男山四十八坊

瀧本坊の石燈籠
●神仏混淆の中にあった石清水八幡宮

明治元年(1868)の廃仏毀釈前までは、石清水八幡宮は神仏混淆の強かった神社でした。本殿では毎日読経が流れ、社僧という僧侶が社務を取り仕切ったといいます。

●男山の四十八坊


かつて男山には48もの坊がありました。しかし、今では石清水八幡宮参道の石垣に、その痕跡を見るにとどめています。嘉永元年(1848)刊行の男山考古録には59の坊が出てきますが、ある時代に、これがすべて存在したということではなく、全盛期で50近く、これが火災や廃絶などによって減ったり増えたりしていました。江戸時代中期の地図に描かれた「八幡山上山下惣絵図」には43の坊を見ることができるように、だいたい40前後が常に男山にあったようです。では、なぜ「男山四十八坊」というのかというと、「相撲48手」「いろは48」・・というように、仏教に由来する数字だったようです。その坊も明治初年の廃仏毀釈直前には23の坊になっていました。

●石燈籠に見る四十八坊


男山四十八坊は参道の石垣にその面影を見ることができますが、もうひとつ、本殿前の参道に並ぶ石燈籠にも往時を偲ぶことができます。燈籠の竿の部分に「宿坊 ○○坊」と刻まれたのを見かけます。この「宿坊」というのは、遠くから石清水八幡宮を参拝された旅人を泊める宿泊施設をもった坊でした。この宿泊費を坊の維持費に充てていたようです。



石清水八幡宮寺における男山諸坊の役職(江戸時代初期〜中期)
番号役職名任に就いた坊名役職の内容
01御殿司松本坊、櫻本坊、杉本坊石清水八幡宮寺のご神体や曼荼羅修法など内殿、外殿に関わることを司る職
02入寺梅本坊、橘坊、岩本坊、横坊内殿において毎日勤行をし、御殿司の仕事を助ける職
03山上不出座中坊、萩坊、泉坊、橘本坊御殿司に欠員が生じた場合、その補助のために置かれた職
04衆徒豊蔵坊,法童坊、角坊、鐘楼坊、門口坊、白壁坊、松坊、大西坊、栗本坊、塔坊、宮本坊、瀧本坊、下坊、東坊、新坊、井上坊、梅坊、井關坊、閼伽井坊、椿坊、祝坊、辻本坊衆徒の中の器量のある坊からは、山上五座(五師、例時衆、沙汰人,勾當、久住)、公文所、絵所、兼官、判官、御馬所等の諸職に補任された。それぞれの職は、諸座の神人と深い関わりを持っていたという。



男山の坊一覧( * 宿坊 各坊の石燈籠の奉献年月は、石清水崇敬会発行の「文化燦燦」第二号 から引用しました。同本は石清水八幡宮本殿右の守り札授与所で販売されています。とても安価。お勧めの一冊です。)

番号坊の名別称備考
01上の坊峰坊坊ではよく法螺貝(ほらがい)が吹かれていたことから「貝吹堂」とも呼ばれていた
02松本坊*五智輪院享保14年(1729)11月18日炎上。狩野永徳、狩野山楽の絵を焼失。
03山本坊  菊坊と混同された山本坊。
04菊坊  享保9年(1724)3月28日に類焼し、その跡に小坊を営んだが弘化3年(1846)には荒廃。
05南坊  南坊の所在は不明。御殿司補任の役に補される高い役職に就いていたよう。
06多門坊*多聞坊 坊の開基は不明。本尊は毘沙門天王。その昔、多聞坊といった
07中坊*観音院延久3年(1071)の過去帳がある。石清水八幡宮寺の山上不出座の任に補されている
08豊蔵坊*  徳川家康が三河の国にいるときからの祈祷所で、戦場にあっても自身の加護を祈った
09岸本坊  所在は分かっていません。旧記には岸本坊空澄が御殿司に補任されたとあります
10梅本坊  天正12年(1584)に御殿司職に補されたが、嘉永元年(1848)には、相当荒れていたという
11湯屋坊  所在不明。ただ、湯谷に温泉涌出したといい、事実なら、この付近にあったのでは
12櫻本坊酬恩寺永享11年(1439)と享保7年(1722)の2度にわたって焼亡。明和年間(1764-1772)に再興されたが、荒廃し嘉永元年(1848)には、その跡は竹藪に
13西門口坊  もとは西谷の門口にありましたが、宝暦年間(1751-1764)の杉本坊が類焼した後、大塔西空き地に再興した
14岩本坊*尊勝院春日局からの文を添えて、金襴七條袈裟と水晶念珠などを賜った
15大塔坊  宝暦年間(1751-1764)に焼亡。以降に再興されるが所在不明
16奥坊*  享保16年(1731)、奥坊から出火した火は岩本坊を類焼。この焼失をもって奥坊は途絶えてしまいました。
17尾崎坊  男山考古録が刊行された嘉永元年(1848)には無くなっていたそうです。
18法童坊*  住持の法童坊孝以は松花堂昭乗の門人でした。筆が達者で三の鳥居の銘文を書いたそうです。
19竹内坊  井關坊の替地跡、また、旧岩本坊に近い西側、杉本坊の領地内に在ったとも伝えられています。
20水本坊  坊の名は、石清水の源に在ったからだと言われています。長禄2年(1458)足利義政が参拝のとき、禊谷の水上の掃除は、水本坊の沙汰で行われました。
21楠本坊*角坊長谷寺の観音頂上薬師如来像の厚木が石清水護国寺東庭の楠をもって造立されたことから角坊は楠本坊に改名されました。
22鐘楼坊  護国寺の鐘楼が近くにあったことが坊の名の由来。客殿の天井は惣金張りで狩野永徳筆による極彩色の四季の草花が描かれていたといいます。
23門口坊*  名の由来となった門口は、いずれのものか不明です。江戸中期から荒れていました。
24白壁坊*  白壁坊は、護国寺の上西にありました。名の由来は「打見やり儘の此名を負けむ」と伝えています。
25北坊喜多坊石清水八幡宮寺本殿の北にあったことから、この名が付いたのではないかと言われています。
26松坊*  松坊は、北坊の向かいにありました。室町期には存在していた古い坊です。
27太西坊*大西坊、西坊太西坊の住職、専貞は大石内蔵助良雄の実弟でした。大石良雄は太西坊に立ち寄り、仇討ちの大願成就を石清水八幡宮に祈願したといわれています。
28窪坊  窪坊は、北谷の地の奥まった所にあったことからこの名が付いたそうです。
29栗本坊*栗木坊古くは栗木坊と号しました。安永2年(1773)1月25日に瀧本坊とともに焼失しています。その後、弘化年間(1844-1848)には福泉坊が建てられました。
30福泉坊  太子坂の南側道にあった栗本坊の跡地でした。男山考古録は、石清水五水の内に「福井」という井戸があり、福泉坊と関連づける説があると伝えています。
31萩坊*萩の坊狩野山楽が難を逃れて萩坊に身を隠していました。このときに山楽が描いた絵が萩坊にたくさんありました。
32塔坊*藤坊、塔本坊、藤本坊明応3年の護国寺炎上の火元となったのが塔坊でした。「藤坊」「藤本坊」ともいい、読みをもって呼ばれたようです。弘化年間(1844-1848)には門のみが残っていました。
33石清水坊*宮本坊、行教院行教和尚が住んだことから宮本坊、また行教院と呼ばれました。行教和尚が所持していた剣や行教自筆の軸があり、軸は敵国降伏の祈祷の際に掛けられました。
34瀧本坊*無動院松花堂昭乗ゆかりの坊。寛永4年(1627)3月23日から寛永14年(1637)12月まで住職を勤めた
35下坊下の坊「上坊」に対峙し、大坂道筋の最下にあったことから、この名が付いたと伝えられています。松花堂昭乗の師であった實乗が、後に下坊に住んだそうです。
36泉坊阿弥陀院泉坊は松花堂昭乗が晩年、泉坊の横に松花堂を建てた所です。建物は、小早川秀秋の寄進によるものです。廃物希釈後、松花堂庭園に移設されています。
37學修坊  平等王院曾清という人の二男が學修坊に住んでいました。古記に応永17年(1410)の記述があり、室町時代からあった坊です。
38東坊*  男山の麓にある高良社を預かり、長く守護していましたが、東坊の力が衰え、ついに無住となり、大乗院が高良社を守護するようになりました。
39橘本坊*胡蝶坊八幡太郎義家(源義家)の産着、甲冑、旗が奉納されていましたが、宝暦9年(1759)2月9日に出火。周囲の7つの坊とともに焼失しました。
40新坊*  橘本坊からの出火で類焼。本堂はなく客殿の中に仏間があり、そこに本尊の不動尊が安置されていました。宝暦年間の類焼後、再興されました。
41井上坊*  石清水坊(宮本坊)の南隣にありましたが、弘化年間(1844-1847)ごろに山が崩れて倒壊し、廃絶しました。
42梅坊*  嘉永元年に東坊と橘本坊の間に、梅坊だという狹間の一室が残っていたそうです。室町期からあった坊ですが詳細なことは分かっていません。<
43遺蹟坊*井關坊眞助東谷殿の遺跡にあったことから、遺蹟坊と号したようです。宝暦9年(1759)2月9日、橘本坊からの出火で類焼してしまいました。
44成就坊   成就坊は、泉坊の南隣にありました。母屋には唐破風の扉が付いていました。石清水八幡宮における承任座一臈の役職でした。
45閼伽井坊*山井坊徳川家の祈祷所で、閼伽井坊名産の菖蒲革を添え奉るという神事が執り行われていましたが、弘化年間(1844-1847)までには絶えていたようです。
46櫻井坊  坊の近くに櫻井があり、この名が付いたそうです。「一本上櫻井坊」と書かれたことから、同坊の下には、同名の坊があったのではないかと、男山考古録は伝えています。
47寶性坊  寶性坊がどこにあったのかは不明です。孝澄という僧がいたことが『古記』に見えますが、そのほかは分かっていません。
48谷口坊  谷口坊は中谷口にあって、この名が付いた以外は分かっていません。
49橘坊西橘坊朱色に塗られていた表門は、橘坊に泊まっていた石清水八幡宮修復の彩色師職人がやった仕業だったとか。世間の人は、この門を「赤門」と呼んだといいます。
50柑子木坊  その所在は分かっていません。男山考古録は、橘坊の旧名ではないかと言っています。
51椿坊*欸冬坊椿坊は、別名を欸冬坊といい、欸冬=「ふき」が一面に植わっていたそうです。また、小侍従の坊とも言われ、検校だった光清法印の息女が近衛院皇后多子に仕え、高倉院の時の内侍になったとも言われています。
52蔵坊  中谷坂路の北側にあって、椿坊の下隣にありました。この坊は、宝暦9年(1759)2月9日に橘本坊からの出火によって類焼し、焼亡してしまいました。
53林坊  嘉永元年(1848)には絶えて無く、その所在も明らかでありません。『御殿司補任記』には、御殿司一臈快紹臈の名が見えます。
54杉本坊新勝院新勝院を相続してこの名を名乗るようになりました。この杉本坊も宝暦9年(1759)に焼亡しましたが、弘化年間(1844-1848)までに西谷にある南大塔の西に再興されました。
 石燈籠は確認されていません。
55眺望坊  眺望坊がどこにあったのかは不明です。御殿司の執行に補せられた住職が、正長2年(1429)3月19日に亡くなったと伝えていますから、室町期に存在した坊です。
56祝坊*岩坊古くは岩井坊といい、その後、読みが同じである「祝」の字をあてたようです。宝暦9年(1759)2月9日に橘本坊からの出火によって類焼、焼亡しました。
57横坊*  寶塔院の東に下る坂路の南側で、石清水八幡宮本殿の真横にあったことから、この名が付いたとされています。本尊は平等王院愛染明王を安置していました。
58辻本坊*  閼伽井坊の東隣にあった坊舎は、社士神原市左衛門秋政が居宅を譲り受けて移設し、再興されました。本堂は座敷西の間に仏壇を構え、本尊の不動明王座像を安置していました。
59高坊*  高坊は、何度か場所を移設されているようです。『旧記』によると皇居に準えられるほど荘厳であったといい、上皇の御幸や天皇の行幸においては休憩所となったようです。




