ヒューマンサービス論(その社会理論の批判的吟味)加茂陽「世界思想社」1998.1.10

コメント(あるいは、思考の断片、メモ)
『ソーシャルワークの社会学』の続編というか、物語モデルへの傾斜が顕著なものとなっている。
やはり、キーワードは、ベイトソン、フーコー、システム論である。ピックアップをしてまとめていきたいが、その前に、社会構成主義における認識枠とは何かというところをはっきりさせていきたい。
主に、フーコーの周辺的言説の浮上による支配的言説への対抗という図式、筆者は、ノイズと表現しているが、援助者がクライエントに介入する際はストーリー(言説)へのずらしでもって、世界の多様性に目を向けるように援助を行うというスタンスである。
そのためのレトリックとして、フーコーの世界への認識、ベイトソンのコードなどを用いて、構成主義としてのモデルを作り上げている。


目次

議論の概略
社会構成主義的ソーシャルワークモデルの登場
新たなソーシャルワークモデルが内包する基本的難点とこれからの方向性
エコシステムズ理論と援助モデルの体系化
家族中心のソーシャルワークモデル
「物語モデル」
ソーシャルアクション論
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議論の概略
心理還元主義からシステムズ理論へ
エリクソニアンの実践者の介入の指針
心理還元主義的なロジャース流の非指示的カウンセリングや対象関係論などの精神内界を重視する理論に比して対人的側面が強くでるエリクソニアンの介入方法においてさえも、介入の焦点は、一定の段階をたどって発達するパーソナリティであることが前提となる。
発達段階において予定されているライフサイクルやその過程で形成される自我という概念が揺るぎだし、それゆえ健康や病理の実在も曖昧になる。
1950から1960年代において、GSTやシステムズ理論が表出する。
様々な理論の統合という形で「家族中心のソーシャルワークモデル」として体系化される
80年代から90年代において、論理的、経験主義的科学が成立するための基本的前提である、普遍的に妥当とする法則の実在やそれを客観的に認識できる超越的主観の存在に疑義を唱える。
ポストモダニズムの思想家たちの発想、その典型としてフーコーの科学的な知識と権力の関連性の分析に影響を受け、また自らの臨床活動を通して、家族療法には、非治療的、非権威主義的、ポストモダニズムのモデルが増殖していく。

経験主義的なソーシャルワークモデルへの批判
ターナーの言葉
「理論のもっとも本質的かつ重要な貢献は、結果を予測する能力、言い換えるとその説明力にある。状況の評定に基づき、意図的に処遇計画を作り出す治療者は、理論形成や理論の検証活動に組み入れられるのである。

ハドソンの定義
クライエントの問題を測定できなければ、それは存在しない。
もしクライエントの問題を測定できなければ、それを処遇することができない。

具体的な援助モデルでないものは、その意味をなさない。
プラトン的な意味での超越的心理概念の存在はむろん否定されるが、データの体系的な観察法を否定すること、つまり経験主義を否定することは、魔術の応用のソーシャルワークに成り下がることであると。
その後、文脈を排除した直接観察によって得られた世界解釈法には、正当性のお墨付きは与えられず、文化的、歴史的に意味づけられた条件下での相互作用の過程を通じて解釈法は形成され、また社会的解釈の体系はある解釈のパターンを抑制し、他のパターンを強化することで、人々の社会生活の意味づけ方にとって実質的な重要性を持つに至るとして、つまり一連の社会構成主義基本的前提に上記の批判が形成される。
妥協点として、「理論の体系化には実際多くの方法があり、また理論家も多様である。いかなる単独の理論の体系もこのように広大で、多様な領域を説明し尽くすことはできない。



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社会構成主義的ソーシャルワークモデルの登場
トムは、ベイトソンの循環的認識論を元にして、つまり、精神過程を情報処理のサイバニティックなフィールドメカニズムとして捉える発想に従い、システム的な家族療法の中にサーキュラーな面接法を体系化する。
思考、感情、行為、人間関係などの相互的結合性を説明しようとするものであった。また、ベイトソンの精神システムは際によって活性化されるという認識論に依拠し、循環的質問に対して、総合作用の過程に新たな情報=際を投入し、変化の引き金を引く機能を持たせる。
この質問法は行動や認識の文脈に焦点を合わせ、際を発生させようとも企てる。この側面は情報環流システム内で流通するメッセージの解釈やその伝達方法の重層的文脈構造を定型化したクロネンとピアスのCMM理論に裏付けられたものである。
家族の成因とともに次のステップへ進むことを意図した質問法である。ここでは、認識主体から原理的に区分される客観的世界の不在とその認識の不可能性が前提にされている。

