3445.クリフォード・ヒュー・ダグラス



クリフォード・ヒュー・ダグラス
既に200年の歴史を持つといわれるベーシックインカムの生みの親で
あるダグラスを知る必要があるが、これも森野さんがゲゼル研究会
で報告している。その転載をする。       Fより

賛否があると思うが、欧州では給付つき税額控除があるし、米国に
はフードスタンプという変形した形ながら既に存在している。

日本の貧困層には、このような社会福祉制度がないため、非常な社
会的な不公平が米国より大きな形で存在している。

米国を悪く言う人が多いが、この面では日本の方が遅れている。
この事実を現時点で確認する必要があるのだ。
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クリフォード・ヒュー・ダグラス
:Morino,Eiichi 
http://www.grsj.org/colum/colum/dagras.html

[gesell2505]クリフォード・ヒュー・ダグラス01
現在の地域通貨のうねりには、いろいろな理論や思想が流れこんで
きています。
私は戦前に貨幣改革論として知られながら、ケインズの表現によれ
ば経済学の「地下世界」に存在するしかなかった、諸理論も大いに
貢献しうるものがあるはずと考えてきました。
それらはまず、シルビオ・ゲゼルの理論であり、そしてクリフォー
ド・ヒュー・ダグラス、さらにはフレデリック・ソディの理論です。
いま、LetsのMLでは、ダグラス理論にたつ経済学者の発言が目立っ
ています。
日本では、歴史的にみても、ダグラス理論にたつ社会信用論者の運
動が存在しなかったようで、あまり知られていません。
エンデの遺言では、触れませんでしたが、戦前、ヴェルグルと並ん
で注目すべき取組が存在しました。
それはカナダ、アルバータ州の実権を握ったダグラス支持者の社会
信用政府の取組です。
そこで、これから少し基本的な情報をポストすることとします。
まず巷間、ダグラス少佐といわれる人間とはどんなひとであったか
、です。

クリフォード・ヒュー・ダグラス(Clifford Hugh Douglas)は英国人
です。1879年生まれ、1952年に死去。

ゲゼルと同じ時代を生きたひとです。
レーニンが「帝国主義論」を書くときに参考にしたボブソンの論敵
でありました。
産業機械工学博士、産業電気工学修士、技術顧問、エコノミスト、
著述家、そして社会信用運動の創始者でした。
その初期の職歴は、カナダ・ジェネラル・エレクトリック社(カナ
ダ、ピーターバロ)の技術者、ラシーン・ラピッズ・ハイドローリ
ック・コンストラクションの技術助手、ブエノスアイレス・アンド
・パシフィック・レエイルウェイの副主任電気技師、インドの英ウ
エスティングハウス社の主任兼マネージャー、英王立空軍航空機工
場(英国、ファーンバロ)の指導監督助手がある。

第一次世界大戦中、彼は英国王立空軍航空兵科で少佐を務め、後に
王立空軍(予備役)に籍を置いた。
技術者生活から引退後、妻と二人で、数年間、サウサンプトン港の
近くで小さなヨット製造工場を営んだ。
優れた設計のレーシングヨットのもつ美しさと機能性の組み合わせ
が彼をとりわけ惹きつけたのだ。
ハンプシャー州の古い水車場で暮らしたとき、彼は水車を利用して
発電機を回し、得られた電力を旋盤や他の機器類ばかりでなく、家
の照明や暖房に使った。
その後、スコットランドに移ったが、彼の多くの友人や支持者たち
は、彼が小さな水力発電所を自分の土地を流れる小川に建てるのを
手伝ったそうだ。
経済力の分散が彼の考えの神髄であり、彼が自ら唱えたことを実践
したことは記録されてしかるべきである。
1914年の大戦の少し前に、彼が携わった興味深い仕事の一つが
、ロンドンの郵便局地下トンネルの電気工事に関する事前の試験作
業の計画、仕様作成、実施で、後にその作業の監督を務めたが、こ
れは工学史上における完全自動化事例の初期の一つであった。
この仕事に具体的な問題はひとつもなかったが、ダグラスはしばし
ば作業を遅らせるよう、また人員を解雇するよう命じられた。
しかし、戦争が始まってみると、政府が望むものについてはもはや
カネの問題は発生しないことに気づかされた。
1916年に、ダグラスは王立航空機工場の事業の「無駄」を特定
するためにファーンバロに送り込まれたようだ。
そのために、彼は、非常に注意深く原価計算を調べる必要に直面した。
彼はこの作業を当時、「表作成機」として知られる機械を導入して
処理したが、これはそれからかなり後の、コンピュータの使用を予
想させるアプローチであった。
またこの仕事は彼の関心を、工場が賃金や給与のかたちで収益を分
配する割合に比べて、コストを発生させる割合の伸びのほうが急激
なことに向けさせた。
これはどの工場にも民間の事業所にもあてはまるのであろうか、と。