01 上の坊 かみのぼう

【別称】上坊、峯坊
【役職】  
【所在】山上


 男山山上の石清水八幡宮南門の側、馬場の東、西面にありました。ちょうど今の手水舎前あたりです。この所在地から「馬場殿」と号していたようです。さて、上の坊は鎌倉期からあったようで、参道の中程にある影清塚の南にあった「下坊」に対する形でとらえられていたようです。また、建保6年(1218)10月22日の文書に上の坊の名が登場しています。男山考古録によると、この坊では朝6時から夕刻6時までの間、数回にわたり法螺貝(ほらがい)が吹かれ、里では、いつのころからか「貝吹堂」と呼ばれたと伝えています。また、經國集詩に「吹螺山寺ノ暁」の記述を見ることができるとも伝えています。
 現在、上の坊の石燈籠は確認されていません。


02 松本坊(宿坊) まつもとぼう

【別称】五智輪院
【役職】御殿司職
【所在】南谷
【石燈籠】12基(寛永4年12月/貞享5年9月/明和6年9月/安永4年5月/安永7年6月/天保15年正月/天保15年正月/元治元年5月/慶應3年6月/延宝4年/年代判読不可3基)


 本道の南にあって、西の端は湯谷道までありました。ちょうど三の鳥居前の神馬舎東側のあたりです。松本坊は室町時代の延文5年(1360)5月14日に住職だった親恵がなくなって五智輪院と号しました。
 文明年間(1469-1487)の記に、大貳法印宗照が石清水八幡宮の御殿司職を勤め、その頃より松本坊の名が見えるようになりました。坊の本堂東面には本尊の不動尊立像が祀られていましたが,享保14年(1729)11月18日に焼亡したようで、このとき、金張で彩色が施された客殿上の間の障子,狩野永徳の絵、次の間にあった狩野山楽の墨で描かれた野鳥図が焼失しています。また、庭の山際には和歌三神の小さな祠があったようです。その後、松本坊は再興され、明治の廃仏毀釈まで残っていたと伝えられています。
 現在、松本坊の石燈籠は全部で13基確認されています。もっとも古いのが寛永4年(1627)12月、もっとも新しいのが慶應3年(1867)6月のものです。


03 山本坊 やまもとぼう

【別称】
【役職】
【所在】南谷


 御殿司補任記よると、山本坊は菊坊の別号であると見えますが、極楽寺(一の鳥居の近くにあった)畳料のことを記した文書に山本卿律師と菊坊刑部律師とあり、別号ではないのでは・・と男山考古録の著者、藤原尚次が言っています。また、山本卿律師は、長禄3年(1459)に守護代を勤め、寛正6年(1465)8月29日、八幡宮領 但馬國菅庄公事違亂下知状の次の連名の内にあり、菊坊と混同したのは盛輪院の北邊に在ったからだと言います。
 現在、山本坊の石燈籠は確認されていません。


04 菊坊 きくぼう

【別称】
【役職】
【所在】南谷


 「菊坊は、山本坊であるというのは間違いだ」と男山考古録の著者、藤原尚次がこのように言っているのは、この二つの坊がよく混同されたからでしょう。さて、住職の刑部卿照尊僧都は年中用抄に8月15日供僧12人の中にその名が出てきます。彼は文明5年(1473)10月6日に亡くなりました。その後には、空辨という人が転任。次に周賢という人が住持となり、永禄13年(1570)3月17日に亡くなったとあります。菊坊はその後、享保9年(1724)3月28日に類焼し、その跡に小坊を営み盛輪院を守護して、出口塀重門を堂より西、御文庫書院の下、山際にあったと伝えています。弘化3年(1846)には、ことのほか荒廃してしまったといいます。これは藤原尚次が男山考古録を刊行する2年前のことでした。
 現在、菊坊の石燈籠は確認されていません。


05 南坊 みなみぼう

【別称】
【役職】御殿司補任
【所在】


 南坊がどこにあったのかはよくわかっていません。御殿司補任の内に南坊宗定法印卿律師執行とあり、南坊の住職は石清水八幡宮寺の高い役職に就いていたようです。この住職は、寛正元年(1460)12月11日に亡くなっています。公文所用抄には、康正年間(1455-1457)、一の鳥居の近くにあった極楽寺詰衆のなかに「南坊卿僧都御房顯任之」という記述が見られます。そのほかのことはよく分かっていません。
 現在、南坊の石燈籠は確認されていません。


