2969.『隠された皇室人脈』エピソードU 原爆投下阻止工作があった!?



『隠された皇室人脈』エピソードU 原爆投下阻止工作があった!?
園田義明 http://www.sonoda-yoshiaki.com/
 
●	昭和天皇とバチカン和平斡旋工作

拙著『隠された皇室人脈』の126ページには、こんなことが書か
れている。おそらくお読みいただいた方々の大半は首を傾げたこと
だろう。実はここにもページ数の関係で削除されてしまった章が存
在する。

 昭和天皇が有能な者を(バチカンに)送ることができなかったこ
とを残念とこぼしたのは、原爆投下のニケ月前にバチカンで繰り広
げられた和平斡旋工作を指していると思われる。この工作は米中央
情報局(CIA)の前身組織である戦略事務局(OSS)主導で行
われたにもかかわらず、これに関与した原田(健)と金山(政英)
の戦略ミスから失敗に終わったのだ。

 それでは、昭和天皇もかかわっていたバチカンでの和平斡旋工作
を振り返ってみよう。なぜ私が戦略ミスと書いたかも明らかにした
い。

 なお、本稿に登場する「マレラ工作」については、あまりにも情
報が不足しているため、現時点では推論に過ぎないことをお許しい
ただきたい。

 第二次世界大戦末期に行われた和平工作には、スウェーデンで行
われていた「バッゲ工作(バッケ工作)」やスイスで行われていた
「ダレス工作」などがあった。

これに対して、本稿で取り上げる「ドノヴァン工作」及び「マレラ
工作」は、昭和天皇が直接関与していた可能性が極めて高い。『隠
された皇室人脈』でも詳しく取り上げたが、自ら異例の発意をもっ
て、しかも人選にまでこだわり、ローマ法王庁への使節派遣を実現
したのは、他ならぬ昭和天皇ご本人だったからだ。

この意味において、「ドノヴァン工作」と「マレラ工作」を解き明
かす必要性を感じている。それが、きっと日本の未来に活かされる
と信じている。

国内外のカトリック関係者の皆様を含め、「マレラ工作」に関する
情報をお持ちの方は、是非とも園田までご一報いただきたい。また
、情報交換の場として、私のブログのカテゴリに「マレラ工作情報
室」を設置したので、こちらもご活用下さい。

園田ブログ=園田義明めも。→ http://y-sonoda.asablo.jp/blog/

 それではドノヴァン工作から見ていくことにしよう。

■	OSS主導の「ドノヴァン工作」

 戦争末期の状況を考えれば、和平斡旋には間違いなくバチカンが
ベストな選択だった。むしろバチカンしかなかったのではないだろ
うか。

昭和天皇と同じようにバチカンを見ていた米国人がいた。中央情報
局(CIA)の前身組織である戦略事務局(OSS)長官であった
ウィリアム・J・ドノヴァンである。

 頃合を見計らって、東京に和平案を持ち込む糸口をつかめ。日本
の降伏について協議するのだ。結局、そのような工作が可能な場所
は、バチカンなどごく限られた場所しかない。(『バチカン発・和
平工作電』マーティン・S・ギグリー、朝日新聞社)

 このドノヴァンの指令によって和平斡旋工作が始まる。本稿では
混乱を避けるために、この工作を「ドノヴァン工作」と呼ぶことに
しよう。
 
ドノヴァン工作の実行者だったマーティン・S・ギグリーが直接接
触したのは、ローマ法王庁国務省外務局(元駐米ローマ法王庁使節
館参事官)のモンセニョール・エジディオ・ヴァニヨッチ司教だけ
であった。

 ギグリーの接触を受けたヴァニヨッチ司教を中心に、バチカン駐
在日本使節教務顧問のベネディクト富沢(富沢孝彦)神父、原田健
公使(プロテスタント、妻はカトリック)、金山政英参事官(カト
リック)の四名が集まり、話し合いが行われた。

 ギグリーが提示した和平案は、「(一)米軍による日本占領、
(二)米国への永久的な領土の割譲はない、(三)日本国民の決定
による場合以外には、天皇の地位に変更は加えない」と記されてい
た。

 これに対して金山らはなぜか「(一)日本は占領しない、
(二)天皇制は護持する、(三)千島、樺太、台湾、朝鮮を放棄し
て、日本軍はインドネシアから撤退する」と理解していた。

 この和平案を本国へ打電するかしないかをめぐって、使節館内で
は数日間にわたって激しい議論が繰り返された。打電反対派は「日
本が命をかけて戦っている最中に、出先の外交官が引導を渡すよう
な降伏条件を打つべきではない」と主張、一方で打電賛成派は「戦
争が始まった時から、和平のことを考えておくのが外交官の仕事で
あり、そもそもバチカンに使節を送りこんだのは終戦に役立てよう
としたからではないのか」と反論する。結果として「外交官の義務
」として本国に打電することが決まる。

