●神人ってどんな人? |
遷座4年後に作られた神人制度 神人は、「じにん」あるいは「じんにん」と読み、辞書を引くと「神社の下級神職や寄人をさす」と書かれています。ここでいう神社の下級神職というのは、神社に常住することなく、仏事神事に奉仕する役職をさしています。 石清水八幡宮の神人制度の確立は、九州宇佐から京都八幡の地への遷座の時に始まり、今日に至るまで連綿と受け継がれてきました。古文書等によれば石清水祭(放生会)の歴史にほぼ等しいものです。それは貞観5年(863年)清和天皇の御世に始まり、天元2年(979)頃にほぼ確立され、現在の行幸の儀(石清水祭)に受け継がれてきたものと観ることができます。 神人の所役は多岐にわたっています。古文書にみる所役には 大山崎神人・公文・巡検使・大夫職・惣大工職・勾当・五師・例時衆達所・少綱・御綱・駕輿丁・小目代・神宝所・御馬副・宮寺・獅子・御鉾・童子・相撲・鏡澄・火長・火燈・御前払・袖幡・軾・神楽座・仕丁・香花・餝松・壁工・畳差・織手・漆工・紺掻・染殿・絵所・桧物師・塗師・黄染・・・などがあります。 これらは諸座神人として定められていた名称であり、厳密には神人所役と異なるものも含まれていますが、所役に補せられた家々は、一定して世襲するのが習わしでした。 武装集団化した横暴の神人 それでは、鎌倉時代の石清水神人から見ていきましょう。 この時代の石清水八幡宮は、時の権力者と密接な関係を保ちながら、武士層にも八幡信仰が浸透し各地に八幡神が勧請されるたびに所領の寄進が相次ぎました。このため、石清水八幡宮の威光はいっそう増したことで、神人の横暴も現れました。 嘉禎元年(1235年)3月、石清水神人が興福寺衆徒と用水争論し、六波羅が鎮静しました。幕府は同年5月、石清水八幡宮に男山守護を置いて、甲乙人の狼藉を取り締る(「吾妻鏡」)ことにしましたが、歯止めをかけるに至りませんでした。弘安2年(1279年)5月には、延暦寺との争論では石清水八幡宮の神人が赤山神人との訴訟のため、神輿を奉じて初めて入洛し、この後も重大な争論には神輿を奉じて強訴の挙に出ました。 神人は、いっそう武装集団化し、南北朝期には、西国から京に入る関門であった八幡の地は動乱の舞台となり、元弘2年(1332年)六波羅探題の下知によって本宮祠官らは淀橋などを警固しました。 建武3年(1336年)大山崎(現乙訓郡大山崎町)上下神人中宛に出された南朝方阿蘇宮令旨(西明寺文書)に「為朝敵追罰被召群勢処馳参条、神妙之由」と参陣を嘉しているように、神人は武士団に混じり戦闘に荷担しており、応永31年(1424年)には幕府の軍勢に抗して闘争するほどでした。(「看聞御記」) 神人の中でも力を振るった大山崎神人 その神人の中でも最も威を振るったのは山崎離宮八幡宮に拠った大山崎神人でした。平安末頃から灯明油の商活動を始めましたが、本宮内殿の灯明油を献上し日頭役を勤仕して、鎌倉時代には諸国関所の関銭免除の特権を得、さらには弘長元年(1261年)には関料・津料免除に加えて荏胡麻(えごま)油の専売権を得て、非常な富と力を持ちました。別当家に対し、別当の交代を求めて強訴するなどの挙に出ることも多かったのですが、応仁の乱以後、しだいに衰微し、江戸時代には油市場から撤退していきました。 石清水八幡宮を支えた他領神人 さて、神人は「八幡庄内神人」に対し、それ以外を「他領神人」と呼んでいました。「石清水尋源抄」に見られる「他領神人」の規定について紹介しましょう。 『石清水尋源抄 坤』附録下 他領神人 巡検使 河州楠葉村 御鉾 城州淀郷鳥羽村 火長 河州交野郡 火燈 河州交野郡 御前払 河州交野郡 神幡 城州松井村 介副 城州淀郷 団 城州戸津村 軾 城州薪村 立松 摂州嶋上郡□代村 押 城州乙訓郡 このほか、「石清水尋源抄」には、石清水放生会の渡御・還幸の儀に奉仕する神人の名が数多く見られます。 京田辺で御旗神人の補任状を発見 平成13年 (2001年)2月18日付けの京都新聞が報じたところによると、現在も毎年9月に斎行される石清水祭の「御幡神人」を務める京田辺市松井里ケ市の松井さん方から石清水祭の神人補任状が発見されました。この古文書は、「松井郷住人袖幡神人松井九兵衛」に宛てて、神事の役職を任命する文面がつづられていて、それまで200年間も途絶えていた放生会の復活を裏付けるものでした。 また、松井郷の御幡神人36人が八幡宮側にあてた慶長9年(1604年)の「頼み状」では、遷宮の際の装束の費用を求めるなど、神人側も一定の発言力を持っていたことをうかがわせている。さらに、「放生会」に松井家当主が袖幡神人として任命された補任状も確認。これらの補任状は、江戸時代の延宝7年(1679年)から幕末に至るまで、ほぼ毎年分で、戦国時代に一時途絶えた「放生会」が延宝7年に復活したことを裏付けています。 八幡宮修復の遷宮に近隣の村々の神人が参加したり、放生会に出仕が求められるなどの八幡宮と地域が密接に関わってていたことをうかがわせています。 石清水八幡宮とともに歩んだ神人 武装集団化という時代もあった神人ですが、その時代の石清水八幡宮をしっかりと支えてきた人たちでした。現在の石清水祭神人の中には、維新の折に御役御免になったあとを継いだ家もありますが、大部分は古くからその一門で支えられています。 つまり、勝手に誰もが神人になれるというものではなく、八幡宮が補任するものでした。何処の住人で、その家まで規定され、代々世襲され今日に至っているのです。これらは時代によって変遷するものの、一度その所役に補せられると神事仏事の度に奉仕し、そのことが石清水八幡宮と共に歩んできた由緒ある家柄であることを物語っています。 現在の石清水祭における神人 現在9月15日未明から斎行される「石清水祭」の行列に奉仕する神人は次のようなものです。 御前、火長陣衆、御前払(掃)、一・二・三の御弓、御榊持、御幡、大・中・小御鉾、御正印唐櫃、金銀御幣、御神宝、御唐櫃八合、神幸御幣、童子、童女、御宮畳師、駒形四口、獅子二口、御幣、八流旗、押、駕輿丁長、庭燎、唐鞍神馬、勅楽々器唐櫃、軾、御翳、神宝御劔、御紋章入揚提灯十二人、駕輿丁、御綱、神楽座 (石清水八幡宮発行「石清水」に掲載された石清水八幡宮研究所の研究成果及び石清水八幡宮略史を参考。石清水八幡宮研究所は、昭和51年に発足した組織で、石清水八幡宮架蔵文書の整理及び調査、男山全山の燈籠の調査、各方面からの種々の問い合せに対する解答、第二次石清水八幡宮史料叢書の刊行作業を行っています。) |