多門坊
06 多門坊 たもんぼう

【別称】多聞坊
【役職】
【所在】南谷
【石燈籠】1基(寛文3年正月)


 多門坊は松本坊の下(東側)にありました。その下には行教和尚、弘法大師、益信僧正の各木像を安置する開山堂があり、多門坊の入口の門は、この開山堂の南に位置していました。坊の開基は分かっていません。本尊は毘沙門天王。多門坊はその昔、多聞坊といったのではないかと男山考古録は伝えています。
 現在、多門坊の石燈籠は1基のみ確認されています。左のスケッチ画がその石燈籠です。


中坊
07 中坊(宿坊) なかぼう

【別称】観音院
【役職】不出座
【所在】南谷
【石燈籠】37基(寛永10年正月/寛永21年8月/正保3年8月/承応4年正月/承応4年3月/延宝3年正月/延宝3年9月/延宝5年8月/貞享元年卯月/貞享元年卯月/元禄3年6月/元禄9年8月/元禄9年8月/元禄15年正月/元禄15年8月/正徳2年5月/正徳3年9月/正徳6年正月/正徳6年正月/享保6年5月/享保6年5月/延享3年7月/延享4年12月/宝暦4年2月/宝暦10年9月/宝暦10年9月/宝暦13年9月/明和2年正月/明和3年9月/安永3年正月/安永4年正月/安永4年4月/安永5年正月/寛政10年3月/寛政10年4月文政12年3月)


 中坊は豊蔵坊の下隣、中谷口にありました。観音院と号し、公文所私記に善法寺殿御代の時、御免官途の條に長禄元年(1457)12月29日、中坊少納言少別当延慶、また同記に中坊権寺主宗成という名が見えます。また、中坊の過去帳には、延久3年(1071)2月28日に亡くなった孝圓という人を始めに記しています。中坊は石清水八幡宮寺の山上不出座の任に補されています。延久4年(1072)9月には石清水八幡宮寺の荘園が定められています。
 中坊の石燈籠は、瀧本坊に続いてもっとも多く、現在、37基を数えています。もっとも古い灯籠は寛永10年(1633)1月で、もっとも新しいのが寛政10年(1798)4月です。


豊蔵坊
08 豊蔵坊 (宿坊) ほうぞうぼう

【別称】宝蔵坊から改名
【役職】衆徒
【所在】南谷


 豊蔵坊は、表参道の休憩所「鳩茶屋」の少し下にありました。その大きな敷地面積や22基に及ぶ常夜燈の献納の数からも、48坊のなかにあって大きな勢力を有していたことがうかがえます。というのは、豊蔵坊は徳川家康が三河の国にいるときからの祈祷所で、戦場にあっても自身の加護を祈ったと寺記や明和4年(1769)の註進記にみられます。また豊蔵坊には、家康公42歳の等身大肖像、帯劔衣冠繧繝縁茵上座像が安置されていたと伝えています。  また、豊蔵坊は、もとは宝蔵坊といったらしく、家康が国家豊穣を祈願することから「宝」を「豊」に変えよとの言いつけにより、変えたという記録が残っています。  元和年間(1615-1623)の頃、孝仍という大徳寺の僧がここに住み、松花堂昭乗に法儀を教えたといわれています。本尊は阿弥陀三尊で、神殿の形を持っていたようです。
豊蔵坊でもっとも古い石灯籠は寛永3年(1626)2月のもので、もっとも新しいのは明和7年(1770)9月です。


09 岸本坊  きしもとぼう

【別称】
【役職】
【所在】


 岸本坊の所在は分かっていません。男山考古録には「旧記に岸本坊空澄の名あり。御殿司相傳記に空澄は少将というとあり。社務農清子にて、報恩寺に住みて空圓弟子となり、永正2年(1505)8月25日に入寂の由見えたり、岸本坊には、後に住ると知る」とあります。
石灯籠は確認されていません。


10 梅本坊  うめもとぼう

【別称】
【役職】入寺
【所在】西谷


 元三大師堂の南隣にあったといいます。今の清峯館(青少年文化・体育研修センター)のあたりです。客殿は湯谷の坂より南の藪の中に作られていました。男山考古録には「大いに荒れて住難し」とあり、考古録が刊行された嘉永元年(1848)には、相当荒れていたと思われます。年代は分かりませんが、年中用抄に「8月15日極楽寺供僧の中に梅本坊少納言少別当御房」と見えます。また、天正12年(1584)12月に梅本坊春譽が御殿司職に補され、文禄4年(1595)12月に亡くなったと伝えています。
石灯籠は確認されていません。


11 湯屋坊  ゆやぼう

【別称】
【役職】
【所在】


 湯屋坊がどこにあったのかは分かりません。しかし、湯谷というところに温泉が涌出したといい、これが事実なら、この付近にあったのではないかと男山考古録が伝えています。この湯谷というのは、三の鳥居を少し南へ、その先、西へ取り、山下谷畑町へ下る通称志水坂とも南坂ともいうところを古くより湯谷といったようです。古記に湯屋坊快然の名が見られます。
石灯籠は確認されていません。


12 櫻本坊  さくらもとぼう

【別称】酬恩寺
【役職】御殿司
【所在】西谷


 櫻本坊は梅本坊の北西、八角堂の前にありました。といっても、八角堂は神仏分離で今は西車塚古墳上に移設されています。現在の石翠亭の前あたりだったようです。旧記によると報恩寺と酬恩寺は同じ寺だったようで、櫻本坊が報恩寺を相続して、酬恩寺と号したとあります。櫻本坊の名は、応永13年(1406)に亡くなった重辨の代からだと伝えています。異本系図によると、「観俊の子の俊源という人が阿闍梨法眼を経て入壇、御殿司法印に累遷して堂五宇を建立した」とあり、酬恩寺はその一宇であると伝えています。また、善法寺了清の次男、了尊という御殿司が酬恩寺を再興しましたが,永享11年(1439)3月23日に焼失。中谷にあった杉本坊に移り住んだといいます。そして享保7年(1722)12月11日の夜半に再び焼亡。明和年間(1764-1772)に再興されましたが、その後中絶して堂坊は破壊して倒れ、嘉永元年(1848)には、その跡は竹藪となっていたと伝えています。
櫻本坊の石灯籠は確認されていません。


13 西門口坊  にしもんくちぼう

【別称】
【役職】
【所在】西谷


 西谷の門口にあったことから、この名が付いたそうです。しかし、その正確な位置は不明です。男山考古録の著者、藤原尚次が言うところによると、宝暦年間(1751-1764)の杉本坊が類焼した後、一社に願いて大塔西空き地に再興したとあります。
西門口坊の石灯籠は確認されていません。


岩本坊
14 岩本坊 (宿坊) いわもとぼう

【別称】尊勝院
【役職】入寺
【所在】西谷


 岩本坊は岩本跡といわれる所にあり、坊の名もこれによると思われます。岩本坊は享保16年(1731)1月2日、奥坊からの類焼によって焼亡。その後、櫻本坊の東隣,小塔のあった跡地に再興されました。この岩本坊は、代々石清水八幡宮の入寺職に任ぜられ、御殿司職とも兼職していたようです。類焼前の寛永年間(1624-1643)には、徳川家光が石清水八幡宮を参詣したおり、春日局からの文を添えて、金襴七條袈裟水晶念珠などを賜ったとあります。このときの住職が増周といいました。また、善法寺晃清法眼方に重清法印死後、透清禅師と号して岩本坊に住んでいた時、伊賀中務丞宅から大勢して押し寄せたと紀氏系図の異本に見えるといいます。
現在、岩本坊の石燈籠は6基が確認されています。このうち、もっとも古いのが延宝3年(1675)2月、もっとも新しいのが文政3年(1820)2月(左のスケッチ画)のものです。灯籠の竿の部分が「ツチノコ」のように丸い形をしており、とても愛嬌のある灯籠です。


15 大塔坊  だいとうぼう

【別称】
【役職】
【所在】中谷


 もとは、大塔の近くにあったことからこの名が付いたそうです。宝暦年間(1751-1764)には杉本坊近くの中谷にあったのですが、同年間に焼亡。その後移設されて再興されたといわれていますが、はっきりしません。旧記には大塔坊顕意という人の名が見られます。この顕意法眼少別当は、御殿司職に補任され、元徳2年(1330)12月16日に亡くなったとあります。なお、大塔坊と塔坊とは別の坊です。
大塔坊の石灯籠は確認されていません。


