3072.総理の一字 〜麻生総理考〜



総理の一字 〜麻生総理考〜


                           日比野

1.総理の一字

自民党総裁選は下馬評どおり、圧倒的大差で麻生新総裁が選出され
た。今回は、麻生総理考として、ふたたび総理の一字を考えてみた
い。

総裁選で麻生氏は議員票217、地方票134と全体の6割以上を
集め、圧勝した。2位の与謝野氏が66票だったから、圧倒的とい
っていい。

もっとも、安倍、福田の2代続けての内閣辞職から総選挙圧力が高
まっていて、選挙に勝てる顔としての麻生氏支持になったのだ、と
いう観測もある。

ただ、地方票で134票と、地方票全体の95%も集めたから、そ
れだけ国民の麻生氏に期待するところが多分にあることを証明した
。

2795.総理の一字のコラムでは、小泉元総理の一字は「信」、
安倍元総理は「国」、福田前総理を「安」としたけれど、麻生新総
理の行動原理を示す一字はやはり「照」。

麻生総理は口調こそ「べらんべぇ調」だけれど、その性格はとにか
く明るくて周囲からは「半径2メートル以内にいたら、彼ほど面白
い男はいない。」と評されているのは有名な話。「半径2メートル
の男」という異名を持つほど。

その性格もそうだけれど、とにかく自分や国の持つ資産を有効に活
用して周囲を照らしていく、いう意識と行動原理を内に秘めている
ように思えてならない。

麻生総裁が日本の首相になるということは、日本の持つ何かによっ
て、国内や世界を照らしてゆくようになることを示しているのでは
ないか。
 


2.何をもって照らすのか
 
「日本は強く明るい国でなくてはなりません。強い国とは、難局に
たじろぐことなく立ち向かい、むしろ危機をバネとして一段の飛躍
を遂げる国のことです。明るい国とは、元気な国であります。元気
な国とは、子どもからお年寄りまで、国民の1人1人が未来に希望
を持てる国のことであります。」

「まず、何よりも優先して取り組んでいかねばならないと思ってい
るのが、景気対策、いわゆる日本経済の立て直しです。日本経済は
全治3年。私はこう申し上げておりますが、成長の条件を整えれば
必ず日本経済は復活するし、またさせねばなりません。」

「景気対策というと、すぐに「バラマキ」等々、ワンパターンの批
判が出ます。しかし、考えてみてください。会社を建て直すとき、
無駄を省きコスト削減の努力をすることは当然ですが、それだけで
建て直しができるわけではありません。売り上げ増を目指し、新商
品開発のための研究や前向きの投資を併せて行い、会社を立て直す
のが常道でしょう。国家も同じで経費節減だけで財政再建が果たせ
るわけではありません。最近は「上げ潮派」「財政再建派」といっ
た言葉で二分されがちですが、景気を伸ばし経済のパイを大きくし
つつ、かつ財政再建をやるというのが常道であって、どちらかなど
というのはいかがなものでしょうか」

「そこで重要なのは、日本がリーダーシップを持ってルール作りに
関与していくことですが、まず認識しておかねばならないのは、国
際ルールというものは「創る」ものだということです。国際社会に
おいて大国と小国、あるいは先進国と途上国の違いはどこにあるか
と言ったら、ルールを創る側か守る側かということに尽きます。環
境問題にしても、地球や自国にとって、いかに最適なルールを創り
だすかということが大事で、まずその意識を我々は持たなきゃなら
ないんだと思います。」

「最近はグローバルスタンダードという言葉を使いたがる風潮があ
るようですが、環境問題の世界においては、事実や実体験に基づい
てスタンダードを作っていく。そうしたデフェクト・スタンダード
を策定したら、日本がまずクリアする。そういう状況に持っていく
ことが最適なんじゃあないでしょうか。」