「絶対極秘暗号電」として打電された日付は、一九四五(昭和二〇
)年六月三日(起草は六月二日)と六月一二日の二度、いずれも東
郷茂徳外務大臣宛に送られている。それぞれ日本の外務省で六月五
日と六月一四日に接受されている。

 また、米国の暗号解読システムと知られる「マジック(MAGI
C)」によって、六月四日と六月一五日に傍受され、いずれもマジ
ックのトップ情報として配布されていた。

 しかし、このドノヴァン工作と前後してスウェーデンで行われて
いた「バッゲ工作(バッケ工作)」やスイスで行われていた「ダレ
ス工作」同様、日米双方から黙殺されることになる。

 おそらくドノヴァンは、OSSの諜報網を通じて、原爆投下計画
を事前に察知していたのであろう。原爆投下を阻止するための工作
だった可能性が高い。これを裏付けるかのように、ギグリーは当時
OSS本部にマジック情報を入手できる者との連絡がなかったこと
を嘆きながら、もしそれが成功していたら、「太平洋戦争の終結を
六週間早め、原子爆弾の使用を回避できた可能性があったことは言
うまでもない」と書いている。

■	嘘八百の「ベッセル工作」

 原田と金山の戦略ミスと書いたのは、この二人がドノヴァン工作
を「ベッセル工作」(船工作)と名付けてしまったからだ。

 原田が書いた一九七二(昭和四七)年三月一二日付けの手紙を目
にした時、ギグリーはさぞかし愕然としたはず。原田の手紙には米
国がベッセル工作を推進しなかったことへの疑問が書かれていた。
このベッセル工作の文字を見て、ギグリーは悲しくもこの工作が失
敗に終わった原因を理解する。

 当時の米国でベッセル工作と言えば、ずんぐり肥ったイタリア人
ジャーナリストのビルジリオ・スカトローニが嘘八百の偽情報を流
していた工作を意味していた。ギグリーは自身が直接かかわったド
ノヴァン工作が、嘘八百のベッセル工作と混同されていた可能性に
気付く。

 ここで重要な指摘をしておきたい。ドノヴァンもギグリーも当時
の米国にあって少数派のアイリッシュ系カトリック信徒であった。
アイルランドといえば英連邦の一員であったにもかかわらず、第二
次世界大戦中も中立政策を維持したことで知られる。

 ギグリーは当時を振り返って、ワシントンで要職に就いていたカ
トリック教徒は少なく、ドノヴァンは極めて例外だったと書いてい
る。また、和平工作失敗の背景には、米国におけるカトリックへの
偏見もあったとする見方も紹介している。

 ギグリーの『バチカン発・和平工作電』を原文で読んでみても、
意図的に取り上げなかったと思われる箇所が多数ある。しかし、書
けなかったことをうまく示唆しながらカバーしている。

 一点目はヴァニヨッチ司教がOSSを知っていたこと、しかも、
OSS長官であるドノヴァンがカトリック教徒であることを「知っ
ているらしかった」、つまり「知っていた」ということである。

 実はバチカンとドノヴァンは密接な関係を持っていた。ギグリー
はこのことを知っているのにわざと書かなかったのである。ローマ
が連合国によって占領されたのは一九四四(昭和十九)年六月、な
んとその直後の七月にドノヴァンは時の第二六〇代ローマ教皇ピオ
十二世に拝謁していた。

 ドノヴァンは幾度となくバチカンに対して便宜をはかっている。
そうなると、ピオ十二世もドノヴァン工作のことを知っていたと考
えるべきであろう。ドノヴァンに関する文献は海外からも多数取り
寄せてきたが、その多くがこのことに触れている。

つまり、ドノヴァン工作も「もうひとつの工作」もバチカンが積極
的に関与していたと考えるべきだろう。おそらくバチカンもまた原
爆にかかわる情報を入手しており、なんとしても日本への原爆投下
を阻止しようとしていたのではないだろうか。

 それにしても、海外の文献と比較して、吉田一彦の『CIAを創
った男ウィリアム・ドノバン』(PHP文庫)の情報量には驚かさ
れる。吉田によると、ドノヴァンとピオ十二世の会談では、主に共
産主義、ドイツ、ロシアという三つのポイントが話題になったが、
この時バチカン内部に存在する日本の無線発信器についての注意を
喚起したとある。詳細は不明としているが、「日本の対バチカン工
作の進展にドノヴァンが相当神経を尖らせていたことが窺われる」
と書いている。

