社会構成主義について

コメント
社会構成主義と呼ばれる理論のさわりを2冊書き出しました。アウトラインで書き出したので、キーワードの羅列ばかりで、かなり読みにくいとは思うのですが、私がまとめるよりも、引用のまま載せることで、興味が沸くものと思われます。今後も、社会構成主義関係の書籍をこのような形で載せていきたいと思っています。ので、関連したものとして、リンクさせていくと思考もまとまるものと思います。



目次
ソーシャルワーク統合
ナラティブセラピーの世界
1.社会構成主義という視点
2.病いの体験を聴く
3.実証から実践へ
4.精神分析と物語
5.リストーリングとリフレイミング
6.セラピーにおけるアカウンタビリティ
7.無知のアプローチとは何か


社会福祉21世紀のパラダイム2
(誠信書房:99.5.31)
第9章ソーシャルワーク統合の展開

(戸塚法子pp.185-200)

pp.187
自らの生活体験のエキスパートはクライエント自身であると言う捉え方への転換(個人の生活事実で綴られた物語の重要性)
個人の物語りは、個人の社会化の家庭や教育、生活の連続性から派生している。
物語のなかには、個人と環境の交互作用から生ずる複雑性、そこでの不適応から発生する生活上の諸問題が存在している。
物語はそうした中で彼によって織り成される理想と現実の狭間から生み出された一つの打開策であろう。
個人の物語の中には彼にしか分からない目的や意図(物語の構想)が潜み、独特の視界が広がっている。その意味で、物語はまさに個人のユニークな生活事実そのものである。

pp.191
社会構成主義的観点(socialconstructionism)による枠組み

ウィトキンは、社会構成主義の理論仮説を次の4点に整理している。

歴史や文化的文脈、そしてそれらを背景に持った言語に潜む様々な要素に敏感になることによって、個人と環境とのつながりをより多面的に捉えることが出来て行く。援助的介入過程において、協同、思慮深さ、多様性と言った事柄が実践上での重要なキーワードになって行く。


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ナラティブ・セラピーの世界
(日本評論社:1999.3)[493.7:コナ]

序章
p.6:ストーリーによって人々は行為し、さらに、その行為によって、そのストーリーの正当性は再度確認されるという円環性が、人々の持つ物語形式であると主張する以上、ストーリーの書き替えが治療の内実になるのである。


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社会構成主義という視点
p.19:我々の主観的世界には常に客観的世界が侵入しており、それなしには主観的世界は成り立たない。一報、客観的世界は我々の主体的世界に通されて支えられ、それなしには成り立ち得ない。両者は常に相互に参照しあい浸透しあう関係にある。これが、時間的前後関係ではなく弁償的過程という意味である。

p.21
我々は会話を通じて現実を維持している。ある経験を語る言葉が相手に理解され、相手の語る言葉が自分にとって理解可能であるという事実が世界の有り様に関して理解を共有しているしていることを裏書きする。そして、世界は私が理解しているように存在していると信じることができるようになる。たとえ意見がが対立したとしても、意見が対立しているとお互いに認識できること事態が、世界についての理解を共有していることを示してしまう。会話は「暗黙のうちに自明視された世界の後ろだてとして存在する」

p.23
自己を語る言説は、会話を通して、外在化され、客体化され、そして、内在化されて行く。この循環の中で自己は一つの現実となる。会話における他者の存在が自己という現実を支える。人は自らのアイデンティティを確認する際に「彼にとって意味のある他者が彼に与えてくれる明白で情緒的性格を帯びた確認を必要とする。

p.26
心理学は自己と世界の関係を「心理的現実」へと変ぼうさせる。「心理学は一つの現実を想像し、この現実はまた心理学の正しさを立証するための基礎となる」。外在化された客体化された心理学は人々に内在化されることによって、現実を「心理学化」する。

p.27
結局そこで果たされているのはあくまでも一つの意味の秩序の創造、一つの現実の創造であって、それがより確かな現実であるという保証はないということになる。

p.28
不断の会話は、一方が他方を導く会話ではなく、あくまでも対等な参加者による会話であり、会話がどこへ向かうのかあらかじめ決めずに、「未だ語れなかった物語」との出合いを求めて進んで行く。

p.29
行き先を定めないということは、より重要な本質的な原因を特定しないということを意味する。「個人」「関係」、「社会」のいずれかのレベルを他のレベルより重要なものとして重要なものとは考えないということである。


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第2章病いの体験を聴く
p.36
疾患とは医療専門職がその医学モデルにしたがって病気をいわば外側から再構成するものであるとすれば