夕刊フジ連載「日本の底力」より抜粋 


麻生総理が総裁選で強調したように、今の国内情勢をみれば、景気
対策が重要になるのは当然の話。だけど、麻生総理の発言を見る限
り、それは単に日本だけをなんとかするという次元ではなくて、そ
の先に世界を日本の力で照らして行く、という視点にまでつながっ
ている。

それをバラマキだと安易にいうことは簡単だけれど、むしろもっと
大切なことは、今の世界情勢において、何を持って何を照らすのか
、そして、今が何かを照らすにふさわしいタイミングなのかどうか
ということ。

麻生総理は、国内の景気対策を優先して取り組むといっているから
、まずここ2〜3年で景気対策をやって日本を照らして、元気づけ
、そのあとから順次世界を照らしていくというような構想を持って
いるようにも見える。
 


3.時代遅れになった自由と繁栄の弧
 
「一言で申しますと、「経済的繁栄と民主主義を通じて、平和と幸
福を」という道を、多くの国が歩んでおります。これはいつも言い
ますように戦後日本がたどった経路、そして最近ではASEAN諸
国が軽やかに通過しつつある道であります。けれども民主主義とい
うのは、終わりのないマラソンであります。しかも最初の5キロく
らいがとりわけ難所だと、相場は決まっております。」

「我が日本は今後、北東アジアから、中央アジア・コーカサス、ト
ルコ、それから中・東欧にバルト諸国までぐるっと延びる「自由と
繁栄の弧」において、まさしく終わりのないマラソンを走り始めた
民主主義各国の、伴走ランナーを務めてまいります。」

「この広大な、帯状に弧を描くエリアで、自由と民主主義、市場経
済と法の支配、そして人権を尊重する国々が、岩礁が島になり、や
がて山脈をなすように、ひとつまたひとつ、伸びていくことであり
ましょう。その歩みを助け、世界秩序が穏やかな、平和なものにな
るのを目指すわけであります。」

麻生総理が、昨年上梓して話題となった「自由と繁栄の孤」からの
抜粋。


日本がここまで日本としての国際戦略を明示したことはなく、世界
も驚きを持って迎え入れた。

当時、2007年1月に谷内外務事務次官がロシアとの次官レベル
の「日露戦略対話」を行った。事務次官が「自由と繁栄の孤」構想
を伝え、こうした「大国」が国際秩序の安定に責任を負っているの
だと述べたところ、「日本から『大国同士の関係』という言葉を聞
こうとは」といって吃驚したという。

だけど今や、サブプライム問題から端を発して、プライム問題、金
融危機にまで発展し、世界恐慌の一歩手前ではないかと言われてい
る。肝心の「自由と繁栄」自身が足元から崩れ始めた。

既に、自由と民主を高く掲げていたアメリカ自身が、金融危機に対
応しようとして、全上場銘柄に空売り規制をしてみたり、ヘッジフ
ァンドなどに対して、ショートポジションを公表するように働きか
けたりしている。自由や市場経済からみれば、明らかに逆行してい
る。なりふり構わぬ振る舞いをしてる。それだけの危機。

こんな状況で、「自由と繁栄の孤」構想に基づいて自由と民主主義
、市場経済と法の支配、人権を繁栄の土台だとして広めようとして
も、説得力に欠けるのは言うまでもない。世界もそんなのに従って
いたら破滅するだけじゃないか、と疑念の目でみることになる。

もはや、単純に「自由と繁栄」を謳いあげるだけでは時代遅れにな
ってしまったと言える。 



4.市場経済原理主義の限界
 
「市場経済原理主義みたいな形でいくとリーマン・ブラザーズの話
とかエンドレスで出てくる話がいっぱいある。」

総裁選の最中、米証券大手リーマン・ブラザーズの経営破綻を受け
て、9月16日の自民党青年局主催の討論会での麻生新総理のコメ
ント。

原理を純粋に適用したことで、不都合が起こるということは、原理
そのものが間違っているか、原理の解釈を間違って、誤った使い方
をしたかのどちらか。

前者を解決しようと思えば、原理を修正または放棄して、別の原理
や新しい考えに切り替えることになるし、後者を解決しようと思え
ば、原点回帰して本来の原理を取り戻すしかない。