奥坊
16 奥坊(宿坊) おくぼう

【別称】
【役職】衆徒
【所在】西谷


 奥坊は大塔の前を過ぎて旧岩本坊へと至る道の西に入る所にありました。そこは奥まった所だったので奥坊と名付けられたようです。享保16年(1731)1月2日、奥坊から出火した火災によって、岩本坊を類焼しました。この焼失をもって奥坊は途絶えてしまいました。奥坊の住職だった権律師奥坊祐忠が応仁元年(1467)9月21日に亡くなっています。
奥坊の石燈籠は5基が確認されています。この中でもっとも古い灯籠は承応3年(1654)5月、もっとも新しいのが享保5年(1720)5月のものです。享保年間以降の石燈籠がないことことが、火災によって途絶えたことを物語っているようです。


17 尾崎坊  おざきぼう

【別称】
【役職】
【所在】西谷


 男山考古録が刊行された嘉永元年(1848)には無くなっていたそうです。その所在地は西谷の尾崎という所に在ったのでこの名が付いたといわれています。奥坊のあたりか、奥坊の西門を出て西山に至る道の南の杉本坊の領地となっているあたりか・・その跡は知るのは困難だとも男山考古録は伝えています。太平記には、八幡の西の尾崎・・とあり、御殿司補任記には尾崎坊覚尊法師という名が見え、永正2年(1505)5月22日に亡くなったとあります。また寛延という名も旧記にみえます。また、年中用抄には8月15日、極楽寺供僧十二口内に、尾崎坊少納言少別当御房という名も見えます。
尾崎坊の石灯籠は確認されていません。


18 法童坊(宿坊)  ほうどうぼう

【別称】
【役職】
【所在】西谷


 馬場にあった元三大師堂の北を、西谷に下る横道のある道の南側、北面にあったといいます。本尊は不動明王立像。住持は法童坊孝以といい、松花堂昭乗の門人でした。彼は筆が達者で三の鳥居の銘文を書いたそうです。寛永9年(1632)4月25日に亡くなっています。松花堂昭乗が亡くなった寛永16年から数えると7年も前のことです。
 法童坊の石灯籠は1基のみ確認され、刻まれている年号は寛政4年(1792)3月です。


19 竹内坊(宿坊)  たけうちぼう

【別称】
【役職】
【所在】


 竹内坊の所在は不明です。井關坊の替地跡にあったといいますが、定かではありません。また、法童坊前の道の突きあたりの旧岩本坊に近い西側、杉本坊の領地内に在ったとも伝えられています。旧記には竹内坊重明、竹内坊宗旬の名が見えます。
 竹内坊の石灯籠は確認されていません。


20 水本坊(宿坊)  みずもとぼう

【別称】
【役職】
【所在】北谷


 水本坊の所在は不明です。しかし、細橋(ささやきばし)の近くに水本坊が在り、その後、その場所に角坊が建てられたと伝えています。水本坊の名の由来は、石清水の源に在ったからだと言われています。長禄2年(1458)3月、将軍、足利義政が参拝のとき、禊谷の水上の掃除は、水本坊の沙汰で行われたことが旧記や公文所年中用抄に見られます。
 水本坊の石灯籠は確認されていません。


角坊 21 楠本坊(宿坊)  くすもとぼう

【別称】楠木坊、角坊、角之坊、角堂
【役職】衆徒
【所在】北谷


 楠本坊は、その昔、角坊と呼ばれていました。年中用抄の御免官途の條に、長禄元年(1457)2月、角坊少別当性尊の名が見えます。また、角坊兼増の名も見えます。角坊から楠本坊に改名されたことについて空圓記には、「長谷寺の観音頂上薬師如来像の厚木は石清水護国寺東庭の楠をもって造立する。このことから楠本坊に改名した」と書かれています。嘉永年間(1848-)には、その大楠の切り株が朽ちて残っていると伝えています。
 楠本坊銘の石燈籠は確認されていませんが、改名前の角坊の石灯籠は15基が確認されています。古いもので慶安2年(1649)1月、新しいもので明和3年(1766)3月です。改名されたのはこれ以降のことと思われます。


22 鐘楼坊 しょうろうぼう

【別称】
【役職】衆徒
【所在】北谷


 鐘楼坊は、護国寺より太子坂へ下る道の西門にありました。護国寺の鐘楼が近くにあったことから、この名が付いたと言われています。鐘楼坊は長曾我部氏の再興と伝えられています。客殿には玄関から次の間に至るまで天井は小組、惣金張りで狩野永徳筆による極彩色の四季の草花が描かれていたといいます。また、小堀遠州政一好みの茶室が一室があり、畳敷合わせの特徴から筏の間と呼ばれていました。江戸中期には荒廃していたようで、男山考古録の著者、藤原尚次は「とても惜しいことだ」と嘆いています。
 鐘楼坊の石燈籠は確認されていません。


23 門口坊(宿坊) もんくちぼう

【別称】
【役職】衆徒
【所在】北谷


 門口坊は、鐘楼坊の西上、北谷道の北に在りました。この名が付いた門口は、いずれのものであったたのか不明です。門口坊も江戸中期から荒れていたといいます。
 門口坊の石燈籠は1基のみ確認されています。それは延享3年(1746)6月のものです。


24 白壁坊(宿坊) しらかべぼう

【別称】
【役職】衆徒
【所在】北谷


 白壁坊は、門口坊の対面にあり、道より南、護国寺から見ると上西にありました。男山考古録は、この名の由来は「打見やり儘に此名を負けむ」と伝えています。
 白壁坊の石燈籠は3基が確認されています。一番古いものは延宝6年(1678)12月で、続いて元禄9年(1696)6月と同年8月のものです。


25 北坊 きたぼう

【別称】喜多坊
【役職】承任
【所在】北谷


 北坊は、通称、喜多坊と書かれていたようです。石清水八幡宮寺本殿の北にあったことから、この名が付いたのではないかと男山考古録は伝えています。所在地は白壁坊から見ると、上西の道より南側になります。本尊は不動明王立像。元禄3年(1690)の石清水八幡宮社領帳に喜多坊の名が出てくるそうです。それ以外のことは分かっていません。
 北坊の石燈籠は確認されていません。


松坊 26 松坊  まつぼう

【別称】松の坊
【役職】衆徒
【所在】北谷


 松坊は、北坊の向かいにありました。御殿司補任記に松坊空辨という名が見えます。高倉家の子息で法印権大僧都一臈という人が明応2年(1493)4月29日に亡くなったと伝えてます。ですから、室町期には存在していた古い坊です。本尊は不動明王で五大尊を安置していた坊でした。
 松坊の石燈籠は12基が確認されています。一番古いもので寛文2年(1662)正月、新しいもので寛政10年(1798)です。


太西坊 27 太西坊  おおにしぼう

【別称】大西坊、西坊
【役職】衆徒
【所在】北谷


 太西坊は、松坊の上西にありました。太西坊の名は、石清水八幡宮寺の北御門を出る道の西側に位置したことによるものです。年中用抄によると、長禄元年(1457)12月、御免官途7人の内に、五師太西坊安藝権寺主良藝の名が見えます。また、異本祠官系図には太西坊五師澄圓法印という人が応永元年(1394)3月29日に補任されたとあります。そのほか、上座澄泉と天正10年(1582)12月26日執行注進状に西坊の名を見ることができます。ここでいう西坊とは、太西坊のことと思われます。本尊は不動明王座像です。
 太西坊の住職、専貞は赤穂の大石内蔵助良雄の実弟でした。元禄14年(1701)3月14日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及んだ「松廊下事件」が起こります。その7日後の3月21日に大石良雄は太西坊に対して「城はいずれ明け渡さなくてはならないから、浪人となる14〜15人の仮住まいを探して欲しい。できれば男山の麓か山崎、山科、伏見、大津あたりで見つけて欲しい」といっています。このあと、大石良雄が江戸に下向するとき、太西坊に立ち寄り、仇討ちの大願成就を石清水八幡宮に祈願したといわれています。また、太西坊専貞の弟子の覚運は、小山良師の末っ子で、大石良雄の養子となった人で、後に一時衰退した太西坊を再興しました。太西坊の紋は二ツ巴を用いたと言われています。
 太西坊の石燈籠は13基が確認されています。一番古いもので寛永6年(1629)3月、新しいもので寛政4年(1792)正月のものです。