質問法の批判
権力構造(言説、権力=フーコー)を消失させてしまう循環的因果論は、現実の構成力に対する視点が曖昧である。
認識や行為選択の文脈概念の狭さ。その文脈にはマクロな自他の存在様式を規定する言説が含まれていない。
支配的な言説(ストーリー、文脈)からの脱却をはかるには、異質な文脈の導入を図る必要があるが、環流であるためにその意図が失われる。
「ストーリーやテキストのうちには、顕在化されていない先験的意味の体系は存在しない。この視点に立つ治療者は、会話の中で、新しい希望的なかつより有効なナレイティブが浮上することを期待し、かつこのナレイティブが計画的なものであるよりも自発的であるよう配慮する。治療者ではなく、会話が自らの編者である。」
家族内でのサイバネテックな相互作用の文脈ではなく、支配的な言説の家族内への浸透という、より広範な社会的文脈において考察する。



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新たなソーシャルワークモデルが内包する基本的難点とこれからの方向性
権力支配的言説を社会的生活の中に巧妙に真理として浸透させ、人々のアイデンティティを操作するメカニズムを解明し、人々を多様な現実づくりへと解き放とうするポストモダニズムの思想に強く影響され、一応の体系化を実現したソーシャルワークモデルでさえも、実践を通じて、言説と何らかの形で対応する実在を言い出さざるを得ないことは、科学的法則や倫理の存在についていわば存在論的議論と、言説による現実の構成に着目する認識論的議論との関係性の整理が思ったよりも難問であり、超越的主体や法則の実在根拠を脱構築的に解体したはずの「物語モデル」を提案することでは、依然として決着はついていないことを示したといえよう。
相対主義的に陥りやすい「物語モデル」であるが、援助者のクライエントへの貢献とは何か。援助者はクライエントのメッセージを完全に理解することはできないが、相手の立場に立とうとする能力は有していると、援助者の能力を指向性の能力として位置づけてみよう。援助者がクライエント言説やストーリーに共感する力を持ち、さらに彼らが自らのストーリーや言説をクライエントに説明し、理解してもらう力を有しているとすると、相互のコミュニケーションの場からは、新しい自他の関係性を説明する言説が生まれるかもしれない。すなわちこのような新たな言説づくりに一役買うのが援助者の役割であろう。



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エコシステムズ理論と援助モデルの体系化
はじめに
「エコ・システムズパースペクティブ」と「家族中心のソーシャルワーク」という、システムず理論とエコロジカルなメタファーに基づいてそれぞれが特徴的な体系化を構築しようとした2つのシステム的なモデル議論の対象に取り出してみた。
折衷主義者たち
マイヤー:「エコ・システムズパースペクティブ」
システム相互の調和を強調するエコロジカルな思想と、認識対象の原子論的説明手法の欠陥をつき、システム相互の関連性から分析を提唱するGSTとを結びつけ整理した上で、メタレベルにおいて介入対象を全体的に把握する仕組みを作り出そうと提案することから始まる。

GSTの概略
物資レベル、そして生命体のレベル、さらしに社会システムのレベルまで及ぼす現象に対して説明を加えようと言う論理体系
ソーシャルワークの介入対象のシステムは、機能的には外的環境とエネルギーや情報のやりとりを続け、自己変容的に均衡点を作り出していく「開放系」として捉えられる。
環境との関連に関して開放システムは以下の特徴を持つと述べる。
システムの内的状況
システムの運動の方向

マイヤーはそうした、説明概念を持ちだしているが、概念の定義が曖昧であり、多様な援用がなされることを承認する。
ここでは、ある力動的メカニズムを有する生活場面の実在とその均衡とが方法論成立のための前提となっている。
前提となる生活場面は、個人主義を重視する北米の家族とその背景からなるシステムであるか。
抽象的形式性を持ってシステムの同一性を確認する作業より視点を移し、このような生活形式の多義性に着目すると、果たしていかなる内容や水準を持って調和を評定するべきか疑問として提示されることなる。
よって、マイヤーたちのエコシステムパースペクティブの理論背景は、様々な質的際がみられる生活部面群に関して、調和を定義することに成功をしているとは言い難く、他方、システムの力動性を均衡に主眼を起き説明する問題をも有している。
とりわけ、人の生活様式に関わる仕事にとっては、そこでの問題が、社会規範の遂行や離反に関わることが多く、この規範はもちろんある時代に特定の社会において形成されたものであるため、異常や正常を決定する普遍的な基準を定義することは困難である。
むしろ、システムの力動性や結合性の特性は時間の経過に従い、固有な形で生成を続ける。それにも関わらず、規範より逸脱をGSTという抽象的水準が高い理論から説明を加えたならば、システム理論上での均衡や逸脱と、具体的規範への適応やそれよりの逸脱との説明上での混乱が生じる。
それ故、援助は不適応の説明が容易ではない制約下で遂行がなされなければならないという宿命を持つ。
認識枠の多様性を提唱する方法論は、それらの各々と対応する現実という手がかりを失ったならば、相対主義の泥沼にはまってしまう。このように、彼女らの方法論においては、認識論は目新しいが、存在論が伝統的な実在を前提にするところに弱点があったといえる。



