただけ。本人は泥がまだついていることを知って
いる。元に戻って生活している内に忘れてしまったり、気にならな
くなってゆく人もいるけれど、一生その泥汚れの跡を気にする人も
いる。

日本社会だと穢れを清める方法として禊の考えがあるので、個人的
なものである筈の道徳規範の中に、社会的に罪を償う規範が混ざっ
ている。表面上では、社会的に罪を償う方法は法律で決められてい
るのだけれど、禊という潜在的な罪を償う規範があって、二重構造
になってる。

だから、たとえば凶悪犯罪者が刑期を終えて出所してきて、反省の
様子もみせず、刑期を終えたのだから非難される謂れはないという
態度をとったりとすると、日本人はとても違和感を覚える。刑期と
いう社会的な償いは果たしているけれど、禊という潜在的償いを行
っていないと感じるから。



3.禊の方法

日本では、穢れは忌むべきもの。穢れないように生きようと注意し
ている分にはまだいいけれど、穢れを否定する考えが極端になると
、そもそも穢れなんて無ければいいんだ。とか、穢れなんか最初か
ら無いんだと思ってしまうことさえある。穢れそのものを否定する
と、世の中は性善説で出来ているんだと幻想を持つようになる。

そんな日本社会では人は、行動において、常に穢れないような行動
を選択することになる。自分が穢れているかどうかは世間の反応を
みればよく判るから、いつも世間の目を気にするようになる。道徳
規範から外れたものは穢れとされてしまうので、穢れには近寄らな
いように、穢れないようにと生きてゆく。

究極的な禊として、時には死を選ぶことさえある。穢れは自分が背
負って消えてゆく。人様には迷惑をかけまい。これ以上穢れさせま
せんから、と。本当は死を選んだ方が、ずっと迷惑をかけているの
だけれど。

こういった穢れを忌避する考えに対して、汚れは洗濯して綺麗にし
ましょうと仏教は教えている。過ちを反省して、智慧を得て、自ら
を救うというスタンス。罪の認識と原因分析と対策まで行う。苦集
滅道のプロセスが働く。

汚れたら、何故汚れてしまったのだろう。汚れるところにいたのが
悪かったのだろうか。そもそもこの汚れはどこからきたのだろう。
と苦の原因を集め、分析する。

汚れは浄化してしまえば、綺麗になる。汚れた服も洗濯すればまた
着ることができる。泥そのものが浄化できないのであれば、周りを
覆ってしまえば、汚れが飛びちらないのではないかとか、泥を迂回
する道をとって、汚れないようにしようとか、分析した原因に対し
て対策を施し、苦の原因を滅する。

その後で、この汚れの原因はこれこれで、こう対策すればいいのだ
と智慧を得る。罪を償う方法は、個人の反省であって、個人内で完
結している。世間に許しを伺うことはない。

禊は死ではなくて、反省と智慧であると転回することが大切。死を
選ぶことで本人の穢れは消えても、周囲の人に苦しみの原因を作っ
ていることを忘れちゃいけない。

日本は豊かな国土をもとにして、穢れを嫌う国民性を養うことで高
い精神性を保ってきた。穢れは死やお篭りで祓うのではなく、反省
と智慧で洗うという認識へ転化できれば、一段と高みに上れる。

(了)


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