3824.デジタル般若心経



デジタル般若心経
From: tokumaru

皆様、

このところ、鈴木先生のご本や、井筒先生の本、さらに大乗起心論
などに目を通しているうちに、なんとなく「空の記号=言葉による
表現型」、「色=現実である遺伝子型」という対比で考えると、小
川さんの理解で般若心経は説明できると思い至りました。

以下、ご参考まで、デジタル般若心経をお届けします。

「空」=「言語」、「遺伝子配列」、「情報」というふうに解釈を
しています。

得丸公明

***** デジタル般若心経 *****

観音様が、デジタル情報という遺伝子の生命メカニズムの原理に気
づいたとき、すべて世界の現象はヒトの言葉というデジタル表現型
で表されていることにも気づかれた。そしてすべての悩みや苦しみ
から解放された。

いいかね、現実世界は情報によってそのまま表すことができ、情報
は世界をあるがままに表現できる。これは現実世界が情報を求めて
いるのであり、情報が現実世界を生み出すべく作用している。

言葉という情報の表現型が現実という遺伝子型に代わるのは、感覚
においても、思考においても、行動においても、記憶においても、
すべて同じように代替できる。

したがって、すべての遺伝子型は、言葉という表現型の情報の層で
記述され、そこでは、物理的存在ではなく情報であるため、生まれ
ることもなければ、消えることもなく、(デジタル情報だから)劣
化することもなければ、清らかになることもない、増えたり減った
りすることもなく、形を変えて変転しつづけるのであり、感覚も思
考も行動も記憶も仮想的に行うことができる。

(言葉の世界においては)視覚も聴覚も嗅覚も味覚も体感も心の動
きも(実体のない)仮想モードで行なえるのであり、姿も、声も、に
おいも、味も、触感も、仮想的な言葉のはたらきとなる。

情報層の情報は目にみえない、意識もされない。それは無明ではな
いが、この世の無明がなくなるというものでもない。また情報が古
くなって途絶えることはないが、この世の中で老いて死ぬものがな
くなるわけではない。

「これが苦しみである」という苦諦も、「これが苦しみの集起であ
る」という集諦も無い、「これが苦しみの滅である」という滅諦も
無い、「これが苦しみの滅へ向かう道である」という道諦も無い。

その情報を知ることは無く、手にすることも無い。もともと情報に
おいて所有できるものは何も無いからである。菩薩たちは、情報次
元での「智慧の完成」に依拠しているから心にこだわりが無い。こ
だわりが無いゆえに、恐怖も無い。

情報のすべてが遠い過去からつながってきているものであり、転倒
した夢想のように最終的なやすらぎの境地へと導いてくれる。

過去、現在、未来の三世の諸仏もみんなこの般若の知恵によったが
ために、完璧な悟りを得られた。

だから次のことを知るべきである。般若波羅密多は大いなる真言で
あり、私たちの灯明となる真言である。この上ない真言であり、比
べるもののない真言である。全ての苦を除くことを可能にしてくれ
る。真実であって、虚偽ではない。

それでは般若波羅密多の真言を説こう。その真言とは次の通り。
「行った行った、彼岸に行った、悟ったぜ、目出度いぞ。

以上
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大乗起信論と本覚についてのレポートがありました
From: tokumaru

皆様、

3年前の3月に、仏教塾の卒業論文として「大乗起信論」を取り扱っ
た「本覚とは、生命記憶であった」というものを書いていました。

3年経って、多少手直しして、「空」を時間から情報におきかえてみ
ました。

手直ししたところに「(+) 挿入 (-)」マークをつけましたので、
原文と比較してくださっても結構ですし、井筒俊彦と比べてくださ
っても結構です。

得丸公明

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L9/190301.htm

***** 天台本覚とは生命記憶であった *****

はじめに : どこに論点があるか

 現在容易に読むことのできる天台本覚思想に関する研究としては
、岩波・日本思想体系「天台本覚論」、およびそれに所収されてい
る「天台本覚思想解説」(田村芳朗)、袴谷憲昭著「本覚思想批判」
のほかに、大久保良峻著「天台教学と本覚思想」、浅井円道編・著
「本覚思想の源流と展開」、またジャックリーン・ストーンによる
” Original Enlightenment and the Transformation of Medieval 
Japanese Buddhism”がある。

 田村がひとことでまとめるように、「天台本覚思想にたいしては
、現代の学者のほとんどが堕落退廃の思想とみなしている。」(p541)