[gesell2517]クリフォード・ヒュー・ダグラス02
そこでダグラスは、英国の100以上の大企業から情報を集め、そ
の結果、倒産に瀕している企業を除き、どの事例でも総費用が常に
賃金や給料、配当として支払われる総額を上回っていることを発見
した。

このことから出てくるのは、最終生産物の一部のみがその生産によ
って支払われた所得を通して配分されうるだけで、さらに産業工程
が迂回化し、複雑化することで、現行賃金に対する間接費の割合の
増加を伴いながら、その配分が減少していくということであった。
財務上の簿記計算におけるこうした欠陥が正されなければ、彼はそ
れが完全に実行可能と考えたが、分配はますます、信用貸付や輸出
信用によって融資され、倒産や産業力の集中につながるコスト割れ
販売によって資金手当された将来の製品のための仕事(需要のいか
んに関わりなく)を進めることに依存するようになる。
それは悲惨な結果をもたらすほかないであろう。

事実、現代のジレンマである失業による大量の貧困やインフレの拡
大、債務、独占を生みだしているし、人間の努力や「完全雇用」を
維持するために地球資源の無駄遣いを伴いながら、耐えざる「成長
」や国家間の経済戦争を必要とし、軍事戦争へと発展するものだ。
この、彼の考え方は、金融制度を商品の効率的な分配のための簿記
上の便宜とみなしている、その発券制度に関する考えと同様に、当
時に経済理論家たちには完全に異質で受け入れがたいものであった。
ただひとり、オーストラリアのシドニーのアービン教授だけが賛同
したが、その直後、同教授はその職を退いている。

しかし、経済学者たちによる非難は二つの矛盾した考えによるもの
であった。
すなわち1、費用と所得の差は、費用がすべて賃金や給料などとし
て事前に支払われた金額であることをダグラスが理解できないため
に生じた幻想であるとして、ダグラスの分析の要点である時間要因
を無視している。

2、この差は金融及び財政制度が新たな生産を刺激し、雇用水準の
維持に有効に働くとして、ダグラスの基本的な視点、つまり生産の
目的は「雇用」やその他の金融目的ではなく、消費者の利用のため
だとする見解を無視していた。

1930年代の大恐慌が残酷にもダグラスの分析を立証し、彼に世
界的な評判と支持者をもたらしたとき、彼の批判家たちは彼が金融
制度の一時的な過失を恒常的な欠陥と取り違えたのだと説明した。
しかし、その後の出来事がことごとく彼の予測に従ってきたことか
ら、こうした批判は妥当性をもたなくなった。
当時の体制側の拒絶にもかかわらず、ダグラスは1923年のカナ
ダ銀行経営調査会議及び1930年のマクミラン委員会で証言を求
められた。