市場経済原理主義を放棄するのであれば、それに代わるものを持っ
てくるしかないのだけど、今の時点でこれといったものは見当たら
ない。そうすると別の原理、たとえば、半ば社会主義のような統制
経済的なやり方を持ってくるしかなくなってしまう。現にアメリカ
は空売り規制にみられるように統制経済を適用し始めている。

日本はこれまで、やれ構造改革だ、市場開放だ、グローバル化だな
んて言われてきて、それに対応してきたけれど、完全に市場原理主
義に染まっているというわけじゃない。まだまだ統制経済な部分と
市場原理主義なところが混在している。昨年解禁された三角合併と
、ブルドックソースの買収防衛策の容認にその一端が垣間見える。

麻生新総理も景気刺激政策をとると言っているから、これまでの改
革開放路線からある程度の路線変更もあるのかもしれない。

「自由と繁栄の孤」のあとがきには、20世紀のアメリカの宗教家
、ラインホルト・ニーバーが祈りに使った言葉を引用して、締めく
くられている。

 −神よ、

 変えることのできるものについては、
 
 それを変える勇気と力を与えたまえ。
 
 変えることのできないものについては、

 それを謙虚に受け入れる心を与えたまえ。

 そして願わくば、

 変えるべき者と、変えるべきものでないものとを

 見分ける知恵を与えたまえ。


 
5.市場原理主義と民主制
 
これまで我々がもて囃してきた、市場原理主義の解釈が間違ってい
たのかどうかについて一概にどうだと言うのは難しい。

市場原理主義が広く知られるようになったのは、1998年にジョ
ージ・ソロスが著書の中で、19世紀におけるレッセフェールの概念
のより良い表現として市場原理主義を紹介したことに端を発すると
されている。

レッセフェールとは、要は市場に任せて、政府はなにもするな「な
すに任せよ」ということだから、その解釈は、市場に参加する個々
人に委ねられる。自由主義下では市場に参加するもしないも個人の
自由だから、実に様々な人が参画してくる。欲にかられた人もいれ
ば、高貴な人もいる。

だから、市場原理主義の解釈は、個々人の様々な解釈が混在した集
積した結果として表れることになる。必然的に、市場原理主義とは
こうなのだ、と何かひとつに絞るのは難しい。

個々人の意見の集積が市場全体に反映するという意味において、市
場原理主義は民主主義と非常に似通っている。

市場原理を民主制に置き換えたとき、商品と消費者の関係はちょう
ど候補者と有権者の関係にあたる。

市場に提供された商品の中から、自分の好みの商品を好きに選んで
買うという行為は、民主政治における投票行動となんら変わらない
。投票用紙をお金に換えて商品を選択することで、悪しきものは淘
汰され、消費者の意に沿った商品が生き残ることになる。

だから市場原理主義だからいいじゃないかとも思えるのだけど、そ
れは消費者側からみた話。もうひとつ、候補者側からみた市場原理
主義がどうなのかをみる必要がある。

有権者は確かに消費行動という投票権をもつけれど、あくまでも市
場に出回る商品としての候補者の中からしか選択できない。出た中
からしか選べないという制約がある。



6.商品という名の候補者

候補者は国民の生活のために、立候補する建前だから、どんな商品
を開発して、市場に出すかということは、国民生活を念頭に置く限
りは、消費者の利便を図るものになるはず。

だけど、それとは別に、なにか特定の利権を確保するための候補者
を擁立する場合になると、途端に生産者側の論理となって、特定の
利権集団や一握りの大金持ちの嗜好に沿った商品が市場に出ること
になる。