28 窪坊 くぼぼう

【別称】
【役職】
【所在】北谷


 窪坊は、北谷の地の奥まった所にあったことからこの名が付いたそうです。御殿司補任記に窪法快尊の名が見えます。また、年中用抄は小別当法印が永世2年(1505)2月12日に亡くなったことを伝えています。
 窪坊の石燈籠は確認されていません。


29 栗本坊(宿坊) くりもとぼう

【別称】栗木坊
【役職】衆徒
【所在】北谷


 栗本坊は、太子坂の下り口道の南、鐘楼坊の向かいにありました。中谷にあった杉本坊と入れ替わった後、その所在地を変えたといいます。古くは栗木坊と号しました。縁事抄には、明徳年間(1390-1394)に坊に入った「駿河法印定範」「栗木坊主」や新しく付けられた「栗本坊」の名を見ることができます。また、権寺主祐慶という住職が、寛正6年(1465)1月2日に亡くなったことを伝えています。安永2年(1773)1月25日に瀧本坊とともに焼失しています。その後、弘化年間(1844-1848)には福泉坊が建てられました。
 栗本坊の石燈籠は1基が確認されています。それは寛保3年(1741)3月のものです。


30 福泉坊 ふくせんぼう

【別称】
【役職】
【所在】北谷


 福泉坊は、太子坂の南側道に添ってあり、栗本坊の跡地でした。男山考古録は、石清水五水の内に「福井」という井戸があり、福泉坊と関連づける説があると伝えていますが、決定的な証拠はありません。また、古くは大坂道の東、成就坊の向かいにあったといい、そこは路次門を建て、竹垣を低く構え、内には石灯籠があり、その周辺は竹藪となっていたそうです。
 さて、栗本坊の跡地に建てられた福泉坊は、文化年間(1804-1818)に泉坊舜乗か泉坊にいた立辨がここに再建したといいます。この立辨は後に山崎の観音寺に行き、彼寺の納所となったと伝えています。
 福泉坊の石燈籠は1基が確認されています。それは、慶安2年(1649)3月に建立された石燈籠で、福泉坊の住職、普昌が、瀧本坊の實乗と松花堂昭乗の菩提を弔って建てたことが記されています。


萩坊 31 萩坊  はぎぼう

【別称】萩の坊
【役職】不出座
【所在】北谷


 太子坂掛路へ下る曲がり角の道の南、福泉坊の下隣にありました。石清水八幡宮寺の御殿司に欠員が生じた場合、その補助をした不出座の役職に付いていました。萩坊権少僧都幸代という人が御殿司職に補されたことが旧記に見られます。この人は嘉吉3年(1443)7月13日に亡くなったと伝えています。また、有名な話として、大坂城が落城した後の元和年間(1615-1624)、豊臣秀吉公に仕えていた狩野山楽が難を逃れて萩坊に身を隠していました。このときに山楽が描いた絵が萩坊にたくさんありました。客殿上段の間の「寿老人唐子遊の図」、床張付の「周文王呂尚を大門外に迎える図」、次の間には「琴棊書画人物」などは、どれも金を貼り付けた極彩色の絵で、その次の間の牡丹一式、猫や蝶など、鳥子地の極彩色であったといいます。また、その次の間は、息子の山雪による山水墨画がありました。これらの絵は、後に萩坊の破壊によって、瀧本坊に移されたそうです。
 客殿の奥、巽の方角に茶室があり、ここには松花堂昭乗筆の「向雲閣」の額が架けられていたそうです。堂二宇を擁した萩坊は、弘化年間(1844-1847)には相当破損していたと男山考古録は伝えています。松花堂昭乗の門人で、玄々翁また自静堂と号した乗圓は、元和(1615〜)から寛永(1624〜)にかけての住職で、書画でも高名でした。乗圓は延宝3年(1675)乙卯4月26日に亡くなったと伝えています。乗圓の辞世歌が「いつか我も憂世の隙を明ほのの雲井の月の短夜の空」というもので、男山考古録の著者、藤原尚次は「誰も知さる事故記し置く」と記して紹介していることから見て、乗圓に対する特別な思いがあったようです。また,宗祗という人が次のように萩坊を詠んでいます。
「八幡山にてなけや鹿なかすは皮をはきの坊」
この歌、どう見ても駄洒落ですよね。  さて、萩坊の石燈籠は6基が確認されています。一番古いもので慶長16年(1611)8月、新しいもので貞享3年(1686)のものです。


32 塔坊(宿坊) とうぼう

【別称】藤坊、藤本坊、塔本坊
【役職】衆徒
【所在】北谷
【石燈籠】5基(元禄13年10月/享保7年8月/享保7年8月/宝暦5年正月/安永4年正月)


 塔坊は、萩坊の下隣の西面にありました。長禄2年(1458)の『将軍(足利義政)参詣記』にも、同様の場所にあった記されていることから、室町期には存在していた坊です。明応3年(1494)に護国寺が炎上しましたが、その火元となったのが塔坊でした。『空孝見聞私記』は、御殿司だった塔本坊顕雄が永享2年(1430)5月に亡くなったことを伝えています。また、「藤坊」「藤本坊」の名を見ることができますが、これらは、字の音読みをもって呼ばれたようです。弘化年間(1844-1848)までには荒廃していて、門のみが残っていると男山考古録は伝えています。
 塔坊の石燈籠は5基が確認されています。古いものが元禄13年(1700)10月、新しいものが安永4年(1775)正月です。


宮本坊 33 石清水坊(宿坊) いわしみずぼう

【別称】宮本坊、行教院
【役職】衆徒
【所在】東谷
【石燈籠】16基(明暦2年5月/万治2年3月/延宝4年8月/延宝4年9月/享保20年8月/元文2年11月/元文2年11月/元文4年正月/元文5年8月/元文5年8月/寛保2年8月/延享2年5月/宝暦5年6月/宝暦5年9月/宝暦5年9月/文化2年4月)


 『一山傳記』に、行教和尚がこの坊に住んだことから宮本坊、また行教院と呼ばれたと書かれています。石清水坊には、行教和尚が所持していた剣があり、この佩刀の鞘には行教和尚自筆の伝来が書かれていたそうです。山上僧侶は、この剣を「右手指(めてさし)」と呼んでいたと伝えています。また、行教自筆の軸があり、敵国降伏の祈祷の際に掛けられました。客殿などの金の壁には、狩野永徳筆の松の絵が描かれていました。このほか、嘉歴元年(1326)9月の護国寺炎上について検校別当三綱、俗別当神主らの連署による子細状があったそうです。長禄2年(1458)の『公文参詣記』に宮本坊の名が見られます。石清水坊は、安永2年(1773)正月25日に焼亡していますが、その後、再興されています。
 石清水坊の石燈籠は16基が確認されています。古いものが明暦2年(1656)5月、新しいものが文化2年(1805)4月です。


瀧本坊
34 瀧本坊 (宿坊) たきもとぼう

【別称】無動院
【役職】衆徒
【所在】東谷


 瀧本坊は石清水社の東側にありました。もとは、瀧が落ちる元にあったことによる命名であったと伝えられています。別称、無動院と号しました。寛永4年(1627)3月23日、この坊の住職だった実乗が亡くなり、その後を継いで住職となったのが昭乗でした。昭乗は、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」に称せられた人でした。  瀧本坊は一度焼失しており、焼亡前は客殿より北に鳴門の間、鳩の間などがありました。再興にあたっては九條殿から玄関を拝領したため、別に正面玄関を有していたようです。また奥小書院は小堀遠州好みで、旧松坊のものを移したとあります。寛永14年(1637)12月、昭乗は甥の乗淳に瀧本坊を譲りました。
瀧本坊の石燈籠がもっとも多く現存しており、45基が確認されています。この中でもっとも古い灯籠は寛永12年(1635)11月、もっとも新しいのが元治2年(1865)3月のものです。


35 下坊 しもぼう

【別称】下の坊
【役職】衆徒
【所在】東谷
【石燈籠】1基(慶長3年8月)


 下坊は祓谷道の東、泉坊の北隣の西斜面にありました。ここは、駒返橋の上になります。下坊は本宮南門の東側にあった「上坊」に対峙するとともに、大坂道筋の最下にあったことから、この名が付いたと伝えられています。また、一説によると、古くは「水本坊」といったされますが、石清水八幡宮寺旧記とは合わないと男山考古録は指摘しています。松花堂昭乗の師であった實乗が、後に下坊に住んだことから「下坊實乗」と書かれた書物が多くあったといいます。松花堂昭乗は、實乗の肖像画を描いていて、それには「しるはしれ假に師となり弟子となりかはるかはるに世にすくふとは」と書かれていたそうです。
 下坊の石燈籠は1基が確認されています。奉献年月は慶長3年(1598)8月です。


