4299.禊修行と脊髄反射



禊修行と脊髄反射
From: tokumaru

みなさま

何が言いたいというわけでもないのですが、先週、禊修行に参加し
て、そのときに思いついたことを報告します。

禊修行と脊髄反射
                      多田塾 得丸久文
1 私と一九会道場
 私は2004年12月に自由ヶ丘道場で初段を頂き、その年の納会の二
次会で、先輩との会話の中で一九会道場の名前を聞いた。その名前
は、1993年夏に月窓寺道場の稽古後の飲み会で先輩から聞いた、初
段を頂いたら必ず受ける「背中を叩かれながらひたすら声を出す」
修行のことだとすぐに記憶が結びついた。先輩からは君には無理だ
ろうと言われたものの、月窓寺では女性でも行っているのだから、
案ずるほどのことはないだろうと思って、帰宅するなりネットで調
べて初学修行を申し込んだ。

 1月は座が立たなかったので、2005年2月に第515回の初学修行を受
けた。雪が積もり控室では手袋をしてコートを羽織っていた。同期は
5人で、月窓寺道場の伊藤瑞穂さんもおられたため、顔なじみの方々
がたくさん集いに参加してくださり、非常に心強く感じた。自由ヶ丘
道場出身の広瀬さんも最終日に集ってくださった。

 初学したことを多田先生にご報告すると、「(話は)坪井から聞い
ておる。次は万度祓いに行きなさい。ノルということがわかるから
」と次なる目標をいただいた。すぐに万度祓いと集いに参加したが
、鈴をうまく振れない(今なお調子が合わないと注意されてばかり
だ)し、畳の上に正座すると足が痛い。その後は誰か知っている人
が初学するときに日帰りか一泊二日で集うのと、丸集いを五回して
いる。昨年は寒修行4日と暑気祓いにも参加した。

 私にとって、初学の経験は、その後、資格試験を受験するにあた
っての頑張る気力をくれたので、非常に感謝している。けっして足
しげく通っているわけでなく、いまだに鈴ひとつ満足に振れていな
いが、今年2月の集いのときにいくつか思ったことがある。どこまで
当たっているかわからないので、以下にまとめる。ご意見ご助言頂
ければ幸いである。

2 初学者は素直に全力で声を出すべし
 初学修行をするにあたって、大事なことは、最初から最後まで素
直な気持ちで全力を尽くして叫ぶことだろう。「もっと大きな声で
」と言われたらさらに大きな声を出す。「エミタメ」の「エ」を強
くと言われたら、そこを強く叫ぶ。「息を鋭く吐け」「気合いを入
れろ」「下腹部に力を入れろ」と言われたらできるだけそう試みる
。背中が多少痛くても、ひたすら声を出すことが大切である。

 今回の初学者は、まさに素直で一生懸命だった。でも一生懸命を
三日続けて日曜日の午前には、もうこれ以上改良されないのではな
いかと私は勝手に思っていた。ところがである。日曜日の午後、集
いの方に激しく体を揺すられた後、突然、強く鋭い声が出るように
なったのだ。それまでと全く違った声で、いったい何が起きたのか
と思ったほどだ。初学者は前に向かって「エー」と叫んでいるのに
、祓い場の後ろのほうに座っていた人たちにまでその声はよく響い
た。

 いったいこれはなんだったのだろう。声を出すときの喉の使い方
あるいは肺や気道の使い方が変わって、新たな力強くて高調波成分
を有する共鳴が生まれたと考えられる。どこかに新しい空気の通り
道ができたのだろうか。最初から三日間ずっと素直に頑張りつづけ
てきたから、声も枯れて体が熟して、このような変化が起きたのだ
ろう。

 これまで何度か集ったが、この現象に遭遇したのは初めてだった
ので、驚いた。これまで一九会の初学の集いは、横で声を出させる
か、背中を叩くことにあると思っていたが、声をとことん出させて
、新たな声の共鳴を得させることにあるのかと思いなおした。
 帰宅途中に一九会の成田さんに、最後の鋭い声は何だったのかと
伺ったところ、「祓えたということだよ」と言われた。あの声が出
ることが「祓えた」ということなのか。だとすると、祓えてないま
ま初学を終える人がほとんどということになる。三泊四日で祓うた
めには、最初からがんがん飛ばして、全力疾走するほかなさそうだ。

3 何を祓うのか
 さて、三日間ひたすらトホカミエミタメと叫び続ける修行はいっ
たいなんのためにあるのだろうか。「そんなこと考えなくていいよ
」と言われてしまいそうだが、私はやはり考えてしまう。
 祓うのは、言葉ではないか。言葉に束縛された思考であり、自我
である。こうあるべし、こうでなくてはならないという言葉にもと
づいた規範である。ひたすら一生懸命に雄叫びをあげている時に、
いったいどんな言葉が必要だろう。

(1)	過去を祓う・今を生きる
 まず、言葉の意味の否定である。言葉で考えない癖をつけるのだ
。なぜ言葉で考えてはいけないのか。言葉を否定する必要があるの
か。
 言葉は、認知能力を制限し、行動を遅らせる。一般に言葉の指し
示すものは、過去に経験した記憶であるからだ。言葉で考えると、
自分がこれまで経験したことの中に意味を求めることになる。これ
では未曾有の危機には対応できない。
現今の状況を乗り切ろうとしているときに、過去を引っ張り出して
きても、あまり意味がない。パブロフの犬の実験のように、我々は
ある言葉の後で経験した記憶を結びつけて記憶する。それがどれだ
け普遍的な結合であるかを確かめることもできないまま、我々は言
葉を記憶と結びつけて使っている。