 実際に、上記の著作の中で、本覚思想を積極的に肯定するものは
いない。袴谷のように積極的に批判するのが主流である。

 源信作といわれている(ものの偽作の疑いのある)『真如観』には
、「タトヒ破戒無慙ナリトモ懈怠ヲダニセズバ、帯ヲセズ、臥ナガ
ラモ、只須臾ノ間モ我身真如ナリト思ハン計ヲ極メテ安ク憑シキ事
ヤハアル」とあるほか、率直に「悪業煩悩往生極楽ノ障ト思事ナカ
レ」や、「サレバ煩悩モ即菩提ナリ、生死モ則チ法身ナリ、悪業モ
則チ解脱ナリ」とある。

 これらの文言が、堕落だ、退廃的だという批判を招いているので
あろう。実際にその時代の僧侶たちの生活態度が乱れていたという
記録もあるだろう。高名な著者の名を偽った可能性の高い文書を根
拠としているところも、冷たい反応を招いていると思われる。

 ただ私は、上記の表現だけをもって、天台本覚の思想そのものを
堕落だと批判するのは、必ずしも当たらないと考える。それらを破
戒の勧めと受け取る必要はない。むしろ、ひとりひとりの人間がす
べて真如であり、仏性を獲得しているのだから、多少の悪業や破戒
は気にしなくてもよいといった意味合いにとるべきではなかろうか
。戒を守ることが本来であることは当然のこととして、多少の破戒
は障害にならないという重み付けがあると受け取る。

 一方で、田村は「ひるがえって哲理面を見るならば、天台本覚思
想は、東西古今の諸思想の中で最も究極的なものであるといっても
過言ではない。それゆえにこそ、日本中世の仏教界のみならず、修
験道から神道、さらに文学界まで大きな影響を与え、また摂取され
たのである。」ともいっている。

  研究論文だけ読むかぎり、この天台本覚の積極的魅力について、
他分野に与えた影響力について、十分な検討が行われているとはい
えない。

 多くの研究は、『大乗起信論』にある「本覚」という単語からど
のように発展したかについて、中国の本覚概念と日本の本覚概念の
比較、あるいは「本覚」という単語を道元や日蓮らがどこでどのよ
うに使ったかといった文献学的な検討に終始している。「本覚」と
はそもそも何のことなのかという肝心要な思想の究明や定義化は試
みられていない。

 以下では、本覚思想とは何か、また、その一部を構成すると私が
位置づけする「空」の思想とは何かについて、簡単に論及する。

1 本覚思想の本質的部分が不明
(1) 法華経の中心概念である仏性
 まず、本覚思想は、法華経の中心思想である誰でもが仏になれる
とする一乗の教えに沿っている。「一切衆生身中ニ仏性アリ」(『真
如観』)とし、「真如トハ仏性ノ異名ナリ」とするから、本覚とは仏
性であるということになる。

(2) 山川草木も成仏するとき仏性とは何か
 ところが、仏性を、釈尊のように悟ることとか、解脱することと
捉えるとき、「山川草木悉皆成仏」や「山川草木悉有仏性」、「諸
法実相」、あるいは「だから草木瓦礫山河大地大海虚空が全て真如
であるならば仏でないものはない」(「天台本覚論」、P134)といっ
た言葉をどう理解すればよいのか途方にくれることになる。草も木
も、修行しないばかりか、お経ひとつ唱えるわけではない。

   心なき草木も法をとくなれば
   花もさとりをさぞひらくらん

 この和歌に歌われていることは真実であるのか。そもそも「本ヨ
リ覚ル」とは、いったいなんのことをいっているのか。

  さらにいえば、悟りとは、仏法とは何か。煩悩即菩提、生死即涅
槃、悪業則解脱をどのように理解すればよいのか、困ってしまう。

 すべての論者は、この問題と取り組むことを避けている。だが、
この核心部分を論ずることなく本覚思想を論ずる意味はない。

2 自然が法であり、文明が逸脱である
 紙数の関係で思考過程や詳しい説明は省略するが、遺伝子解析の
結果、地球上のすべての現人類が、南アフリカ出身であることが確
認された。

 ヒトとは、南アフリカの洞窟生活によって毛皮がなくなり、自然
の中で生活することができなくなったサルである。

「人間が住めるように自然を改変すること」が文明(civilization)
という言葉に一般的に込められている意味である。ヒトも含んだ文
明は、残念なことに、自然の反対概念として、ときとして自然と敵
対する関係をもつ概念として、存在している。