泉坊
36 泉坊(宿坊) いずみぼう

【別称】阿弥陀院
【役職】不出座
【所在】東谷
【石燈籠】4基(萬治2年8月/延宝3年12月/延享4年正月/安永4年8月)


 泉坊は東谷道より東側、下坊の南隣にありました。松花堂昭乗が晩年、泉坊の横に松花堂を建てた所です。この泉坊の名は、祓谷の飛泉があったことから付けられました。泉坊の西面には唐破風の玄関があり、客殿上壇の間には襖障子に数艘の唐船が描かれていたそうです。本堂に安置されていたのは三尊阿弥陀立像で、春日仏師の作で、この本尊をもって、泉坊は「阿弥陀院」とも呼ばれました。これらすべての建物は、小早川秀秋の寄進によるものです。
 泉坊の石燈籠は4基が確認されています。奉献年月は古いもので萬治2年(1659)8月、新しいもので安永4年(1775)8月です。左のスケッチ画は本殿南総門の階段右にある石燈籠です。茶色の堂々とした石燈籠には、風格を感じることができます。


37 學修坊 がくしゅうぼう

【別称】東谷殿
【役職】御殿司
【所在】東谷
【石燈籠】確認されず


 學修坊の詳しい所在は分かっていません。平等王院曾清という人の二男が學修坊に住まいして、東谷殿と号したということです。古記に応永17年(1410)の記述がありますから、室町時代からあった坊のようです。
 學修坊の石燈籠は確認されていません。


38 東坊(宿坊) ひがしぼう

【別称】東谷殿
【役職】衆徒(古くは御殿司を勤める)
【所在】東谷
【石燈籠】1基(元禄7年正月)


 東坊は泉坊の南隣にありました。男山の正東にあったことから、この名が付いたとされています。男山考古録は「表門は昔と同じだが房舎は形を残すのみで荒廃している」と伝えており、室町期からあったこの坊は、弘化年間(1844-1847)にはかなり荒廃していたようです。この東坊に住んでいた重覚という人は御殿司で刑部卿ともいい、文明7年(1475)2月12日に亡くなっています。
 東坊は男山の麓にある高良社を預かり、長く守護していましたが、徐々に東坊の力が衰えてきたため、大乗院に頼んで隔月に守護してもらうようになり、その後は隔年となり、ついには東坊は無住となって、大乗院だけで高良社を守護するようになりました。東坊は高良社遷宮の時、下陣供奉したことをその時々の遷宮別記に書かれています。また、高良社神饌容器の外箱には、「東坊預」と書かれたものが高良社に残っています。
 東坊の石燈籠は1基のみ確認されており、元禄7年(1694)正月の奉献です。


橘本坊
39 橘本坊(宿坊) たちばなもとぼう

【別称】胡蝶坊
【役職】山上不出座(古くは御殿司を勤める)
【所在】東谷
【石燈籠】9基(寛永18年4月/天和2年11月/正徳4年霜月/正徳4年霜月/享保18年12月/宝暦4年11月/宝暦 年6月/宝暦拾一年11月/嘉永2年11月)


 橘本坊は梅坊の南隣にありました。『御殿司補任記』によると、「胡蝶坊は橘本坊と同じか」と書かれています。橘本坊は足利家の祈祷所で、男山の坊の中でも大きな勢力を持っていたようです。『公文所私記』には、康正2年(1456)橘本坊兵部卿法印の名が見えます。
 また、同坊には石清水八幡宮で元服し、以降、源氏と八幡宮の関係を築くことになった八幡太郎義家(源義家)の産着、甲冑そして旗が奉納されていました。しかし、宝暦9年(1759)2月9日、橘本坊の客殿から出火。火はまたたく間に周囲の坊に燃え移り、諸坊とともに、これらを焼失してしまいました。このとき、類焼した坊は、新坊、井關坊、閼伽井坊、杉本坊、岩井坊、祝坊,櫻井坊の7つでした。この火災の消火活動に、藤原尚次(男山考古録著者)の祖父にあたる政次が配下人とともに尽力、ようやく鎮火した灰の中から、甲冑の金具を探し出し、同坊の住職に渡したと男山考古録は伝えています。
 この焼失した甲冑と旗は、以前に尚次の祖先が書き写し、それを指し出したという伝来が藤原尚次家にあり、また、新井君美という人が書いた『軍器考』にその寸法が書かれていました。この伝来をもとに、閼伽井坊住職だった清福寺普門と相談し、男山山上のすべての坊を探索したところ、中坊の土蔵の天上梁上からムシロに包まれ、藤原家の書き付けとともに発見されました。
 そこで、かねて本坊の松の倒木を挽いた板があったことから、この板を使って甲冑を入れる具足櫃を作り、そこに焼けた甲冑の金具を納めたそうです。また、京都の画家であった岡田式部少丞為泰に依頼して、絹地極彩色で再現し、これを橘本坊の住職に渡したといいます。
 また、橘本坊には源義家が所有していた笹丸と呼ばれた笹作りの太刀、足利義詮花押の書が奉納されていたそうですが、どういうことか、豊臣秀吉によって持ち出され、愛宕山に奉納されたと伝えています。この太刀は、「惣鐵具紫調に悉皆笹の毛彫にて、柄は頭より袋の如く唐革にて鍔籠めに被せて、茶色の打紐にて亂菱に巻き付けたり、鍛冶は宗則の名、中心にあり。希代の名刀である」と委匠家聚材は伝えているといいます。
 橘本坊の石燈籠は9基のみ確認されており、古いものは寛永18年(1641)4月、新しいものが男山考古録が発刊された翌年にあたる嘉永2年(1849)11月の奉献です。スケッチ画の石燈籠は、石清水八幡宮本殿左側に並ぶ石燈籠の中に見つけました。とても大きく、立派な灯籠です。


新坊
40 新坊(宿坊) しんぼう

【別称】
【役職】衆徒
【所在】東谷
【石燈籠】3基(貞享2年12月/貞享2年12月/元禄4年5月)


 新坊は、東谷の石清水社より大坂へ出る道の西山にあって、表門は南に面していました。ちょうど橘本坊と道を隔てて相対していたことから、宝暦9年(1759)2月9日、橘本坊からの出火で類焼し、焼亡してしまいました。『年中用抄』には、「8月15日、極楽寺供僧の内、新坊刑部卿」の記載があると伝えています。本尊は不動尊で、本堂はなく客殿の中に仏間があり、そこに安置されていました。宝暦年間の類焼後、再興されたようですが、その後の状況は分かっていません。
 石燈籠は3基が確認されています。奉献年月は古いもので貞享2年(1685)12月、新しいもので元禄4年(1691)5月です。



41 井上坊(宿坊) いのうえぼう

【別称】
【役職】衆徒
【所在】東谷
【石燈籠】1基(享保19年正月)


 井上坊は、東谷の寶塔院の東、横坊門前を東へ下る坂で、俗に「地獄谷」と呼ばれた道の北にありました。ちょうど、石清水坊(宮本坊)の南隣になります。男山考古録は「近く山が崩れて転倒し、今は無し」といい、嘉永元年(1848)には無くなっていたようです。
 石燈籠は1基が確認されています。奉献年月は享保19年(1734)正月ものです。



42 梅坊(宿坊) うめぼう

【別称】
【役職】衆徒
【所在】東谷
【石燈籠】4基(寛永17年2月/延宝6年3月/元禄3年5月/元禄4年11月)


 嘉永元年に東坊と橘本坊の間に、梅坊だという狹間の一室が残っていたそうです。『年中用抄』には「長禄2年(1458)6月5日、権寺主免許、兩人之内五師梅坊對馬覚祐、同梅坊有快勾當」の名が見えることから、室町期からあった坊です。そのほかの詳細なことは分かっていません。
 石燈籠は4基が確認されています。奉献年月は古いもので寛永17年(1640)2月、新しいもので元禄4年(1691)2月ものです。



43 遺蹟坊(宿坊) いぜきぼう

【別称】井關坊
【役職】衆徒
【所在】東谷
【石燈籠】3基(正保4年9月/延宝8年5月/元禄16年霜月)