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家族中心のソーシャルワークモデル
エコマップ:家族システムを中心において、その背景に親族システムや職場などの家族の存続に関わるシステム群を置いて、その結合の様相を分析する。
家族と家族外部のシステムとの結合の特性やその力動性を家族システム評定と同じ手法で描き、エコロジカルな発想を理論化のレベルまで高めようとした点は評価できる
抽象度の高いシステム論を具体的な場面での投入のかみ合わせはうまくいくのか?
説明概念としては、その形態を記すことができるが、動的な高次な認識と世界変容のプロセスを書くことはできない。動的均衡としてのマップ
多義的なシステムの定義が求められる場合、具体的援助活動において援助者は個々の事例ごとに均衡の水準や変化の方向性を模索しなければならない。

システム的援助アプローチへの批判的吟味
心理還元主義により直線的因果論に変わり、循環論的因果論に依拠して援助手法を提示したことは評価できる
現実は多彩な認識枠で顕在化できるという認識論、つまり「地図と領土とは異なる」(ベイトソン)に近く、あるいはずっと過激に、「地図は領土である」と宣言しているといえよう。
レンズを取り替えるならば、異質な現実が生起し、それゆえ現実と対応する包括的な論は存在しない。
評定や介入の理論体系の基礎である実在するシステムやその病理という発想の曖昧さや観念性をつかれると、一連の理論構成上の諸問題をここに解決する試みは困難になる。
家族介入の新たな方法論:説得から誘惑モデルそして物語モデルへ

精神の概念について
内在的な精神からエコロジカルな精神へ
精神の主体は内在する
発語行為の中で生じる空気の振動は精神に含まれるか否か。仮に含まれるとすれば、その行為送り手と受け手の相互作用の中で切断し取り出さないといけない。
しかし、原理的には不可能である。
全体的な(エコロジカルな)システムの一部を切り取るならば、あるサブシステムが顕在化するが、これが実在的なシステムとして誤解され、主体内の精神という言説が成立する。
しかし、全体的なシステムを把握しないことには、サブシステムへの介入は断片化してしまう。

実在を反映する精神システムより現実を構築する精神システムへ
外的な事物の確固とした実在を私たちは認めることができるであろうか。つまり、精神の基本的な機能として、そのような実在を客観的に認識できる理性的能力を想定るする事が可能であろうか。
認識対象の実在と主体の理性的認識力という概念が結びつけられるとそこでは、近代科学の枠組みを作る基本的な前提、つまり実在する法則と理性的認識主体ができあがる。
実在的世界の存在については積極的に否定することなく、そこで採用する認識枠次第で相対的な世界像が構成され、私たちが認識する世界はこのように構成された世界であると想定することができるであろう。

精神システムは主体間で展開するコミュニケーションシステムである。同時にそれは行為者が相互作用において認識と行為選択の枠組みを生成的に変容させ、現実を生成させていく、自己並びに関係性の生成的システムである。よって、援助者は超越的な認識枠にとどまることはできない。
介入者の精神の領域及び作用について
環流システムによるフィードバック、メカニズムの変容、生成そうした中にあって、援助者が家族のシステムに介入するとき、評定の対象であるデータの認識枠自体は、ある特有の時代的、空間的条件の中で生じた限定的なものであるという認識枠の制約性があり、さらに、評定の際に用いられる具体的評定、介入枠は、この抽象的レベルに影響されつつも、治療者と家族システムとの関係性の中で形成され、そこでは、評定、介入するために枠組みを用いてその枠組みが生成した体型を評定するという、認識レベルが混同される構造が存在するからである。
介入者は、家族システムのノイズとして、システムを覆っているドミナントな構造をずらす役割がある。それは、循環、環流システムの中で新たな要素として機能する。

意味の生成について
現実が構成される場である間主体でのコミュニケーション過程を分析する基本的な枠組みである。
クロネンの情報環流過程
認識は、常に時間の不安定な中で環流するため、メッセージは翻弄され、認識枠は調和的に構造的にはならない。認識枠の多義性と非理性的なメカニズムに支配されている。
問題ないしは症状定義について
集合的現実生成過程しての症状化
「問題とは、誰かが何かをしようとしていると、その何かやその人に対して向けられる、心配したり、驚いたりする異議申し立てのことである。」
変化を作り出す手法
視点:追求されるのはシステムの常同的なパターンの模索であり、常同的パターンを揺らし、異質な方向性へずらす技法である。

