3152.大転換の時代が来た



世界恐慌で大量消費、大量生産の時代から精神的な充実を得る時代
になるようだ。その検討。       Fより

会社の昨日で終わり、家でユックリしているか帰郷の電車に揺られ
ているか、忙しい日常から開放されている方が多いのでないでしょ
うか?

この機会ですので、次はどういう時代がなるか、時代の変わり目を
検討したいと思う。

この時代の変革を感じるために、年末に天橋立にある籠(コノ)神社
に行こうと準備をしているが、日本の時代が来たと予感している。
どうして、日本の時代がくるかというと、拡大の狩猟放牧民族の文
化の時代から、安定した農耕民族の文化に世界は戻る必要になって
いるからである。

古代史を見ると、出アフリカの人間たちは全員・狩猟民族でしたが
、海沿いを移動した人間は、インダス文明を築き、小麦の農耕を始
める。この人たちは、中央アジアに移動した狩猟放牧民アーリア民
族に滅ばされるが、残った人たちは、海沿いに更に移動して、東南
アジアから長江に移動して、そこで米に出会い、農耕漁労で繁栄す
る。しかし、ここでも狩猟遊牧の騎馬民族の南下で追われ、日本や
カンボジアなど東南アジアに米を持って移動した。タイ人やベトナ
ム人、クメール人などがそうである。このため、ここの文化は日本
とよく似ているし、親近感を感じる。

日本にも騎馬民族は来たが、最後には農耕民族が政権を取り、日本
は、外界と遮断されて日本的な農耕文化を発展させてきた。日本以
外のタイ、ベトナムなど農耕文化国は、狩猟民族との戦争で疲弊し
て、文化的な発展ができなかった。そして、18世紀からは狩猟民
族のヨーロッパから攻められて、植民地になってしまった。

このため、王権が無くして、王権に付随していた文化もその多くを
失っていったのだ。この面で、日本は王権が維持できたために、農
耕民族特有な文化を非常に多く残したし、それを天皇制という王権
があるために保持できている。この自然との調和を大切にする日本
文化は世界的に重要になっている。

天皇が生物の学者であるということが、物語るように、日本は自然
を、そのまま観察することを重要視する。農耕民族は自然との調和
が重要であり、自然を人間の論理で考えない。

この自然に対する主知主義が、日本文化の根底にある。平安時代中
期の女流作家、清少納言により執筆されたとされる「枕草子」や
鎌倉時代には吉田兼好による「徒然草」、鴨長明の「方丈記」でも
人間の生活と自然現象の関係を克明に記されている。

このように農耕民族が支配した日本は農耕民族的な文化が発展し、
かつ、その自然観察で今後、いろいろな有益な発見をするし、して
いる。

欧米の「石油+論理的な思考」が、20世紀の大量消費や大量生産
の時代であったが、21世紀の時代は基本的に自然との共生を下に
した省エネ化であり、物の所有から物のレンタルであると見る。
これ以上の物はいらないという若い人たちが増えている。そして、
給与より、仲間や自然との語らいや人間同士のやすらぐ関係など人
間が生きがいを感じることに価値を見出す時代になっているようだ。

そして、もう1つが全体的に生活レベルが落ちる。製造業のグロー
バルな競争の結果、ワークシェアリングや非正規雇用など月10万
円前後まで給与が落ちる可能性がある。年収120万円という人た
ちが増加する。この生活環境を社会的にサポートするサービスや施
設を充実することである。

江戸時代の長屋の復活であろうと見ている。そして、江戸の長屋の
隠居たちが「朝顔」「つつじ」などを観賞用に改良するが、それと
同じことが日本に再度、起きることになると思う。江戸と同じよう
な自然を人間生活に取り入れる庶民文化の時代が来て、世界から注
目を浴びることになる。

日本が世界に自然を調和する農耕文化を発信する時代であるのだ。

この話題をもう少し、深く有料版では検討する。
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籠神社
〜山陰道一の大社〜
http://kammuri.com/s1/motoise/kono/index.htm

名   称  籠(コノ)神社
所 在 地  京都府宮津市字大垣430
主 祭 神  彦火明命(亦名 天火明命 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命) 
相    殿  豊受大神 天照大神 海神 天水分神
奥    宮  真名井神社
摂    社  蛭子神社 真名井稲荷神社
末    社  春日大明神社 猿田彦神社
祝    部  海部(アマベ)氏 当代宮司の海部光彦氏は八十二代 

1.御由緒(籠神社編纂による)

神代の昔と言われる遠い上代から、今の奥宮の地真名井原に匏宮(ヨ
サノミヤ)とし申して豊受大神が御鎮座になっていましたが、その御
由緒故に崇神天皇の御代に天照大神が大和國笠縫邑から御遷座にな
り、以後四年間御鎮座になりました。

籠神社(コノジンジャ)の名称は、神代に彦火明命が籠船に乗って龍
宮に行かれた故事に因む名称であり、「籠」を上古において「コ」
と発音した事から「コノジンジャ」と称します。

