砧の手水鉢

砧の手水鉢
(きぬたのちょうずばち)

天下の豪商、淀屋の5代目辰五郎が宝永2年(1705年)5月16日に闕所(けっしょ=江戸時代の刑罰のひとつ。家財の没収)となり、辰五郎は宝永6年(1709年)に江戸に潜行します。そして6年後の正徳5年(1715年)、日光東照宮100年祭の恩赦によって八幡の山林300石が淀屋に返還され、翌年に辰五郎は八幡に帰ってきてます。そして八幡柴座の地に居を構えました。

●男山から引いた水の落差で楽しむ

その屋敷には、男山中腹の杉山谷不動の"ひきめの滝"から竹の樋を使って邸の手水鉢に水を引き、その落差を利用して、手水鉢の中で踊るコブシ大の石の音を楽しんだといいます。この音が洗濯に使う砧(きぬた)を打つのによく似ていたことから「砧の手水鉢」と呼ばれました。

●ドンド辻の名が残る街

ドンドの辻子 また、筧(竹を使った管)中を流れる水の音がドンド、ドンドと聞こえたらしく、筧が敷設された小径を「ドンドの辻子(写真)」、その辻に面して建つ住居を指して「ドンド横丁」と呼ばれました。

●松花堂庭園の中に残る手水鉢

翌、享保2年(1717年)12月21日、辰五郎は33歳の若さでこの世を去り、手水鉢は主を失います。そして今、この手水鉢は、松花堂庭園の書院裏庭に残っています。苔生した手水鉢を眺めていると、淀屋が見た夢が目の前に広がってくるようです。

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