2934.『隠されたクスノキと楠木正成(二)』



               園田義明 http://www.sonoda-yoshiaki.com/


■ 第二章 神社合祀と長州閥

■「神社合祀」という名のリストラ策

 そもそも「神社合祀」とは何だったのか。

 神社合祀令が通達されたのは一九〇六(明治三十九)年。「神社
は国家の宗祀である」という国家原則に従って、敬神の念を高める
との主旨のもと、由緒・財産もなく神職不在で祭祀が行われていな
い神社を廃止、統合、移転させるというものだった。 

 神社合祀は地方官吏の裁量に一任され、とりわけ南方熊楠が愛し
、現在では世界遺産に登録されている三重県と和歌山県で特に厳し
く実施された。規模の小さい村社、無格社がその対象となった。

 三重県では一八九八(明治三十一)年に府県郷村社および境外無
格社の合計が六八三四あったものが、一九一六(大正五)年には
七四三に、同じく和歌山県では、三七八八あったものが五四六に激
減する(「府県別神社増減表」、「府県別神社残存指数」参照、
いずれも『蘇るムラの神々』櫻井治男、大明堂より)。 

 結局、「神社合祀」とは神社システムの大規模なリストラクチャ
リング(再構築)だったのだ。

 神社合祀令は、そもそも西園寺公望内閣の原敬内相の下で出され
た通達である。当初は一町村一社を標準にまとめようとするものだ
ったが、原は強攻策を避け、地方の実情に合った幅を持たせた運用
に務めた。

当初、熊楠も俗信によって祀られている淫祠小社の駆除のためには
有効な措置として評価し、歓迎する態度まで示していた。

 ところが、内相が平田東助に代わると、突如、合祀令を厳しく実
施するようになる。平田は残すべき神社の選定を府県知事に委ね、
知事は郡長や町村長と組んで、競い合うかのように合祀を推進した。
その結果、廃社となった神社の鎮守の森は伐採の対象となり、その
売却によって私服を肥やす官吏や神職までもが現れる。

 さて、ここで原敬、平田東助という極めて重要な人物が登場して
きた。原は賊軍とされた南部藩出身、平田も同じく賊軍の米沢藩出
身。いずれも明治維新の「敗者」から成り上がった人物である。

二人が生きた時代は薩長藩閥政治が大手を振っていた。この薩長閥
、特に長州閥の巨魁にして「藩閥」と「軍閥」の最高権力者であっ
た山県有朋を軸に、二人の人生は全く異なる道を歩むことになる。

■「平民」原敬と大正史の痛恨事

 原敬は、一八五六(安政三)年に岩手郡本宮村(現・盛岡市本宮
)で、南部藩側用人の父・直治の二男として生まれが、自ら分家し
て士族籍を離れ、平民となった。東北地方は戊辰戦争で朝敵となっ
たことから「白河以北一山百文」と嘲笑され、蔑視される。このた
め原は薩長への対抗心から自らを「一山」や「逸山」と号した。

 一時は立身出世コースから外れるものの、薩摩藩士だった中井弘
の知遇を得て記者としての道を歩み出す。中井は薩摩主流と合わず
、官僚よりも文人として活躍していた。原は中井を生涯の師と仰ぎ
、中井の長女・貞子と結婚する(後に離婚)。

 政友会総裁にまで駆け上がった原は、「平民宰相」として日本で
最初の政党内閣を樹立。宿敵である薩長藩閥政治に終止符を打とう
とした。しかし、一九二一(大正十)年に東京駅で凶刃に倒れる。
前もって書かれていた「位階勲等を固く辞退する」という文言で始
まる遺書が残されていた。

 原の死後、宮内大臣の牧野伸顕から「伯爵を授けたい」との打診
もあったが、後妻の浅子夫人は頑なにこれを拒んだ。同郷の浅子は
原の気持ちを理解していたのだ。原が生涯、華族になることを拒ん
だ理由には衆議院議席への執着もあったようだが、なにより華族制
度そのものが薩長藩閥主義を象徴していたからだろう。原は薩長へ
の反感から、最後まで「平民」にこだわったのだ。

 この原は、青年期には敬虔なカトリック伝道師ダビテ・ハラとし
て生きた。近代における日本カトリック人脈の原点に立つ人物だっ
た。カトリックらしい現実的な対英米協調路線を目指し、暗殺され
る直前には山県有朋の背後にある軍閥を抑えにかかっていた。軍国
主義排除のために高橋是清と共に参謀本部の廃止を考えていた。
山県が死ねば、すぐにも実行に移そうと考えていた。

