●石清水祭の官祭、私祭

官制時代の石清水祭は「勅祭」であると同時に「官祭」、一部は「私祭」という構造を持っています。
そもそも官祭と私祭の区別は、律令制下において官寺と私寺、官僧と私僧の区別があったように、「官」に対して「私」が対置されたことによるもので、朝廷から派遣された官人が幣帛を供進する祭典は、公的祭祀たる官祭、それ以外の祭典は私祭でした。ちなみに、献幣使が中央の神祇官から派遣される神社を官幣社、地方の国府から派遣される神社を国幣社、また単に官社といい、『延喜式』神名帳登載の2,861社は、すべて当時の官社でした。
 石清水八幡宮は、明治4年に制定された近代の社格制度の下では「官幣大社」でしたが、律令制下においては「式外社」、つまり非官社であり、実は石清水八幡宮寺という名の「官寺」でした。したがって、貞観5年(863年)に始められた石清水放生会は、官営寺院の催す公的仏事と見なされ、貞観18年(876年)以降、石清水にも宇佐宮に倣い、正式に神主が置かれるようになったものの、放生会における神幸祭等の位置づけは、あくまでも公的仏事に付随する「私祭」であるいうことになりました。
 その後、石清水八幡宮は朝廷より国家の重大事あるごとに奉幣に預かる16社(後に22社)に列せられ、また、天暦2年(948年)からは、石清水放生会に勅使が差し遣わされるようになりました。このことは、石清水八幡宮がもはや神祇官や僧官、国府などという一機関の枠を越え、国家=皇室に直結する「宗廟」として立ち現れてきたことを意味しています。
 こうした趨勢から生じた放生会神幸祭の官祭化は、延久2年(1070年)、石清水放生会の勅使に当日太政官出務の最上位者たる上卿が任ぜられ、この上卿が参議・左右近衛次将・弁らを率い祭典に奉仕する定めとなったことで、さらに決定的なものになりました。
 時代は下り、明治維新の「神仏分離」によって、官寺たる石清水八幡宮寺は消滅し、官社=男山八幡宮へと生まれ変わりました。また、公的仏事としての石清水放生会は、明治元年より仏教色を廃した純然たる神道祭祀「中秋祭」へと改変され、同年3年に「男山祭」に改称。同5年からは神幸の儀も廃されて山上本宮に奉幣使たる地方官が参向するだけの形に改められました。ただし、このとき神幸祭が全く途絶してしまったわけではありません。この伝統ある祭儀は、明治6年から新暦9月15日に私祭「八幡祭」として催されることになり、その後も脈々と催されてきました。
 かくして官祭=男山祭は8月15日、私祭の八幡祭は9月15日と、分離して行われる形が明治16年(1883年)まで続きます。
 さて、明治天皇は、賀茂・男山・春日の三祭について旧儀復興のことを仰せられ、石清水八幡宮では明治17年(1884年)から毎年9月15日、勅使の参向を仰ぎ、「勅祭」男山祭、大正7年、社号の旧称復帰に伴い「石清水祭」と改称し、齋行されることになりました。これ以後、従前の官祭・私祭も石清水祭の下に統合・一本化され、基本的にはこの形が今に踏襲されています。
 昭和20年(1945年)以降は、官・私の別なく、制度上はすべて私祭となりましたが、官制時代の名残ともいうべき「官祭列」「私祭列」という名称は、今日においても石清水八幡宮内において慣例的に用いられているということです。(石清水八幡宮発行「石清水」より)
 


目次にもどる目次へ