普遍的でeticな視点
病いとは、患者や家族の当事者にとっていわば内側から経験されたもの

ローカルでemicな視点
多様な塊上の語りを経て病いの独自な主観的経験に迫る人間科学的な方法論

p.39
病いは物語的構造を持ち、閉じられた一つのテクストではなく、複数のストーリーの集積から構成されたものである

p.41
独特なできごとのうつろいやすいささやかな細部へ焦点をあわせることによって、通常の文脈から外れる偶発的な語りに視点が向かい、それが聞き取る側の自己省察的視点へと環流し、相互場面での言語を介して複雑な共同性、多層性を明らかにするものである。

p.45
ジャネ後期の理論をここでは「物語=行動」理論と呼ぼうと思うが、そこでは言語使用を重視し、身体と社会と時間の交差する点に構成される岩場「語る主体」としての階層的な人格が中心に据えられている。

p.45
記憶が、知覚されるままになされるのではなく、個人の感情状態に即して扱いやすい物語として、いわば加工されて記憶されるという「現実化」

p.45-46
その場その場の語りに「現在」という時間概念を結び付け、斉合的な物語としての記憶をつくり出す「現在化」

p.46
「ファビュラシオン」は、その語りと現在と行為とを完全に切り離す機能を持つと考えたのである。
存在と出来ごとを対比し、存在とは人が信じるものであるが、出来ごとは人が語るものであり、出来ごとは語られるが存在するものではない。

出来ごとをつくり出す機能をファビュラシオンとしたのである。

p.50
ベンヤミンが指摘するように、精神的に寛いだ状態こそが、語りを通して経験という卵を返す夢の鳥ならば、語りとそれを聞き取る瞬間は、そうしたかたり-聞き取ることとの持つ時間と身体へと我々を環帰させる言葉の魔力を巡る奇跡的な瞬間と言えそうである。

p50-51
ナラティブセラピーに求めるのは、いかなる場合でも驚かず、動揺せずに対処する技術ではなく、その個別性の新鮮さに驚き、絶えず目を見張り、耳をそばだてる技術なのかもしれない。
それは、一人の人の声が他の人に話し掛ける時に何かとても特別なことがおこる対話場面における、存在の一回性の出来事を示すものなのであろう。


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第3章実証から実践へ
ガーゲンの社会構成主義『もう一つの社会心理学』p.56-57
実験、観察、調査といった研究的営みは、理論を実証するためのものではない。それらの営みは、抽象的な言説形式を取る理論に、「表現力を与える」ためのものである。
論理実証主義の内在的批判(論理実証主義とは)
p.57-58
観察可能な減少の間の関する普遍的法則や原理を構築すること
原理は、経験的事実と一致すべきである。
命題から演繹しつづけることによって、科学は進歩可能である。つまり、科学的知識は累積して行く。

p.58
(社会心理学の)研究対象に即していえば、そもそも、生物としてのひとの行為が、きわめて可塑性に富むという事情に加えて、人間のシンボル再構成性能力が研究対象を取る行為の同定を研究者にとって困難にするという事情がある。


理論の価値は、日常行為や社会的制度が依拠する自明の諸前提を相対化し、新たなる日常行為や社会的制度を「生成」する。
その新しい潮流は、解釈学、弁証法、批判理論、エソジェニックスなどの潮流が融合する中に育ちつつある
解釈学は「解釈すること」自体の本質を解明しようとする。その問題意識は、行為の解釈、すなわち行為の同定という社会心理学的問題意識に通底する。

心理学の歴史
経験論:行動主義心理学
事実の外在的実存を前提にし、私達の経験は外在的な環境刺激に規定されると考える。
変数によって、行動と世界を結び、刺激と反応を計測しようとする。
実験における変数は客観的に操作しうるという前提への疑問。
メタ理論として、外在的世界の諸現象は、因果の連鎖で結ばれた秩序ある構造を有している。

合理論:認知心理学
人間の内部に宿る理性のはたらきによって規定される。(認知機能)
内界にこそ事実性があるとする。


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第4章精神分析と物語
土居:患者は時間的前後関係おかまいなしに話をすることが多いが、面接者は聴いたことを時間の中に配列し直して、ストーリーとして聴かねばならない。

スペンス:語り手にとってそのままでは扱いにくい出来事については意味を共同で再構成することがセラピーの場である。

素材の意味はだれがそれを聴いているかによって多く左右される。
未だ語れないものがたちを解きほぐしながら、マスターストーリーと連結していく

聞き手との関係性を軸にして、反復と実演を重ね、物語を変えざるを得ない地点に直面してようやく、過去の出来事の意味が再構成され、未来へ動きだせる。そこで自己の連続性の感覚を回復することができる。そのような意味の行為が物語の接近法の背景にある。