 しかし、暗殺によって、原は山県より先に逝く。山県は原の暗殺
から三カ月後に世を去った。元駐タイ大使の岡崎久彦は、「原が山
県より生き延びられなかったのは大正史の痛恨事であった」と嘆じ
ている(『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦、PHP文庫)。

原の暗殺があともどりできない道を決定づけていった。

■「伯爵」平田東助と長州閥

 一方、「神社合祀」を推進した平田東助は、一八四九(嘉永二)
年、山形県米沢市に米沢藩藩医伊東昇廸(しょうてき)の二男とし
て生まれ、藩医・平田亮伯の養子となり平田姓を名乗る。東助は米
沢の藩校興譲館で神童と呼ばれ、江戸に上って大学南校(現在の
東京大学の前身)を卒業。岩倉具視の欧米巡遊に随行する。

 そのままドイツに留まりベルリン大学、ハイデルベルク大学、ラ
イプチヒ大学で政治や法律を学び、ハイデルベルク大学では日本人
として初めてドクトル・フィロソフィーの称号を授与されている。
帰国後、大蔵省などの官僚を経て貴族院議員となり、桂内閣では農
商務相と内相を務め、大正初めには首相候補にまで上りつめた。
産業革命の荒波から手工業者を守ろうとしたドイツの協同組合に精
通し、日本における「産業組合運動の父」とも称された人物である。

 原の南部藩同様、平田の米沢藩も賊軍とされた奥羽越列藩同盟に
属していた。薩長閥が牛耳る明治政府にあって、立身出世には極め
て不利だったはず。ところが、ベルリンで長州閥の青木周蔵や品川
弥二郎と出会い、これを契機に長州閥の中心に入り込んでいく。

 この背景には山県有朋が深く関わっていた。

 平田は長州閥の母体ともいえる吉田松陰の松下村塾出身であった
品川弥二郎の養女・達子と再婚する。この達子は山県有朋の姉・壽
(寿子)の娘である。山県有朋の養子となる伊三郎、品川の妻・静
子、そして平田の妻・達子は、いずれも姉・壽の子供。つまり、品
川は妻の実妹である達子を養女にしていた。こうして、平田は品川
と共に、山県閥の一員となっていった(「山県有朋系図」参照、
『君臣平田東助論』佐賀郁朗、日本経済評論社より)。

 平田は原の死の翌年の一九二二(大正十一)年に内大臣となり、
原とは対照的にこの年伯爵に叙せられる。原と平田は、共に「賊藩
」出身でありながら、政党と藩閥、衆議院と貴族院、農会(農協の
前身)と産業組合という相対立する勢力を擁し、一方は平民、かた
や伯爵として生涯を閉じる。山県有朋という存在が二人の人生を大
きく分けたのだ。

 さらに、平田は三井グループとつながりが深く、現在の松下グル
ープの隠れた創始者ともいえる人物でもある。平田の長男・英二は
日本画家に、英二の長男の平田克巳は三井銀行から三井物産を経て
ザ・ホテルヨコハマの相談役となった。克巳の弟・正治は東京帝国
大学法学部政治学科を卒業して三井銀行に勤め、その後、姓が変わ
る。

 平田東助の孫にあたる平田正治は松下正治になった。松下電器産
業創業者の松下幸之助の一人娘・幸子の婿養子に迎えられた松下正
治は、社長、会長として松下電器を総合エレクトロニクスメーカー
へと育て上げた。また、正治の実妹である敬子は、三五歳の若さで
松下電工社長(後に会長)に就任した丹羽正治に嫁いでいる。

 現在の松下電器産業は山県有朋と平田家の血脈によって支えられ
てきたといっても過言ではない。しかも、この平田東助と三井の
つながりこそが神社合祀強行に直結していたのである。(つづく)

(注)各資料は下記URLをご覧下さい。
府県別神社増減表 http://www.sonoda-yoshiaki.com/zu3.jpg
府県別神社残存指数 http://www.sonoda-yoshiaki.com/zu4.jpg
山県有朋系図 http://www.sonoda-yoshiaki.com/zu1.jpg


コラム目次に戻る
トップページに戻る