 遺蹟坊は、大坂道を東谷に入る道の角にありました。平等王院登清の弟で眞助という人が延文元年(1356)4月5日に出家して、学修坊において得度し、東谷殿と号しました。この眞助東谷殿の遺跡にあったことから、後世に遺蹟坊と号したようです。また、その後、好字をあてて井關坊と書いたとあります。この名は、早くは長禄2年(1458)の『将軍家参拝記』に出てきます。遺蹟坊は宝暦9年(1759)2月9日、橘本坊からの出火で類焼してしまいました。
 石燈籠は3基が確認されています。奉献年月は古いもので正保4年(1647)9月、新しいもので元禄16年(1703)霜月ものです。



44 成就坊 じょうじゅぼう

【別称】
【役職】承任座
【所在】東谷
【石燈籠】確認されず


 成就坊は、泉坊の南隣にありました。「門は西のほうにあったが、大坂のほうを表とした」といい、通常は大坂道から出入りしていたようです。また、母屋には唐破風の扉が付いていました。成就坊には石清水八幡宮における承任座一臈の役職についていた人が住んでいたそうです。
 石燈籠は確認されていません。



45 閼伽井坊(宿坊) あかいぼう

【別称】山井坊
【役職】衆徒
【所在】東谷
【石燈籠】5基(永禄5年9月/慶安3年5月/天明元年8月/弘化4年9月/文政4年3月)


 閼伽井坊(あかいぼう)は、東谷から大坂へ出る道の曲がり角、西側にある山の傍らにありました。坊の名は、南にあった櫻井又は閼伽井から付けられてといいます。『僧古記』に山井坊尊譽という人の名が見え、閼伽井坊は山井坊と号したようです。
 閼伽井坊は徳川家康が参河の國にいるときからの祈祷所で、神札玉串を進す、また閼伽井坊名産の菖蒲革を添え奉るという神事が執り行われたそうですが、弘化年間(1844-1847)までには絶えていたようです。巽の隅には本堂があり、覚鑁上人が刻彫したという不動明王が安置されていました。権上座心快という人が寛正5年(1464)8月12日に亡くなっています。また、阿闍梨(あじゃり)となった幸慶という人が永正5年(1508)6月14日に亡くなっています。
 石燈籠は5基あり、古いものが永禄5年(1562)9月、新しいものが文政4年(1821)3月の奉献です。



46 櫻井坊 さくらいぼう

【別称】山井坊
【役職】御殿司
【所在】中谷
【石燈籠】確認されていません


 櫻井坊は、中谷道の北、大坂にでる所にありました。近くに櫻井があり、この名が付いたそうです。「一本上櫻井坊」と書かれたことから、同坊の下には、同名の坊が存在したのではないかと、男山考古録は伝えています。
 美濃阿闍梨と号した櫻井坊の住職、御殿司の権小僧都(ごんそうづ)重覚は、室町期の応永年間(1394-1428)の僧ではないかと伝えています。また、『年中用抄』には、長禄元年(1457)御免官途7人のうち、櫻井坊権寺主(ごんじしゅ)圓仲いう人の名が見えます。
 石燈籠は確認されていません。



47 寶性坊 ほうしょうぼう

【別称】
【役職】
【所在】中谷
【石燈籠】確認されていません


 寶性坊がどこにあったのかは不明です。孝澄という僧が同坊の住職だったことが『古記』に見えますが、そのほかは分かっていません。
 石燈籠は確認されていません。



48 谷口坊 たにぐちぼう

【別称】
【役職】
【所在】中谷口
【石燈籠】確認されていません


 谷口坊は中谷口にあって、この名が付いた以外は分かっていません。
 石燈籠は確認されていません。



49 橘坊(宿坊) たちばなぼう

【別称】西橘坊
【役職】入寺
【所在】中谷
【石燈籠】1基(年号判読不可)


 橘坊は中谷の坂路の南側、馬場末の経蔵へと下る所にありました。ちょうど鳳輦が安置されている北です。表門は朱色に塗られていましたが、これは石清水八幡宮の修復に当たっていた彩色師職人が橘坊に仮住まいしていた時の仕業であって、世間の人は、この門を「赤門」と呼んだといいます。この門は、これより前の寛政4年(1792)に倒壊していて、後に仮の形計の門が建てられました。その門も、弘化年間(1844-1847)までに橘坊が倒壊し、嘉永元年(1848)には坊跡は竹藪となっていました。壇亮清か、あるいはその子の豐清が入寺職を兼ねていたことが橘坊の系譜に見られます。亮清は12歳になった至徳2年(1384)に出家したことが日記に見られます。また、『年中用抄』には、康正年間(1455-1457)に橘坊刑部律師の名が見えます。『古記』には西橘坊増延という名が見え、この西橘坊と橘坊は同じ坊ではないかと考えられています。
 石燈籠は確認されていません。



50 柑子木坊(宿坊) かんしきぼう

【別称】
【役職】御殿司
【所在】中谷
【石燈籠】確認できず


 柑子木坊は、「かんしきぼう」と読むのが正しいのかどうか分かりません。また、その所在は分かっていません。男山考古録は、橘坊の旧名ではないかと言っています。『御殿司補任記』には,柑子木坊重俊法印の名が見えます。
 石燈籠は確認されていません。


椿坊
51 椿坊(宿坊) つばきぼう

【別称】欸冬坊
【役職】衆徒
【所在】中谷
【石燈籠】1基(延宝6年3月)


 椿坊は、中谷の坂路北側にありました。別名を欸冬坊といい、欸冬とは「ふき」のことで、同坊にはふきが一面に植わっていたことからこの名が付いたそうです。毎冬、白い花を付けたふきの中の坊舎が目に浮かびます。椿坊は、小侍従の坊とも言われました。小侍従は、検校だった光清法印の息女で、近衛院皇后多子に仕え、また、高倉院の時の内侍になったもと言われています。彼女の歌が新古今和歌集に残っています。「待よひに更行鐘の聲きけはあらぬ別れの鳥は物かは」と詠まれた歌にちなんで、彼女のことを「待宵小侍従」と呼ばれ、その名はつとに有名になりました。その後、小侍従尼となって、椿坊に住まいしました。『小侍従集』には「まさかへて八幡に籠・・」、『玉葉集』には「小侍従さまかへて八幡の御山に籠りぬ」と聞て、刑部卿頼輔の許より「君はすさは雨夜の月か雲ゐより人にしられて山に入ぬる」と申し贈ると、その返事は「すむかひもなくて雲ゐに有明の月は何とかいるもしられん」そのほかに、『頼輔家集』、『薩摩守平忠度集』にも詠まれた歌が見えます。
 また、小侍従が重い病にかかったと聞いて、西行が見舞いのために訪ねた時、どこからとなく聞こえてきた琴の調べに詠んだ歌が残っています。『玉葉集』から
 「我そまつ入りへきみちに先たてて慕ふへしとは思はさりしを」源三位頼政
 「琴の音に間箕田をそへて流すかな絶なましかはと思ふあはれに」 西行法師
 石燈籠は1基が確認されています。奉献年月は延宝6年(1678)3月です。左のスケッチ画がその石灯籠ですが、竿の部分が六角形となっていて、全体的に気品に満ちた灯籠でした。



52 蔵坊 くらぼう

【別称】倉坊
【役職】
【所在】中谷
【石燈籠】確認できず


 蔵坊は、中谷坂路の北側にあって、椿坊の下隣にありました。倉坊と書く場合もあったこの坊は、宝暦9年(1759)2月9日に橘本坊からの出火によって類焼し、焼亡してしまいました。
 石燈籠は確認されていません。



53 林坊 はやしぼう

【別称】
【役職】御殿司
【所在】中谷
【石燈籠】確認できず


 林坊は、嘉永元年(1848)には絶えて無く、その所在も明らかでありません。『御殿司補任記』には、御殿司一臈快紹の名が見え、文明2年(1470)7月2日に亡くなったという記述があります。
 石燈籠は確認されていません。