ホフマンの「差異についての質問」

誘惑者としての介入者像
「説得」発信者と受信者が同一のコード、すなわち論理化された規則をあらかじめ共有しておりその条件かで発信者がコード化されたメッセージの確認を受信者に要求する行為のことである。
「誘惑」受信者の保持する規則からは翻訳不可能なメッセージを伝達し、受信者を発信者のとっても未知の方向へと誘惑しようとする行為
他社との摩擦的なメッセージのやりとりを通じて、自己と他者との現実構成の変化が生じる過程を彼らは「他自差異化」と名付ける。



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「物語モデル」
支配的ストーリーに対抗して、「オルタナティブストーリー」をクライエントとともに構築する方法論を展開する。
支配から周辺言説へのスポットを当てることで、柔軟な対応をすること。
フーコーにとって、権力は日常生活の関係性の中で作用し、自明性を示す様々な言説を産出する。禁止的ではなく、生産的なものである。つまり、抵抗するというものではない。
ベイトソンのサイバネティックスによる権力は、コミュニケーションの場においては、言説の権力は形式論理を根拠にするものではない。相互の政治的戦略の実践の中で、ある言説が支配的言説の位置を獲得する過程が権力生成の過程であり、権力とは根拠に基づく静態的なものではなく動態的なものである。
物語理論の特質については他のテキストを参照
周辺的な「物語」を復活させる基準を提示できず、相対主義の泥沼に陥るであろう「物語モデル」が内包する臨床理論の矛盾がある。

論点
パラダイム論者がいうようにいくつかのストーリー生成の非連続性を認めるならば、混沌とした状況は放置されたままであるが、諸ストーリーの内容を理性的に一致させる作業が不可能であったとしても、相手の主張の文脈やその内容に、受け手が自らのポジションを置き換え理解しようとする、つまり志向性をもつ能力までをも否定することはできないであろう。



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ポスト・ポストモダンのソーシャルワーク実践:ソーシャルアクション論
福祉についての言説
福祉概念の考察
権威を持つものが、福祉を今日より古典的意味を持つ「福祉」として定義したとしてみよう
それが妙名の力を持たない人々にいったん内在化されるならば、「福祉」とは本来的には健康で文化的な生活からの偶然のずれであり、それゆえ、回復可能な一時的な生活の悪化からの改善策であると定義する言説が力を持つ
そして、その水準で、自律の回復を前提としてのみ、人は他者、あるいは公的制度の支援をあてにすることができるという伝統的な救貧的な意味合いでの福祉の概念が自明性を持つ。彼らはその援助の対象者として、ある場合はスティグマを受容して社会的同一性を形成することになろう。
社会性捨て無は市場原理に任せるのが基本であり、そのシステムの不均衡はある種の介入で機能が回復するという市場原理優先理論である

周辺的言説の顕在化について
経済における、理性的な効率や合理性はゲーム理論などにおけるジレンマを含んでいて、社会的にはイデオロギーとしての幻想である部分が多い。
個人の合理が社会や市場の合理とは直接的には結びつかず、ある場合では、個人の合理は社会の非合理、逆に個人の非合理は社会の合理となることがある。
システムが回復さえすれば、その理性的主体たちからは構成される社会システム全体が均衡に至ると考えたれる要素の加算主義的発想も捨てないといけない。
人々の正常、異常や幸福、不幸の基準である社会的同一性は、それが自明なものという保障を与える特定の言説体系によって支えられている。仮に、その根拠が抑圧機能を有し、顕在化している現象と矛盾するものであることが明らかになれば、個々人がこの言説に対抗的な言説を浮かび上がらせることが福祉の最大化の最初の試みであるといえよう。
家族構造レベルや個人レベルにおける正常性を示す言説に対抗的な言説に対しては、社会内で検問装置が作動する。
ある社会規範は、歴史的、空間的制約下で生起したものであり、それを根拠に正常、異常を決定する判断こそが非合理的であるともいえよう。
科学の体裁をとったものから、ある場合では陳腐なマスコミからのメッセージの幅からなる一連の支配的な言説が、彼らの社会的に正常な同一性を作り上げるからである。
病理、逸脱、資本主義、合理的精神、家父長制、儒教的な
コミュニケーションにおいて、受容し、折り合いをつけて、緩やかな共有的な世界を構成させようとする。
他者に自らの認識体系を提示しつつ、認識体系の変容過程の中より、自分の要求は理にかなっているもので、自らはそれを実現させる主体として認められるべきだと、自らの存在や認識の根拠を裏付けるストーリーを「自己決定的」に作り上げる過程である。これは、流行の言葉で表現するならば「エンパワーメント」の過程である。

援助理論としての対抗的言説
世界の認識方法は対人的コミュニケーションにおいて生成し、その限りにおいて一定の共有基準を持つという社会構成主義的原則に立脚するならば、、私たち福祉に関わるものは、もはやクライエントの上位に立脚した上で、正常な社会的同一性は放棄しなければならない。


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