 おそらくこの日本の無線発信器にアクセスしていたと思われるの
が、嘘八百の偽情報を垂れ流していたスカトローニだった。そうな
るとスカトローニは日本側が泳がせていた工作員のような存在だっ
た可能性が浮かび上がる。

 なぜなら、原田や金山らはこの無線発信器を情報攪乱のために活
用していた。彼らが折角のドノヴァン工作を自らがかかわっていた
ベッセル工作と名付けてしまったこともここに起因すると思われる。

 この見方を裏付けるように、スカトローニの偽情報に関して、
吉田は「日本側が材料を提供して、スカトローニが自由に脚色を施
したものと考えられる」としながら、これによって「バチカンに存
在した日本側の策謀が功を奏して、アメリカに少なからぬ混乱を引
き起こした」と書いている。続けて、「この作戦が成功であったと
しても、このために日本からの和平の打診はいずれも疑いの目で見
られるという状況が現出している。そうなるとこの作戦は大局的に
日本の利益につながったかどうかは疑問である」と指摘する。

 要するに情報の混乱は日本側自らが引き起こしていた。このため
にOSS主導のドノヴァン工作は、日本側が仕掛けていた偽物のベ
ッセル工作と混同されて失敗したのである。そして、この事件が影
響して、後に新設されるCIA長官にドノヴァンが選ばれなかった
と吉田は推測している。 

このベッセル工作は二重三重の悲劇を生む。実はドノヴァン工作は
それ以前の「もうひとつの工作」とつながっていた可能性があった
からだ。これを寸断した上で、いずれも取るに足らない偽情報の類
にしてしまったのである。

■	「マレラ工作」とジョセフ・C・グルー

 ギグリーの『バチカン発・和平工作電』のもうひとつの不思議は
、ギグリーがヴァニヨッチ司教に示した「(一)米軍による日本占
領、(二)米国への永久的な領土の割譲はない、(三)日本国民の
決定による場合以外には、天皇の地位に変更は加えない」とするメ
モの内容である。

 この時点では、米国内部で天皇の地位がどうなるかは決まってい
なかった。そのことはギグリー本人も親日派で知られたジョセフ・
C・グルー元駐日米国大使の行動を追いながら詳細に書いている。

 この矛盾が何を意味するのか。

 おそらくドノヴァン工作にはグルーも関与していたことを示唆し
ているように見える。実際、グルーが明らかに関与していた「もう
ひとつの工作」があった。

ここに「もうひとつの工作」とドノヴァン工作との連続性が浮かび
上がる。この「もうひとつの工作」とは「マレラ工作」を指す。

 米国立公文書館に保管されているジョセフ・バレンタイン(当時
OSS極東局長)作成の一九四五(昭和二十)年七月五日付けの「
日本の和平への触手」と題するメモによれば、四四年十二月に日本
の「代表的財界人」が当時駐日ローマ法王庁使節(在日バチカン代
表)だったパウロ・マレラ大司教に接触し、「バチカンの和平仲介
受け入れで、日本政府を動かす用意がある」と表明、その場合の連
合国側の講和条件を知りたいと伝えた。

 マレラ大司教はこの内容をローマ法王庁に報告、OSS要員が
この情報をキャッチしたが、米側はそれを知りながら却下していた
ことがOSSの秘密文書で明らかとなった。米側の対応を含め公文
書で判明したのは初めてとされる(時事通信配信、一九九七年八月
六日付読売新聞、北海道新聞、静岡新聞各朝刊に掲載)。

 このマレラ工作については、ギグリーも『バチカン発・和平工作
電』の中で触れており、バレンタインの四五年一月三〇日付覚書で
同様の内容が当時の国務次官、そう、あのグルーに提出されていた
ことを明かしている。

 マレラ工作での「代表的財界人」の目的は、連合国側の講和条件
を探ることであった。これがOSSを経由してグルーに伝わった。

 天皇制維持にこだわるグルーは、この時点ではまだ「願い」ある
いは「目標」に過ぎなかった「天皇の地位に変更は加えない」とす
る回答を、ドノヴァンからギグリーを介して日本側に伝えようとし
たのだろう。この条件がないと日本が敗戦を受け入れないことを
グルーは当然認識していた。

 この「代表的財界人」の名前は明らかにされていない。おそらく
グルーは真っ先に米国への秘密の情報提供者として知られる樺山愛
輔の姿が思い浮かんだのではないだろうか。むしろ、樺山だったか
らこそ、名前を消したのかもしれない。

 当時の日本政府を動かすということは、皇室を動かすしかない。
そうなると、やはり宮中グループ唯一の財界人であった樺山しかい
ないということになる。もしくは樺山が有力メンバーだった穏健派
財界人が集う「東京倶楽部」の中にいたのだろう。そうなると、
渋沢家の誰かという可能性もある。

