洞ケ峠 ■筒井順慶
(つつい じゅんけい)

「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」といえば、日和見の代名詞となっていますが、その舞台となったのが国道1号が追加する八幡市の西部丘陵「洞ヶ峠」での逸話で、その人物が筒井順慶(1549〜1584)です。
 順慶は、大和守護代筒井順昭を父に、摂家九条氏養女を母にして生まれますが、3歳の時に父の順昭を失います。このとき、順昭と声がよく似た「木阿弥」という琵琶弾き僧を、順昭にしたてて死亡を隠したところから「元の木阿弥」との語が生まれたともいわれています。
順慶は、天文19年に家督を相続。興福寺の衆徒の棟梁としてその勢威は大和一円に及びましたが、松永久秀の台頭により一時苦境に立たされました。その後、織田信長に臣従し、久秀失脚後、大和1国を与えられて郡山城に住みました。信長の重臣明智光秀に仕えて各地を転戦するのですが、やがて光秀は信長を討ち、羽柴秀吉と争うことになます。光秀は、山崎の合戦で恩顧をかけていた順慶に協力を求めますが、順慶はこれを断り、光秀は合戦に敗れてしまいます。このとき、順慶は山城、摂津、河内の国を見おろす洞ヶ峠に駐屯して戦局を傍観、秀吉勝利と見るや直ちに峠を下り、秀吉に味方したことから、日和見の代名詞「洞ヶ峠を決め込む」の語を生みました。しかし、実際には、順慶は洞ヶ峠には出陣していないというのが真相のようです。その後、秀吉の配下となりますが、1584年8月11日、36歳という若さで肺結核で亡くなりました。その順慶は、茶の湯、謡曲などに優れた教養高い武将であったといいます。  


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