★大坂冬の陣で家康に陣屋を寄進
慶長19年(1614)、大坂冬の陣では、家康に陣屋の設営を申し出、条件に、野営する徳川の兵の酒や食事の配給を一手に引き受けて何万からの兵を相手に大儲けをしたといいます。 夏の陣が終わると、家康は常安の功績を称え、山城国八幡(現在の八幡市)に山林300石と帯刀を許すと、次に常安は戦死した兵士の埋葬の許可を申し出、戦場に残された大量の鎧や刀、槍などの武具類の回収権を手に入れたのです。
★淀屋が作った先物取引のシステム
常安が私たちに残した最も大きなものは、先物取引のシステムでした。先物取引とは商品と代金の引き替えによって売買が完結する取引に対し、売り手と買い手が将来の一定時期に商品と代金を受け渡しする契約を結び、その時期が来たら通常の売買が行われる取引のこと。
徳川幕府は米経済を基盤としていましたから、諸藩は米を蔵屋敷に蓄え、必要に応じて換金し、藩経済を運営していました。しかし、取引が米問屋の間で個々に行われていたために品質や価格がまちまちでした。常安は、これに目を付け、幕府に米市場の設置を願い出て米の取引所を開設。諸大名は、その水運の便利さと、蔵屋敷に近いこともあって、こぞって米市場へ米を持ち込むようになり、やがて米相場が立ち、米の価格の安定と品質の向上に寄与しました。
★淀屋が架けた「淀屋橋」
淀屋橋は、常安が米市に向かう人や中之島辺りの蔵屋敷へ往来する人のために架けた橋でした。
「知恵は万斤の宝蔵といわれるように、ほっておいても蔵が年々増え、指折る暇もない。銀の子を生むこと、あたかもねずみ算のようだった」と伝えられる淀屋財産目録には「土蔵730箇所、船舶250艘、諸大名貸付金1億両、公家貸付金8000貫目、家屋敷542軒、田畑、刀剣、茶器、宝飾など1億2186万余両」と記されていました。「どんなものでも、たぐり寄せれば商売になる」とは、常安の口癖であったといいます。
常安町、常安橋、淀屋橋など、常安は多くの足跡を残していますが、その人物像は多くの謎に包まれています。続く淀屋2代目个庵(こあん)は寛永の三筆と称せられた松花堂昭乗とも交流があり、松花堂昭乗が開く茶会にたびたび招かれています。おそらく、松花堂昭乗のスポンサーだったのではないでしょうか。
5代目淀屋三郎右衛門(通称辰五郎)は八幡柴座の地に居を構え、男山中腹から竹の樋を使って邸に水を引き、楽しんだ「砧の手水鉢」が松花堂庭園書院前に残っています。淀屋の栄華も5代目辰五郎の時に、ぜいたくが町人の身分をわきまえぬと、徳川幕府から米商の免許を取り消された上、家財等を没収されて潰れてしまいます。
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