仮題:発達段階による知的障害の把握について
問題の所在
一般に我々は、知的障害、自閉症、学習障害など障害を学ぶ際、どのような特徴があり、どう接するのがよいのかなどを中心に学習する。自閉症はこだわりが強いとか、パニックになるのは環境のせいであるから、その障害に合わせたコミュニケーションを心がけましょう。その方法は…といったことである。しかし、施設職員はただ単に障害を理解するだけではなく、その対象(障害者)の生活過程にどのような働きかけをするかといった具体的な手だてが求められる。しかし、往々にして、我々は障害の特徴を学ぶだけで終わっていることが多い。その先は、よくても個別・問題別の生活支援のマニュアル的ノウハウだったりする。「ケース1:どうしてもおねしょをしてしまう子供への対応」などである。
我々施設職員は、IQテストや生育歴を参照し、日々の限定された業務範囲から利用者を観察し、個別に支援計画を立て実施している。本来、その個人の能力を総合的に評価すべきであるが、日常生活、職員が個人の利用者に働きかける場合、ある特定の著しい能力の遅れをともすれば、「個人の問題」であるかのように捉えるきらいがある。
例えば、20歳になってもトイレサインがなくいつも便失禁をする利用者がいたとする。本来的には、排泄に関して、トイレサインを発することが出来ない知的能力に止まっているのが「現在」の彼の状態であると考えるのが妥当である。しかし、実際に職員が働きかける場合、便失禁をする彼は問題である。そして、便失禁だけにスポットが当たり、そもそもの彼の(排泄の)能力レベルに対する把握がなされない。
しかし、便失禁をしてしまう彼であっても、スプーンを使ってご飯は食べれるし、自分から話すことは出来ないが、職員が話しかけるいくつかの言葉は理解できる。これは、いくらIQが低くても出生から今まで発達した側面があると考えることが出来る。しかし、出来ることは、当たり前のことのように捉えてあまり気にとめない。むしろ、出来ることと出来ないことが混在し、その利用者の特徴(個性)として捉えられる。つまり、「便失禁はするけれど、この程度の言葉掛けなら理解する人だから、その利用者にはこう接すれば良いよ」などである。しかし、これでは、障害や能力の程度は多様であり、利用者の数だけ特徴があるといった思考停止に陥る。そして、その都度、多様な障害レベルや個性の数だけ、個別的な支援計画を立てるという場当たり的なものになる。
知的障害や自閉症など様々な障害の特徴を学習することは、知るという行為を通じて、偏見や差別の是正がなされるという意味では有効である。しかし、生活過程に関わるとは、生活において必要とされることの正確な把握と具体的な見通しがなければならない。一貫した視点がないことには場当たり的なものになる。
発達段階に即して知的障害を理解するという視点は、誰しも発達した段階があることを前提にしている。一般に人は、出生、乳児、幼児、0歳、0歳6ヶ月、1歳…とADLなどの身体的なことや認識、学習能力など知的なことまで各ステージで段階を踏み、能力を獲得しながら成長する。
知的障害とは、普通、この年齢(ステージ)であれば、出来る能力が獲得できずに止まっていることを意味する。
トイレサインがなく便失禁する利用者の先の例で考えれば、