また数回にわたる世界ツアーでは特に、カナダ、オーストラリア、
ニュージーランドで多数講演し、1929年には東京の世界工学会
議でもスピーチをしている。
1935年に彼はオスロ・マーチャント・クラブでノルウェー国王
及び英国公使の列席のもと重要な講演を行った。
同年、彼はカナダのアルバータ州の「連合農民」政府の主席経済再
建顧問に任命され、その年の後半、同州は「社会信用」政府と名付
けられた初の政府を選出した。
しかしカナダ連邦政府はダグラスの勧告の具体化をあらゆる方法を
使って妨害し、立法化を否決した。
いくつかの立法は通過したが、再度否決された。
その後同党は30年以上政権の座にあったが、党が最初に選出され
る基になったその原則は段階的に放棄された。
前例として、歴史に記されるべきは、二回の「州による配当」の支
払いが市民に支払われたこと、ダグラスの勧告に基づく活動期間中
に同州は借り入れを増やすことなく経済的に自立し、州の負債を大
幅に削減したことである。

こうしたダグラス理論の党派政治の袋小路への逸脱は広く知られる
ところとなった。
しかし1934年以降、政治への実験的アプローチが試みられた。
それは彼の講演や著作、すなわち英国での5回の主要講演、「民主
主義の本質」、「人間活動の悲劇」、「現実への取組」、「哲学の
政策」、「現実的立憲主義」で手がかりが提供されたものである。

1934年に社会信用事務局がダグラスを議長に設立され、議会や
政党のためでなく、有権者が望む政策目的のために投票を利用する
キャンペーンが開始された。
これに続き、地方でも、政策目的重視、無党派選挙キャンペーンが
取り組まれ、低地方税並びに地方税評価キャンペーンが取り組まれ
行政サービスを低下させず、地方税納税者の負担の軽減に成功した。
第二次大戦が組織的なこうした取組に終止符を打たせた。
社会信用運動は地方的な分散状況を示すこととなった。

晩年、1939年から1952年まで、ダグラスは自分の考えを包
括的にまとめ上げたが、それは信用の独占を強化するものときわめ
て対照的な議論となっている。
世界に多大の影響をもたらしてきた彼の理論のうちよく知られたも
のは経済の分野でのものである。

リアルクレジットの理論協同関係の増分の観念文化的遺産の理論国
民分配分の理論公正価格(補正価格)の理論などがある。
彼の政治上の考えはあまり知られていないが、重要なものである。
それはダグラス特有の実際的見地から実行され、事態の推移のなか
でフィードバックされたもので、民主主義の本質をこれほど明らか
にしているものはないとの評価があるほどである。

地方分権の重視、階層的行政管理の必要性の提起、有権者の政策立
案、並びに拒否権など多くの提起がある。
1947年、ロンドンで開催された立憲調査会でダグラスは最後の
講演を行い、現行の無記名、無責任な多数決投票の考えの転換を求
め、責任投票、記名選挙を提起した。
元労働党党首のヒュー・ゲーツケルはかつて皮肉を込めて「科学と
いうよりむしろ宗教的改革者」と述べた。
これは彼が感じた以上に的を射ているかもしれない。

哲学や政策、宗教の問題に関するダグラスの考えや、これらの言葉
に与えられた特別な意味は宗教的信条と社会に適用される原則との
関係の回復に重要な貢献となるものだ。
彼の考えでは「哲学」すなわち宇宙の概念は常に、「政策」、
−これは「哲学」によって定められた目的に向かう特有な一連の長
期的行為であるが−としてはっきりと現れるものである。

宗教(ラテン語religare「結合する」という意味)は単にキリスト
教の教義で表されるような一連の信条ではなく、まさにこれらの信
条を個人レベルのみならず社会の政治、経済関係において我々の生
活に現実に「結合し直す」ことである。
つまり彼における宗教は社会経済関係のなかで現実に宗教の教義を
結合し直す(religare)目的性のなかで政策として成立するもので
ある。



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