『隠された皇室人脈』でも取り上げたように、樺山には御前会議機
密漏洩事件という前科もあった。しかし、樺山もクリスチャンでは
あったが、プロテスタント(メソジスト派)。よって、樺山の背後
に誰かがいたはず。

 樺山と共に「東京倶楽部」に出入りしていたのは吉田茂である。
吉田であれば、敬虔なカトリック信徒だった妻・雪子を通じてマレ
ラ神父と交流があったことも充分考えられる。
 
 国際文化会館発行の『樺山愛輔翁』におさめられている吉田の「
樺山さんの思い出」には、樺山が吉田の岳父である牧野伸顕に対し
て単なる同郷(薩摩)の先輩という以上に「衷心から敬意をいだい
ていた」と語りながら、吉田と樺山の関係についても「二人とも大
磯に住むようになってからは、お互いに木戸御免で、不意うちに訊
ねたり訪ねられたり、ともに何十回か何百回分からぬくらいだ」と
しながら、「ことにわすれ難く思うのは、この前の戦争中にもしじ
ゆう行き来して、まじめに和平工作のことなど話し合ったことだっ
た。私も、本気のことであったし、ときには意見を手紙にして書き
送つたこともあった」と書かれている。

 マレラ工作は樺山と吉田の合作であった可能性が高い。しかも、
樺山の親友である松平恒雄は当時宮内大臣だった。そうなると、昭
和天皇あるいは貞明皇后の指示で樺山、松平、吉田が密かに動いて
いた可能性すら考えられる。(貞明皇后と樺山、松平とグルーの関
係は『隠された皇室人脈』参照)

■	それは「原爆投下阻止工作」だったのか?

 おそらくグルーは、マレラ工作によって皇室が和平受け入れの覚
悟があることを知った。そして、ドノヴァン工作によって「天皇の
地位に変更は加えない」とする回答を、樺山、松平、吉田経由で昭
和天皇に伝えることで、戦争を終わらせようとした。

当時はまだ「願い」あるいは「目標」に過ぎなかった回答を伝えて
まで、戦争終結を急いだ背景を考えれば、グルーもまた原爆投下計
画を知っていたと考えるべきだろう。

つまり、グルーも国務次官の立場を利用して情報を入手し、非人道
的な原爆投下を阻止しようとしたのではないかとの推測も成り立つ。
よって、ドノヴァン工作とは、グルーとドノヴァンとバチカンとが
一体となった原爆投下阻止工作だった可能性が浮上する。

 しかし、グルーのメッセージは伝わらなかった。もし、グルーの
メッセージが昭和天皇に届いていれば、ギグリーが語るように、
確かに原爆投下は回避できた。

 悲劇は重なるもの。皇室とバチカンをつなぐ架け橋、つまりはブ
リッジの役割を果たしていたカトリック信徒の山本信次郎の死は痛
恨の極みだった。山本が脳動脈硬化症のため、約半年の病床の末、
没したのが一九四二(昭和十七)年二月二八日、享年六五歳だった。

 少なくとも金山は山本と交流があった。もし山本が生きていれば
、金山は密かにバチカンでの和平斡旋工作の情報を山本に送ってい
たかもしれない。そうすれば、昭和天皇にも伝わっていたことだろ
う。「原田と金山の戦略ミス」は、山本というブリッジ不在が招い
た悲劇だった。

 自ら異例の発意をもって、しかも人選にまでこだわり、ローマ法
王庁への使節派遣を実現したのは昭和天皇である。戦後、昭和天皇
はバチカンで何が起こっていたのかを知る。知ったからこそ、独白
録の中で「有能な者をバチカンに送ることができなかったことと、
バチカンに対して充分な活動ができなかったことを残念とこぼした
」と考えられる。おそらくマレラ工作の当事者だったマレラ大司教
から詳細を聞かされたのではないだろうか。

 昭和天皇の痛恨の想いが、カトリック家系の美智子さまを皇室に
招き入れることにつながる。山本に代わって、皇室とバチカンをつ
なぐブリッジという大役を担うことになった美智子皇后さまは、
まだ皇太子妃だった頃の一九八一(昭和五六)年一〇月、四七歳の
誕生日を前に、一年間で特に印象に残ったことを聞かれて、こう答
えている。昭和天皇の想いと通じ合っていることが読み取れるはず
だ。

ローマ法王が日本にいらして、広島で捧げられた平和の祈りが強く
印象に残っています。とくにその中で、法王が『それ(平和の祈り
)は人々が武器と戦争に頼る時、苦しむすべての子供達の声だから
です』とおっしゃって、平和を祈られたことは忘れられません。



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