江戸時代の側用人政治について 側用人政治は、5代綱吉に始まる。側用人でも5名が重く用いられた。 5代綱吉の柳沢吉安、6代家宣・7代家継の間部詮彦、8代吉宗の加納 久道&有馬氏倫、そして9代家重・10代家治の田沼意次である。 側用人政治は、元禄元年から天明5年までの約100年続いた。柳沢 の下に勘定奉行として荻原重秀が、間部の下に諮問として新井白石が いた。 この時期は、日本社会の大転換期かつ発展期で社会が経済化する。 この側用人政治を潰したのが、松平定信の寛政の改革である。朱子 学を正統として、それ以外を異学として取締った。また文化弾圧も 行い、6年で失脚する。 17世紀の前半は、江戸時代初期であり、全国に城下町ができたり 、水田の開発など巨大インフラ整備が起こり、経済は繁栄を極めた。 その頂点は、1690年から1700年であるが、その後元禄バブ ルは崩壊して、藩が財政支出を拡大していたことで、借金を商人か ら行うが、これを返せなくなり、踏み倒すことになる。この前後の 時代が側用人政治時代である。 8代吉宗(1716〜1745)は、人知主義から法治主義に行政を 変革する。中国は遅れること300年後に今、法治主義を定着しよ うとしている。この法治主義が近代社会の構成として重要な要素で ある。 この吉宗が重要視したのが、町奉行の大岡忠相である。適正な流通 政策をおこない、物価を下げるとして仲間を作り、相互監視させた。 また、3段階の流通のしくみを作った。生産市場、卸、消費市場と いう現在の形は大岡が作った。萩原の通貨改革を大岡は行う。 明和4年(1767年)田沼が側用人になり、政権を担当する。 1.予算制度の確立、2.流通税の導入、3.金銀の一体化、4. 蝦夷地開拓、5.印旛沼の開発 である。