 また、洞窟生活の中で脳が大きくなり、音にも敏感になって、ヒ
トは言語の使用を始めた。これは文明や文化の発展に大きく寄与し
た。(+)「より正確にいえば,ヒトはゴンドワナランドの分裂したと
ころに形成された洞窟の中で,音声通信のデジタル化(情報化・表現
型化)を達成して,ことばと文化を伝承することによって急速な進化
をとげるようになったのである。ヒトの進化は他の動物に例をみな
いエピジェネティックな超高速進化である。その進化は自然の一部
であって、善であるのだが、一方で言葉の獲得によって、抽象概念
を持てるようになり、五官で感じることのできない死後の世界や将
来に対する不安を抱くようになった。」(-)
     
 私は、思想としての仏教が真理を獲得した最大の要因は、自然の
中の遊行や瞑想であると思っている。ネパールや日本という聖地が
与えた影響もあるだろう。

  遺伝子解析や地質解析をしなくても、釈尊や最澄や道元らは、自
然に落ちこぼれた人類文明の地球的な意味を直観していたのではな
いだろうか。これが仏教の悟りではないかと思う。

 ヒトの卵子は受精すると、メスの子宮の中で細胞分裂して、五億
年の生命進化の歴史を三百日の間に繰り返す。いわゆるヘッケルの
法則、「個体発生は系統発生を繰り返す」である。

  そう考えると、人間は生まれたときには、生命の記憶を宿してい
るといえる。これが本覚である。残念なことに、生まれた後は、不
自然な文明環境の中で、どんどん生命の記憶を失って、欲望と杞憂
と愚考など不自然な頭の使い方と、食べすぎで運動不足の不自然な
体の使い方に染まってしまう。

  頭も体も文明の汚染から自由にしなさい、野生の動植物のように
生きなさい。これが仏教の悟りではないか。

 こう考えると、山川草木はあるがままで悉皆成仏できるのに、人
間だけが修行し戒を守らないと成仏できないということの理由が明
らかになる。

3 (+) 空は言葉が情報というデジタルな表現型であって,物理的
存在でもエネルギーでもないこと(-)

 二月の修行の際の教学の時間に、今井長新住職より空についてご
説明いただいた。空は「実体がない」ということの意味は、今目の
前にある鋳物の風呂釜も、百年前は鉄鉱山に鉄鉱石として埋もれて
いたかもしれず、また、百年後には溶かしなおされて別の存在、た
とえば鉄道線路や自動車の車体になっているかもしれない、という
ことだという。

  空は、有無を論ずる存在概念ではなく、時間の変数に伴って後戻
り不能に変化する時間概念だと私は一時期考えていた。それこそが
まさに、アンベードカルが「ブッダとそのダンマ」の中で説いてい
ることでもあった。

「人は生きていながらいかに変化しつづけ生成してゆくかを理解す
るのは容易くない。
『これはいかにして可能か?総てが一時的であるが故に可能なのだ
』とブッダはいう。これが後に“空観”と呼ばれる理論を生み出し
たのである。仏教の“空”はニヒリズムを意味してはいない。それ
は現象界の一瞬毎に起る永久の変化を意味しているにすぎない。

  総てのものが存在しうるのはこの“空”故であることを解するも
のは極めて少ない。それなくして世界には何ものも存在しえないの
である。一切のものの可能性が依拠するのは正にこのあらゆるもの
の姿である一時性なのだ。空”は広がりも長さもないが内容のある
点のようなものである。」

 “空”は、時間概念であり、数学的に表現するならば「空」とは
「Δt (時間の最小変化量)」ということができる、(+)と考えてい
た。

 しかし、”空”は、言葉やメッセンジャーRNAのような情報である
とも考えられる。情報には実体はない。情報はコピー自由で、さま
ざまな物理的存在に形を変えて、時間や空間を飛び越えていく。

 デジタル情報である言葉が、現実存在である五官の記憶を呼び覚
まし、文化を伝える。

 そして言葉に振り回されたり、騙されたり、酔ったり、嘘をつい
たり、言葉によって我々の迷いも生まれる。

 言葉を上手に使うためには、それが使えるようなデジタル情報処
理回路、つまり意識の蓄積、経験の蓄積が必要である。

  ヒト以外の動物は言葉を使わないので、言葉の使い方をあえて訓
練する必要もない。だが、文明生活の中で本来の覚りを忘れて、言
葉の渦の中で生きている人間は、正しく言葉を使いこなせるように
なるために、日々の修行と持戒が必要になるのである。(-)


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