4494.禊修行と脊髄反射



禊修行と脊髄反射
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様

月刊『武道』に、私が教えていただいている合気道の多田宏師範が連載している
「稽古に励む」という記事が今年4月から連載されています。現在発売 中の
10月号には、「一九会道場」という禊道場のことが書かれています。

私は、今年3月に一九会道場で、早稲田大学の女子学生の初学修行に集いまし
た。そのときの印象があまりに強かったので、メモを残しました。それを お届
けします。

どうしてこの女子学生は、すばらしい修行ができたのかと、半年間折に触れて考
えてきましたが、彼女は中学生のころ、フランスのオルレアンにお父さ んの仕
事の関係で5年間滞在していました。そこで異文化体験をしたことが大きいので
はないかと思いいたりました。

異文化体験がどうして禊につながるのか、その解説はあらためて行ないます。
では、まずは、3月の報告から

とくまる


禊修行と脊髄反射

1 私と一九会道場
私は2004年12月に自由ヶ丘道場で初段を頂き、その年の納会の二次会で、先輩と
の会話の中で一九会道場の名前を聞いた。その名前は、1993 年夏に月窓寺道場
の稽古後の飲み会で先輩から聞いた、初段を頂いたら必ず受ける「背中を叩かれ
ながらひたすら声を出す」修行のことだとすぐに記憶 が結びついた。先輩から
は君には無理だろうと言われたものの、月窓寺では女性でも行っているのだか
ら、案ずるほどのことはないだろうと思って、帰宅するなりネットで調べて初
学修行を申し込んだ。

1月は座が立たなかったので、2005年2月に第515回の初学修行を受けた。雪が積
もり控室では手袋をしてコートを羽織っていた。同期は5人 で、月窓寺道場の伊
藤瑞穂さんもおられたため、顔なじみの方々がたくさん集いに参加してくださ
り、非常に心強く感じた。自由ヶ丘道場出身の広瀬さ んも最終日に集ってくだ
さった。

初学したことを多田先生にご報告すると、「(話は)坪井から聞いておる。次は万
度祓いに行きなさい。ノルということがわかるから」と次なる目標を いただい
た。すぐに万度祓いと集いに参加したが、鈴をうまく振れない(今なお調子が合
わないと注意されてばかりだ)し、畳の上に正座すると足が痛 い。その後は誰
か知っている人が初学するときに日帰りか一泊二日で集うのと、丸集いを五回し
ている。昨年は寒修行4日と暑気祓いにも参加した。

私にとって、初学の経験は、その後、資格試験を受験するにあたっての頑張る気
力をくれたので、非常に感謝している。けっして足しげく通っているわ けでな
く、いまだに鈴ひとつ満足に振れていないが、今年2月の集いのときにいくつか
思ったことがある。どこまで当たっているかわからないので、以 下にまとめ
る。ご意見ご助言頂ければ幸いである。


2 初学者は素直に全力で声を出すべし
初学修行をするにあたって、大事なことは、最初から最後まで素直な気持ちで全
力を尽くして叫ぶことだろう。「もっと大きな声で」と言われたらさら に大き
な声を出す。「エミタメ」の「エ」を強くと言われたら、そこを強く叫ぶ。「息
を鋭く吐け」「気合いを入れろ」「下腹部に力を入れろ」と言わ れたらできる
だけそう試みる。背中が多少痛くても、ひたすら声を出すことが大切である。

今回の初学者は、まさに素直で一生懸命だった。でも一生懸命を三日続けて日曜
日の午前には、もうこれ以上改良されないのではないかと私は勝手に 思ってい
た。ところがである。日曜日の午後、集いの方に激しく体を揺すられた後、突
然、強く鋭い声が出るようになったのだ。それまでと全く違った 声で、いった
い何が起きたのかと思ったほどだ。初学者は前に向かって「エー」と叫んでいる
のに、祓い場の後ろのほうに座っていた人たちにまでその 声はよく響いた。