 「群盲象を撫づ」の故事のように、言葉と記憶の結合は、人によ
って異なる。この故事では、大工は象の足に触れて「象とは柱のよ
うだ」といい、絨毯屋は耳に触れて「象とは絨毯のようだ」といい
、ペットショップの店主は鼻に触れて「象とは蛇のようだ」と語っ
た。これは、その人の経験が認識できること、言語化できることを
制約する例である。

未曾有の危機に直面した場合、言葉で考えてはいけない。現実を直
視して、全体状況を理解し、個別の対処が必要なところを見つけ、
とにかく自分のもっている力を出し切ることが大切である。
 言葉は条件反射であって、言葉が耳から入ると、脊髄で反射を起
こして意味が思い浮かぶ。言葉はその都度意味を確認しながら反応
するものではないため、早合点や早とちりしがちなのである。だか
ら言葉で考えないことはとても大切である。

(2)	人間と動物の区別を祓う・野生に戻る
 言葉を否定するというのは、人間と動物の区別を否定すること、
自分も野性動物であることを確認することである。目をつぶって、
叫び続けている初学者は、一匹のサルである。上げ膳据え膳で、余
計な心配もなく、ひたすら雄叫びをあげるサルに戻るのは、人間と
動物の区別を祓い、自分のなかの野生を確かめることになる。
 それによって、今を一生懸命、言葉に頼らないで生きていくコツ
を覚えることになる。

4 脊髄反射の感覚
 今回の集いでは、脊髄反射についていくつか思いついたことがある。

(1)	アーラヤ識が存在するなら器官や分子構造をもっているはず
金曜日の夜、たまたま仏教の講演会でアーラヤ識の講義を聞いてき
たという方の話をうかがった。講演内容のメモも見せてもらったが
、何がなんだかわからない。
ただ、話を聞いていて思ったことは、もしアーラヤ識というものが
実在するなら、それは分子構造をもっていなければならないという
ことである。過去に獲得した記憶であろうと、外界を観察して得ら
れた刺激であろうと、そしてその刺激を画像化したり音声化して再
生するメカニズムがないことには、アーラヤ識は存在しえない。

それが、通常の大脳皮質の視覚野や聴覚野で感知している視覚や聴
覚(マナ識)とは違うことは間違いない。大脳皮質以外で外界の刺激
を認知できる場所はあるだろうか。

(2)	 刺激が大脳皮質に到達する前に処理する脊髄反射
およそすべての求心性の感覚神経が経由するのが上行性脳幹網様体
賦活系である。ここに視覚刺激をパターンとして表示したり、音響
刺激のドップラーシフトや近寄ってくる方向を示す機能があるので
はないだろうか。
これまでの自分の経験の中で、ひょっとしてこれは脊髄反射ではな
いかと思ったものがある。
・高木正勝のビデオ作品で、シルエットになった人の動きに懐かし
  さを感じた。
・尾形光琳の絵の中に、夕暮れの村の空の上を飛ぶ鳥を本物の鳥だ
  と感じて、近づいてみたらひらがなの「へ」の字だった。
・人ごみの中であるのに、知り合いの顔がパッと目に入る。
・遠くを歩いている人が、自分の知り合いであることが、目に入る
  前にわかる。
・カクテルパーティー効果と呼ばれる、雑然とした環境で自分の名
  前や自分の非常に興味あることが話されているとそれが聞こえる
  現象。
・漠然とラジオを聞いていても、自分の故郷の「大分」、「大分放
  送」という単語だけはよく聞き取れる。
・蚊の羽音が神経を逆なでする。
・救急車のサイレンの近づく音が耳につく。

こういった認知現象はすべて、刺激が大脳皮質に到達する前に、脳
幹上行性網様体に入力される刺激と、脳室内の免疫細胞がもつパタ
ーン記憶が生みだしているのではないか。
この話を佐能君に話したところ、福岡の祥平塾には全盲(4歳のとき
にアトピーの薬の副作用で目がみえなくなった、ヨシズミ氏?)の方
が合気道をしていて、先生と同じ動きをしていると教えてくれた。
彼は、おそらく大脳皮質の視覚野だけが損傷(炎症?)して全盲となっ
たのであり、眼球に入ってきた視覚刺激を網膜からて脊髄に送る視
神経は正常だから、脊髄で輪郭やパターンが見えているのかもしれ
ないと思った。
 
(3)	脊髄反射と動体視力
 いつも多田先生がおっしゃられる「相手を見ない」、「頭を低く
して、相手が視界に入るか入らないかの位置をとる」、「歩くとき
は遠くを見て歩くと、誰ともぶつからない」というのも、大脳皮質
視覚野ではなく、脊髄で相手を見ることかもしれないと思った。
 ひとつには視覚野で相手を見ないことによって、自分の目が奪わ
れることがなくなることが重要である。もうひとつ、脊髄で相手を
見ることで、反応(反射)速度が速くなるということはないだろうか。
 こう考えた理由は、動体視力を高めるソフトに「武者視行」とい
うのがあり、これはパソコン画面上で点の動きの変化を早く感じ取
る訓練を行なうものだ。「動体視力の訓練」の実体は「脊髄反射の
訓練」かもしれないと思ったことがあるからだ。

 以上、専門知識もない者が、たまたま感じ思ったことにすぎない
が、他の方々と意見交換するために整理しておくことにする。
(2012/03/16)



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