籠神社の社格は、奈良朝以後は丹後國一之宮に列せられ、延喜式内
名神大社にして山陰道八ヶ国中唯一の官幣大社であり、神階は最終
的に正一位にまでなりました。
明治の制においては国幣中社に列せられましたが、官幣大社昇格運
動の末、昭和20年3月25日、時の帝国議会は満場一致で昇格を
可決した秘史があります。 

2.建築様式

籠神社の社殿は唯一神明造と呼ばれる独特の建築様式で、これは他
に伊勢神宮以外には見られない様式です。三十年毎に御造替がおこ
なわれていましたが、江戸時代以降は適宜修繕にとどめているそう
です。
本殿の勝男木は十本、千木は内そぎで、心御柱があります。また、
本殿高欄には五色の座玉と呼ばれる宝玉が飾られていますが、これ
も伊勢神宮以外には見られないもので、籠神社の格式の高さを伺い
知ることができます。

3.伝説と異聞

籠神社は、数々の宝物を所蔵しています。

「籠明神祝部海部直等之氏系図(通称・海部氏系図)」は、海部氏の
始祖彦火明命から平安初期に至るまでの当主名と在位年月を書き記
したものですが、これは現存する日本最古の系図であり、系図とし
ては唯一国宝に指定されています

「海部氏伝世鏡、息津鏡・邊津鏡」は、海部氏が二千余年に渉って
無二の神宝として伝世してきた銅鏡で、息津鏡は後漢時代、邊津鏡
に至っては前漢時代のものであり、伝世鏡(古墳などから掘り起こし
た鏡でない)であるとの学術的鑑定を受けています。

境内参道に鎮座する狛犬は鎌倉時代の作といわれており、国の重要
文化財に指定されています。
この狛犬は、あまりの出来の良さ故に魂を宿し、夜な夜な籠神社を
抜け出しては天橋立を徘徊し、人々を驚かしていたのだそうです。
伝説の豪傑・岩見重太郎に退治されて以来神格を宿し、神社守護の
任に精を出しているとの事です。(近年酸性雨による損耗が激しいた
め、狛犬には屋根がかけられています。)

4.真井御前のお話

時は平安初期、海部直の三十一代雄豊の娘に厳子姫があった。彦火
明命を血脈の祖神に戴く、神代以来の祝部(神官)の家柄であった
が、当時奈良時代以来の鎮護国家の仏教に、空海や最澄の平安密教
の説く即身成体の思想が新風を吹きこんでいたさ中、もの心ついた
厳子姫は十才にしてふと誘われる如く都に上り、頂法寺の六角堂に
入り、ここで手芸礼儀作法等の教養を積む傍ら、如意輪の教えに帰
依し、日々真言の呪を唱えつつ修行に励んだのであった。未だ年端
はゆかないながらも、その生地の豊受大神が神代より鎮まり坐す、
与佐の真名井原に湧く真名井の御霊水の御蔭を蒙ったのか、身も心
も浄化された、天性の美しさとやさしさと、只ならぬ気品をただよ
わせた、しとやかな女性であった。

弘仁十三年(八二二)姫が年二十才の時、未だ皇太子であられた、
後の淳和天皇に見そめられ、第四の妃として迎えられ、名前も故郷
に因んで真井御前と稱し、帝の寵愛を一身に集めたのであった。
然しこの生活も長くは続かず、後宮の女官達の激しい嫉妬に世の無
情を感じ、二十六才にして侍女二人を連れて宮中を出で、観音のお
告げのままに西宮なる如意輪摩尼峰に至り、一宇を建てた。
この年天長五年(八二八)十一月、真井御前は弘法大師を甲山に迎
えて、十七日間の如意輪の秘法を修した。その翌年正月再び大師を
請じて受明潅頂を受けられた。この年五月御前は役行者の足跡を慕
って遥に吉野に赴き、修験の山大峰に登らんとした。
然し土憎等が、ここは大うわばみが道をふさいで通れません、
又この山の神は女人の入るのも許しませんと云っていさめたが、御
前はこれにひるまず、この山にも女神が在し坐すと聞いています。
又、蟒は穢れた肉をこそ好みますが、私のような浄まった肉体に
どうして害を致しましょうと云って、遂に大峰に入り、二十一日の
行を成し遂げて、山を出て来たのである。これを見て土憎等は大変
驚き、これはきっと神女であろうと篤くもてなした。そして真井御
前の肖像を役行者と共に祀ったと云う。

又、次の天長七年二月十八日には阿闇利灌頂を受けられた。同じ年
の三月十八日、御前は如意輪の像を造ろうとされ、弘法大師は山内
の木をトして大きな桜の樹を撰び、これを御前の等身に準じ、凡そ
三十三日を費して、その生き姿をモデルとして大悲の尊像を彫刻さ
れたのである。この間御前は如意輪尊の真言三千遍を日夜唱え続け
たと云われる。
これが今西宮市甲山の神呪寺(通稱甲山大師)の秘佛本尊と崇めら
れる、如意輪融通観音であり、天下の三如意輪の随一とも云われて
、重要文化財の指定を受けている。
かくして天長八年(八三一)十月十八日、再び大師を請じて大殿が
落慶した。この日御前は自ら髪を截り、三つに束ね分けて、一つは
大悲の尊像に献じ、一つは淳和帝に奉り、一つは弘法大師に施し、
拝して具足戒を受け、法の諱を如意と号した。