いったいこれはなんだったのだろう。声を出すときの喉の使い方あるいは肺や気
道の使い方が変わって、新たな力強くて高調波成分を有する共鳴が生ま れたと
考えられる。どこかに新しい空気の通り道ができたのだろうか。最初から三日間
ずっと素直に頑張りつづけてきたから、声も枯れて体が熟して、 このような変
化が起きたのだろう。

これまで何度か集ったが、この現象に遭遇したのは初めてだったので、驚いた。
これまで一九会の初学の集いは、横で声を出させるか、背中を叩くこと にある
と思っていたが、声をとことん出させて、新たな声の共鳴を得させることにある
のかと思いなおした。

帰宅途中に一九会の成田さんに、最後の鋭い声は何だったのかと伺ったところ、
「祓えたということだよ」と言われた。あの声が出ることが「祓えた」 という
ことなのか。だとすると、祓えてないまま初学を終える人がほとんどということ
になる。三泊四日で祓うためには、最初からがんがん飛ばして、 全力疾走する
ほかなさそうだ。


3 何を祓うのか
さて、三日間ひたすらトホカミエミタメと叫び続ける修行はいったいなんのため
にあるのだろうか。「そんなこと考えなくていいよ」と言われてしまい そうだ
が、私はやはり考えてしまう。

祓うのは、言葉ではないか。言葉に束縛された思考であり、自我である。こうあ
るべし、こうでなくてはならないという言葉にもとづいた規範である。 ひたす
ら一生懸命に雄叫びをあげている時に、いったいどんな言葉が必要だろう。

(1) 過去を祓う・今を生きる
まず、言葉の意味の否定である。言葉で考えない癖をつけるのだ。なぜ言葉で考
えてはいけないのか。言葉を否定する必要があるのか。

言葉は、認知能力を制限し、行動を遅らせる。一般に言葉の指し示すものは、過
去に経験した記憶であるからだ。言葉で考えると、自分がこれまで経験 したこ
との中に意味を求めることになる。これでは未曾有の危機には対応できない。

現今の状況を乗り切ろうとしているときに、過去を引っ張り出してきても、あま
り意味がない。パブロフの犬の実験のように、我々はある言葉の後で経 験した
記憶を結びつけて記憶する。それがどれだけ普遍的な結合であるかを確かめるこ
ともできないまま、我々は言葉を記憶と結びつけて使っている。

「群盲象を撫づ」の故事のように、言葉と記憶の結合は、人によって異なる。こ
の故事では、大工は象の足に触れて「象とは柱のようだ」といい、絨毯 屋は耳
に触れて「象とは絨毯のようだ」といい、ペットショップの店主は鼻に触れて
「象とは蛇のようだ」と語った。これは、その人の経験が認識でき ること、言
語化できることを制約する例である。

未曾有の危機に直面した場合、言葉で考えてはいけない。現実を直視して、全体
状況を理解し、個別の対処が必要なところを見つけ、とにかく自分の もってい
る力を出し切ることが大切である。

言葉は条件反射であって、言葉が耳から入ると、脊髄で反射を起こして意味が思
い浮かぶ。言葉はその都度意味を確認しながら反応するものではないた め、早
合点や早とちりしがちなのである。だから言葉で考えないことはとても大切である。

(2) 人間と動物の区別を祓う・野生に戻る
言葉を否定するというのは、人間と動物の区別を否定すること、自分も野性動物
であることを確認することである。目をつぶって、叫び続けている初学 者は、
一匹のサルである。上げ膳据え膳で、余計な心配もなく、ひたすら雄叫びをあげ
るサルに戻るのは、人間と動物の区別を祓い、自分のなかの野生 を確かめるこ
とになる。

