デ・レーケ ■ヨハネス・デ・レーケ

 デ・レーケ(1843〜1913)は、八幡の地に生きた人ではありませんが、八幡市と深いつながりがある淀川の河川改修に力を注いだその業績は永く後世に伝えなければならない人物として、ぜひ紹介しておきたいと思います。
 明治維新の日本は、急速に文明開化の波が押し寄せましたが、諸外国に比べて科学や技術の面で大きく立ち遅れていました。明治政府は、新しい技術を導入すべく、諸外国から多数の外国人技師を招きました。その数、3000人を数え、その中にオランダ人技師、デ・レーケもいました。
 デ・レーケは、日本政府から依頼をされて「淀川改修と河口での港の建設」の設計に着手しました。そして大阪築港のためには港域に土砂を流入させる淀川を改修する必要があると主張し、 1874 (明治7年)11月に改修計画書を提出し、わが国で初めての近代的河川工事である淀川修築工事が始まりました。
 修築工事は、築堤等による高水防禦工事ではなく、いわゆる低水工事でした。昔から京都と大阪間の重要な交通路である淀川の河床は、水源である岐山から流出する砂礫によって次第に上昇し、舟運に支障が生じていました。そこで水路を整え、天満橋から上流の京都伏見観月橋までの40キロメートルの間、水深1.5メートルを維持するとともに、堤防の危険箇所には防禦工事を施すというものでした。また一方、 1878 (明治11年)から砂防工事が修築工事のなかで施工されましたが、これが日本の近代砂防工事の始まりと言われています。
 その後、1885 (明治18年)の淀川の大洪水は、大阪を水底に沈め、琵琶湖沿岸や宇治川沿岸にも大打撃を与えました。この大洪水の後、淀川を視察したデ・レーケは、大阪市域への洪水の侵入を阻止するため、水門と堰を設置し、そこから新たに新淀川を掘削することを提案しました。この考え方は、現在の淀川の姿をほぼ見通しており、1896 (明治29年)に着工の淀川改良工事に受け継がれていったのです。
 デ・レーケの業績は、他にも木曽川、庄内川、吉野川、多摩川等の河川改修にも深い関わりを持ち、とくに木曽川下流改修の功績は大きく、そのためデ・レーケは「今日の木曽川の基礎を作った人」とも呼ばれています。木曽三川の水位の違う河川を二つに分けて治めたのはデ・レーケの功績です。
 デ・レーケは、妻のヨハンナと2人の子ども、義妹のエルシェの4人とともに来日しました。1877年(明治10年)に娘のヤコバが大阪で生まれています。現場に出ることの多いデ・レーケには、家族団らんはなかったそうです。そのような中で、1875 (明治8年)に息子のエレアザルが、 1879 (明治12年)に義妹のエルシェが、 1881 (明治14年)には妻が相次いで病死してしまいます。
  1903 (明治36年)6月、30年にわたる日本での生活に終止符を打ち、オランダに帰国。その多大な功績に対し、日本政府からは勲二等瑞宝章、オランダ政府からはオランエナソウ勲章とオランダ獅子勲章が授けられました。その後、デ・レーケは1906 (明治39年)に上海港工事の技師長として招かれ、再び東洋の地を踏み、明治44年(1911)に帰国。2年後の 1913 (大正2年)にこの世を去りました。享年70歳でした。今、デ・レーケは、オランダ・アムステルダムのゾルフリート墓地で眠っています。  わが国の近代化の基盤となった治水事業に残したデ・レーケの業績は、言い尽くせないものであり、ましてや、次々に肉親を失いながら、見知らぬ土地で難事業に取り組んだ苦労は計り知れないものであったといえます。(参考:土木学会関西支部編「水のなんでも小事典」より)


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