かくして同じ年の三月二〇日、如意尼は弘法大師の坐す南方に向っ
て合掌して坐し、如意輪観音の真言を誦しながら、そのまま紫雲に
乗って遷化した。齢正に三十三才であった。朝廷は使を遣し、追悼
の辞も贈ってねんごろに葬ったと云う。
すると如何なる冥合であろうか、その明くる日、即ち三月二十一日
、高野山なる弘法大師は、恰も真井御前の後を追うかの如く、
六十二才にて人定されたのである。師と弟子が一日を置いてみまか
られた事、誠に霊異と云う外ない。
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籠神社奥宮真名井神社
〜 日本屈指の古社にして最大級の聖地〜
http://kammuri.com/s1/motoise2/manai/index.htm

名  称        籠神社奥宮真名井神社
所 在 地        京都府宮津市中野
磐座主座(上宮)    豊受大神(亦名天御中主神・国常立尊)
相  殿      罔象女命・彦火火出見尊・神代五大神
磐座西座(日之小宮)  天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神
祝  部      海部氏

1.御由緒(籠神社編纂による)

 古代丹波の最高神である豊受大神(天御中主神又は國常立尊とも
云う)を氏神として戴いて当地方に天降られた天照國照彦火明命は
、大神様をお祭りするのにふさわしい神聖なところとして、常世の
波の寄せる天橋立のほとりのこの地をお選びになりました。こうし
て名勝天橋立の北端真名井原に御鎮座、第十代崇神天皇の時に天照
皇大神の御霊代が當宮にお遷りになり、吉佐宮と申して豊受大神と
御一緒に四年間お祭りされました。元伊勢の御由緒の起こりです。
 天照皇大神は人皇十一代垂仁天皇の御代に伊勢国伊須須川上へ御
遷宮になり、豊受大神は人皇二十一代雄略天皇の御代に至るまで當
地に御鎮座あらせられ、同天皇の御代二十二年に伊勢国度会郡の山
田原に遷らせられました。
 奥宮は今、神代が現代に生きている聖地として信仰者の熱い祈り
が日々捧げられています。

2.建築様式

 真名井神社の本殿は一間社神明造で、屋根は桧皮葺です。 本殿
は参道から直接磐座が見えないように建っており、本殿裏手には神
様が磐座から社にお移りになるときに使われる神様用の出入り口が
あります。

 恐らく社殿は最近になって建てられてものでしょう(それでも軽
く数百年は経ているでしょうが・・・)。
 真名井神社を語るなら、社殿ではなく磐座を語らなければなりま
せん。神が宿っているとして信じられ、神代から崇拝されてきた岩
が社殿の背後にあるのです。向かって右側が豊受大神(天御中主神)
の磐座、左側が天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神の磐座とさ
れています。

3.伝聞・異聞

 時は昭和十三年、大本教信者の辻天水氏と三雲竜三氏の両名が
真名井神社に参拝した際、三雲氏が突然神懸かり状態となりました
。辻氏が審神を行ったところ、三雲氏に降りたのは真名井神社の眷
属の龍神であることが判明しました。それ以後、真名井神社の龍神
は昭和十八年にに至るまで神示を伝達し続けました。
 神示の内容等については割愛しますが、真名井神社の龍神が神示
を伝達した事に因んでか、参道には狛犬ならぬ狛龍が睨みを利かせ
ています。(同様の狛龍は籠神社の末社、稲荷神社にもありますが、
それは稲荷神社が近年真名井神社から籠神社へ移されたからです。)

 世にも不思議な狛龍に目を奪われがちですが、傍らにある石ひと
つをとっても、磐座と呼んでも何ら差し支えない代物です。恐らく
は神社の押さえの役割を担っているのでしょう。

 真名井神社と彫られた石碑の向かって左にある石碑は、伝聞によ
ると地中に埋まっていたものを有志が掘り起こして新しくしたもの
だそうです。真名井神社の由緒が彫られているのですが、建立当初
は上部に籠目紋(六芒星)が刻まれていました。一説によるとこれは
籠神社の裏神紋らしいのですが、籠目紋は「ダビデの星」とも呼ば
れ、イスラエルの国旗にも描かれているマークであったため大騒ぎ
となりました。以来いわゆる『日ユ同祖論(日本人とユダヤ人の祖先
は同じであるとする論)』を扱った書籍等では、伊勢神宮の灯籠と並
んで「日ユ同祖の証拠」として取り上げられる事となりましたが、
風評があまりに大きくなったためか?はたまた野次馬の類が本来の
信仰を妨げると判断されたためか?現在では籠目紋は削り取られ、
籠神社神紋である三つ巴紋に変更されています。



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