それによって、今を一生懸命、言葉に頼らないで生きていくコツを覚えることに
なる。


4 脊髄反射の感覚
今回の集いでは、脊髄反射についていくつか思いついたことがある。

(1) アーラヤ識が存在するなら器官や分子構造をもっているはず
金曜日の夜、たまたま仏教の講演会でアーラヤ識の講義を聞いてきたという方の
話をうかがった。講演内容のメモも見せてもらったが、何がなんだかわ からない。

ただ、話を聞いていて思ったことは、もしアーラヤ識というものが実在するな
ら、それは分子構造をもっていなければならないということである。過去 に獲
得した記憶であろうと、外界を観察して得られた刺激であろうと、その刺激を画
像化したり音声化して再生するメカニズムがないことには、アーラ ヤ識は存在
しえない。

それが、通常の大脳皮質の視覚野や聴覚野で感知している視覚や聴覚(マナ識)と
は違うことは間違いない。大脳皮質以外で外界の刺激を認知できる場 所はある
だろうか。

(2)  刺激が大脳皮質に到達する前に処理する脊髄反射
およそすべての求心性の感覚神経が経由するのが上行性脳幹網様体賦活系であ
る。ここに視覚刺激をパターンとして表示したり、音響刺激のドップラー シフ
トや近寄ってくる方向を示す機能があるのではないだろうか。

これまでの自分の経験の中で、ひょっとしてこれは脊髄反射ではないかと思った
ものがある。

・高木正勝のビデオ作品で、シルエットになった人の動きに懐かしさを感じた。
・尾形光琳の絵の中に、夕暮れの村の空の上を飛ぶ鳥を本物の鳥だと感じて、近
づいてみたらひらがなの「へ」の字だった。

・人ごみの中であるのに、知り合いの顔がパッと目に入る。
・遠くを歩いている人が、自分の知り合いであることが、目に入る前にわかる。

・カクテルパーティー効果と呼ばれる、雑然とした環境で自分の名前や自分の非
常に興味あることが話されているとそれが聞こえる現象。
・漠然とラジオを聞いていても、自分の故郷の「大分」、「大分放送」という単
語だけはよく聞き取れる。

・蚊の羽音が神経を逆なでする。
・救急車のサイレンの近づく音が耳につく。

こういった認知現象はすべて、刺激が大脳皮質に到達する前に、脳幹上行性網様
体に入力される刺激と、脳室内の免疫細胞がもつパターン記憶が生みだ してい
るのではないか。

この話を佐能君に話したところ、福岡の祥平塾には全盲(4歳のときにアトピー
の薬の副作用で目がみえなくなった、ヨシズミ氏?)の方が合気道をし ていて、
先生と同じ動きをしていると教えてくれた。彼は、おそらく大脳皮質の視覚野だ
けが損傷(炎症?)して全盲となったのであり、眼球に入って きた視覚刺激を網膜
からて脊髄に送る視神経は正常だから、脊髄で輪郭やパターンが見えているのか
もしれないと思った。

(3) 脊髄反射と動体視力
いつも多田先生がおっしゃられる「相手を見ない」、「頭を低くして、相手が視
界に入るか入らないかの位置をとる」、「歩くときは遠くを見て歩く と、誰と
もぶつからない」というのも、大脳皮質視覚野ではなく、脊髄で相手を見ること
かもしれないと思った。

ひとつには視覚野で相手を見ないことによって、自分の目が奪われることがなく
なることが重要である。もうひとつ、脊髄で相手を見ることで、反応 (反射)速
度が速くなるということはないだろうか。

こう考えた理由は、動体視力を高めるソフトに「武者視行」というのがあり、こ
れはパソコン画面上で点の動きの変化を早く感じ取る訓練を行なうもの だ。
「動体視力の訓練」の実体は「脊髄反射の訓練」かもしれないと思ったことがあ
るからだ。

以上、専門知識もない者が、たまたま感じ思ったことにすぎないが、他の方々と
意見交換するために整理しておくことにする。(2012/03 /16)


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