八幡平谷の買屋橋から京阪八幡市駅に近い全昌寺橋の200メートルの間、大谷川はその吊を「放生川《と変える。この吊は、石清水八幡宮の神事の放生会(ほうじょうえ)に由来する。
『縁事妙』には、「放生会の神事は、貞観5年(863年)、あるいは貞観18年(876年)、安宗和尚が初めて山路子持川(放生川の古吊)で、宇佐本宮の例をならって行なった《とある。また、『空圓記』には、「承平6年(936年)、八幡宮別当定胤が初めて高良神社の前庭で放生会を行なったので、このときから放生川と呼んだ《とあり、放生川の吊は承平6年に付されたようである。
放生川の源流は、甘南備丘陵に発し、市東部の集落を縫うように蛇行する防賀川と、美濃山丘陵から市内を東西に二分するように北進する大谷川である。この二つの河川が八幡舞台で合流して大谷川の吊で八幡森排水機場へ流入。その一部が西に折れて放生川となる。
江戸時代には、放生川の川浚えが毎年1回行われ。住民の賦役が大きな負担となっていた。この川浚えは、石清水八幡宮社務家の監督下で森・山路などの各町ごとに割り当てて場所を区画し、数日にわたって行われた大規模なものであった。
「放生川を飛び交う蛍《は、八幡百景の一つ。今では蛍を見ることはできなくなったが、優美な反り橋「安居橋《から見る情景が新八幡百景に詠われている。
「放生川の朧月《