問題は、そうした商品が消費者の選択できるもの、つまり要らなけ
れば買わなくても構わないものであればいいけれど、生活必需品と
なるとそうはいかない。

水・食糧やエネルギー、資源といった、他に代替しがたく、かつ必
要不可欠なもの。こうしたものが市場原理主義の勝利者に握られた
場合、その勝利者の意によって消費者は振り回されてしまう。

その意味では、毒餃子やメラミン牛乳などは、はっきり言って極悪
候補。これは見た目に極悪と誰でも分かったから、各国で自主回収
や輸入禁止措置がとられて、市場からの退場を迫られている。

だけど、もっと極悪なのは、見た目誠実そうで、国民のため、と言
いながらあくどいことをやっている腹黒タイプの候補者。そんなの
がいたら消費者はみんな騙されてしまう。

昨今問題となっている、三笠フーズの汚染米なんかはこれにあたる
。汚染米問題はそれと発覚したからいいようなものの、そうでなか
ったら、消費者はいつまでも騙されて食べ続けていたことになる。 

要は市場原理が良いとはいっても、正確な情報開示と正しい知識を
基にした消費行動(投票行動)ができないと衆愚制になる危険を孕
んでいるという点に注意しないといけない。

ゆえに、市場原理主義においては、商品を提供する側は、勝利すれ
ばするほど、よりモラル、ノブレス・オブリージュが求められる。
消費者に対して適切な情報開示を行って、衆愚的な消費行動に陥ら
ないための努力が求められる。



7.太陽の国
 
今の時期に日本の総理になるということは、これからの時代の世界
モデルを提示するに等しい。

今でこそ格差が出てきているとはいえ、世界からみれば、日本は社
会資本も充実して、国富が行き渡り、ある意味、自由と繁栄の理想
に近い社会を実現してしまった。

日本が終わりなき民主主義のマラソンを走っている間に、仲間のラ
ンナーが次々と棄権したり、先頭ランナーもペースががくんと落ち
てヨタヨタになっている。自分の先をゆくランナー達がどんどん脱
落していって、いつの間にか自分が先頭になってしまった。更には
走る道が舗装路から砂利道へ、そして急坂になってどんどん悪路に
なってゆく。いったいどうすればいいのか。

福田前政権は、悪路に足を取られて捻挫したり、転んだりしないよ
うに、ゆっくりと歩いて、給水所でたっぷり時間をかけて給水して
、とにかく怪我しないことに終始した。

将棋にたとえれば、穴熊に篭って、相手の攻撃からただ耐えるだけ
、自分から表立って攻勢に出ることはなかった。

それに対して、麻生総理は、駒台を見てみろ、技術力、文化力とい
った大駒から小駒まで駒で溢れかえっているじゃないか。マンガア
ニメでも、J−POPでも、環境技術でも、どんどん使って、打っ
ていけばいいという考え。

そうした考えはとても積極的で勇気が湧いてくるのだけれど、大切
なのは、構想であり、大局観。

駒をどんどん打つのは構わないけれど、自玉をどう囲うのか。矢倉
に組むのか銀冠なのか。攻めはどうするのか、飛車は振るのか、居
飛車でいくのかといった構想。今の難局をみて、どう指せば詰みに
なるのか、どの筋がいいのか、局面判断はどうか、といった大局観
。そうしたものが大切になってくる。

下手くそがむやみやたらに駒を打ったところで、相手が巧ければタ
ダでとられてオシマイ。こうなったら唯のバラマキと変わりない。

麻生新総理は自身のオフィシャルサイトで、「そもそも総裁を目指
すのは自らの描いた国造りや政策を実行するための手段であって、
それが目的となっちゃあおしまいです。」と言っているから、それ
なりの構想があるのだろう。

とまれ、麻生新総理が、未来社会の構想・大局観をどこまで示せる
か。今後に期待したい。

 
(了)



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