54 杉本坊 すぎもとぼう

【別称】新勝院
【役職】御殿司
【所在】中谷
【石燈籠】確認できず


 中谷坂路、蔵坊の東隣にあった杉本坊は、新勝院を相続してこの名を名乗るようになりました。貞治3年(1364)7月に検校になった新善法寺永清法印か二男の空助法眼が御殿司に補任され、「東谷新勝院」と号しました。その後、中谷に移ったと『祠官系譜』に見えます。御殿司の宗眞が杉本坊に住み、元応2年(1320)3月8日に亡くなっています。また、宗延、空助などは応永時代(1394-1428)の人で、皆、新勝院の院主で、杉本坊と号しました。本尊は不動尊立像でした。この杉本坊も宝暦9年(1759)2月9日に橘本坊からの出火によって類焼、焼亡しました。その後、弘化年間(1844-1848)までに西谷西門の傍らにある道の南大塔の西に再興されました。
 石燈籠は確認されていません。



55 眺望坊 ちょうぼうぼう

【別称】
【役職】御殿司
【所在】中谷
【石燈籠】確認できず


 眺望坊がどこにあったのかは不明です。しかし、社記に杉本坊領内にあったことを伝えていますので、杉本坊の近くにあったものと思われます。『御殿司補任記』に宗豪法眼眺望坊住職の名が見えます。彼は兵部卿と号して御殿司の執行に補せられたとあります。正長2年(1429)3月19日に亡くなったと伝えていますから、室町期に存在した坊です。
 石燈籠は確認されていません。


祝坊
56 祝坊(宿坊) いわいぼう

【別称】岩井坊、岩坊
【役職】衆徒
【所在】中谷
【石燈籠】1基(寛文7年8月)


 祝坊は、中谷の坂路南側で、杉本坊の向かいにありました。古くは岩井坊といい、櫻井の近くにあったことからこの名が付いたそうです。その後、読みが同じである「祝」の字をあてたようです。
さて、大坂嶋にある九之助橋の西詰めに住む田中屋は花月庵と号し、近来、煎茶式を創起してその名は世に聞こえる人でしたが、その田中屋が所有する古い一升桝を男山考古録著者の藤原尚次が大坂の浪花で見つけたそうです。その桝には、八幡山祝坊元亀元年(1570)牧一宮と、四方に分かち彫りつけてあったと伝えています。『古記』には祝坊養順の名が見えます。この僧は天正6年(1578)4月29日に亡くなっています。また、岩坊とも書かれ,祝坊と同じという説があります。『年中用抄』の寛正6年(1465)の條に岩坊照尊刑部卿律師の名が見えます。そのほか、『御殿司補任記』には永正10年(1513)12月4日に亡くなった岩坊式部卿圓宗の名が見えます。長禄2年(1458)に記された『(足利義政)将軍家参詣記』に、井關坊と並べて記されています。本尊は不動明王立像でした。祝坊は、宝暦9年(1759)2月9日に橘本坊からの出火によって類焼、焼亡しました。
 石燈籠は1基が確認されています。奉献年月は寛文7年(1667)8月です。左のスケッチ画がその石灯籠ですが、太く小さい灯籠は他に同様のものを見ない変わり種です。


横坊
57 横坊(宿坊) よこぼう

【別称】
【役職】入寺(天文年間に御殿司職)
【所在】中谷
【石燈籠】8基(寛永20年7月/元禄11年8月/元禄11年8月/正徳2年8月/享保6年4月/享保6年4月/嘉永元年9月/萬延元年正月)


 横坊は、古くより中谷にありました。位置は東谷の方に寄っていて、寶塔院の東に下る坂路の南側でした。表門は北面にあり、石清水八幡宮本殿の真横にあったことから、この名が付いたとされています。『将軍家(足利義政)参詣記』に長禄2年(1458)3月27日に櫻井横坊井關坊という記述が見られます。御殿司職に補せられた横坊住職の執行重増法眼は天文10年(1541)12月9日に亡くなったそうです。本堂は表門を入って東の方、本坊までの間にありました。本尊は平等王院愛染明王を安置していました。
 石燈籠は8基が確認されています。奉献年月は古いもので寛永20年(1643)7月です。新しいものは萬延元年(1860)正月です。左のスケッチ画は嘉永元年(1848)9月のものです。この年に男山考古録が完成しました。



58 辻本坊(宿坊) つじもとぼう

【別称】
【役職】衆徒
【所在】中谷
【石燈籠】2基(承応2年4月/貞享4年8月)


 辻本坊は、閼伽井坊の東隣にあって、東谷道へ入る大坂本道との角の西側にありました。嘉永年間(1848-1854)に存在した坊舎は、文化年間(1804-1818)社士だった神原市左衛門秋政の居宅を譲り受けて移設し、再興されました。本堂は座敷西の間に仏壇を構え、本尊の不動明王座像を安置していました。
 石燈籠は2基確認されています。承応2(1653)年4月と貞享4年(1687)8月です。



59 高坊 たかぼう

【別称】
【役職】
【所在】山下
【石燈籠】確認されず


 高坊は、現在では放生川の男山側一帯の地名となっていますが、何度かその所在地を変えています。第8代検校元命の時に初めて新造するとあり、成立は長歴〜長久年間(1037-1044)だと考えられています。初めは神應寺領内の山に建てられ、坊の庭には不動谷の流れを引く風流の趣をもったもので、高坊の名はその在所、有り様に由来するものでした。

 『旧記』によると、高坊は皇居にも準えられ、「障子絵は、紫宸殿の賢聖の障子を写し、荒海が描かれ、庭前の小山、立石は風流の極みで、荘厳であった」そうで、上皇の御幸や天皇の行幸の際の休憩所になりました。このことから『公文所家記』などの古書の中に高坊を「宿院」と記するものが散見されます。

 放生川に大きな弧を描く高橋が架かっていました。今は「安居橋」が反り橋ですが、江戸時代は、反り橋といえば安居橋の上流50メートルほどに架かっていた高橋でした。この高橋と同じ高さに高坊の板敷が作られました。高坊の庭では4月3日、神事が執り行われ、馬長巫女が高橋を渡るのを坊舎から見られたそうです。天喜2年(1054)に至って「橋が高いのは(天皇に対して)恐れ多い」として、高橋の橋脚が3尺切り下げられたといいます。

 康平5年(1062)の別当清秀の時に、中門と長い廊下が増築されました。続いて建保6年(1218)10月22日には、高坊に随身所が増築されましたが、永仁6年(1298)の冬に焼失。その3年後の正安3年(1301)に再建のための造営が行われたと『末社造営記歴應巻』に記されています。
 「正安三年三月廿四申剋、高坊上棟、惣大工藤六太夫国守 号権守,束帯、馬一疋、衣二領、副大工五人 六郎太夫、各馬一疋、衣一領、列衆十人 各浄衣、衣一領、檜皮葺中 馬一疋、壁工中 馬一疋、鍛冶中 馬一疋」

 このように『末社造営記應巻』には、再建は高坊が焼失して3年後の「正安3年(1301)」と伝えていますが、『宮寺旧記』などには皆、「正和3年(1314)」だと伝えています。このことについて男山考古録の著者、藤原尚次は「『部類抄』に、延慶2年(1309)5月17日に八幡御幸があり、高坊で休憩されたと書かれている。よって、このときには高坊は造立していなければならない。しかし、正和3年は、延慶2年の5年後であり、八幡御幸時には高坊は造立されていないことになるので、延慶2年から8年前の正安3年の造立が正しい。また、旧記には建武年中(1334-1338)に炎上し、壇妙清が再興とあるが、御本宮炎上と間違っているのではないか。建武年間に炎上していないという証は、暦應元年(1339)10月の『源直義参詣記』に高坊の唐門がでてくるからだ」と、考察しています。  その13年後の観応3年(1352)4月25日、宿院合戦のときに神宮寺が炎上、高坊も類焼したものと思われます。

 延宝2年(1674)に至って、田中要清法印は、放生会再興に当たって下院(頓宮)の乾の方角(神應寺門前道の北側)に仮坊を造立しました。しかし、放生会を催すには狭いことから、さらに西の方角に15畳敷と10畳敷の仮屋を建てました。その後、毎年、放生会と臨時祭には仮屋が建てられたといいます。宝暦年間(1751-1764)には津田主水が高坊を造立、文化年間(1804-1818)に寺村主税雅知の居宅となりました。この地は地盤が低く、出水の時は床上浸水を繰り返し、執奏廣橋家でもこれを憂いて毎回土を盛るよう沙汰が出されました。そして、天保14年(1841)6月に前検校の田中由清僧正から執奏家に願い出て、これが聞き入れられて現在の所に移ったといいます。その後、東竹興清法眼がここに移り住み、高坊仮屋を柴座町東竹古家に移して再興し、再び水害に遭うことはなくなったそうです。
 石燈籠は確認されていません。


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