それでは「物語」とは…
経験を秩序だてる
人は時々人生の諸段階での経験、特に葛藤を含む経験を特定の時空の中に翻訳し形象かしていくことで、その意味を確かめる必要のある存在だ。
物語は、矛盾し飛躍の多い出来事も、組み合わせと筋立ての中で統合していく力がある。
経験と出来事の意味を探究するのに、物語のパラダイムは有効である。過去の孤立した出来事は新しく叙述されることによって、意味深い物語として語り手の生の中に組み込まれていく。
経験をひとまとまりのものとして掴むと、問題をいったん外において眺めることができる。しかも必要な時には反復して把握できる。このように物語は治療的外在化の契機になる。
物語としての力はそれが事実であるかどうかという問題と独立して存在する。
歴史的真実が確定できるのは「臨床素材が観察者とは独立に存在し、観察者にとって説得力があり、明白なことはいつでも、外部で判断する人と同じように見えるという過程に依拠している」
出来事は人の生を説明する時にこそ真となるとのべる。「起こったかもしれないことが問題」という場合が心的生活に付きまとう。語られた臨床素材についても、その真偽は過去の事実の精査によって確かめられるものではなく、「未来に依拠する」


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第7章リストーリングとリフレイミング
リフレイミングの定義
MRIブリーフセラピーにおける利用が典型とされてきた
ある具体的な状況に対する概念的および、あるいは感情的な構えや見方を変化させることであり、それは同じ状況下の『事実』の意味を規定する古い枠組みを変えて、それよりも良い、もしくは同等の他の枠組みを与えて全体の意味を変えてしまうこと
リストーリングの定義
社会構成主義とナラティブセラピーとの関係で語られることが多い
それまで認知されがたかった問題解決の具体例である「ユニークな結果」が明らかにされるや否や、人々のユニークな結果を説明させるよう誘い込む質問、それに反映される事柄にそって彼等自身や他者、それに人間関係に関する再描写を誘導する質問、さらには、それに伴うであろういくつかの新しい可能性を推測させるように人々を誘導する質問が行われ、問題のしみ込んだドミナントストーリーをオルタナティブストーリーに交代させる面接過程。
セラピストも含めた参加者の視点の多声性に注意を払いながら、歴史的ストーリーの中の出来事をクライエントとセラピストが共同で取捨選択していく治療過程としてまとめられるだろう。文脈の変化を端から狙うというよりは内容の地道な入れ替えに近い。


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第8章セラピーにおけるアカウンタビリティ
あらゆる産業社会の人間の成長過程で自明視され、そして日常の生活様式と一体化した差別である。その意味ではそれは自明視され日常に浸透した差別ということができる。そして差別が多様で重層的であるがゆえに、だれでも差別者になる可能性をもっているのである。だとしたら、日常化した差別とどうやって戦うことができるのだろうか。そこで彼等は「アカウンタビリティ」の実践を提唱する。
アカウンタビリティは社会で抑圧されている集団の活動に対して不当な侵入があった時にそれを絶えず監視することを確実にする。
抑圧された集団が自己決定権を自覚的に行使すること、支配的グループが他の集団に対する自己の指向性や計画性の主要な側面をチェックする必要があることだ。
支配的文化が無自覚に差別を再生産するという認識。
虐待を正当化する男性の支配的文化が男性支配を再生産する「権力の慣習的実践」から成り立っているという主張
ある人を「逸脱」や「異常」すなわち「他者」として特殊化することによって、支配的文化におけるアイデンティティ管理が維持されていくということ
つまり、支配的文化は制度化された知である精神医療と結びつくことによって。「逸脱」された人々から自己決定権や、メンバーとしての社会参加する剥奪し、彼等を他の人々から分離し排除していく
こうした他者かの政治効果は排除された人のアイデンティティに壊滅的な効果をおよぼし、ガーフィンケルのいう「降格儀礼」へと縛り付けていく管理=統制として働く。
支配的文化に浸透した差別を再生産していくことに、支配的文化の一員として「責任を取る」ことである。

エスノメソドロシーの「アカウンタビリティ」(ガーフィンケル)
エスノメソドロシーは、社会が私達の自然言語を通して常に構築されていると主張する。

インデックス性;これはおよそどんな表現もそれ自体では意味が完結すると言うことではなく、それに適切な文脈を補ってやることによって、初めて理解できるようになると言うものである。(インデックス性の修復)
インデックス性が普遍的な現象であるにも関わらず、それを修復していると普段私達は意識することがないという指摘である。
それは、個人に属するものではなく、当該の状況にいる人々に大して共通に手に入り、しかも、あらゆる実際の目的にとって適切で妥当なものとして表示できる公共的なものである。
修復技術はその場の人々が習熟する技術のことを「エスノメソッド」と呼ぶ。
エスノメソドロシーとは、ローカルな場におけるメンバーの協同的な説明実践を解明する学問である。
メンバーとして社会で生活すると言うことは、私達が当該文化の中で慣習的に行われている考え方や推論方法を自由に駆使できると言うことであり、また、それを通して以前とほとんど変わらない社会を内部から再発見すると言うことである。

フーコーとエスノメソドロシー
メンバーや説明可能性と言う概念は、それによって構成される社会を「自然」であると認識しない人々を排除すると言う、もう一つの政治的意味を持っている。すなわち、私達がある文化のメンバーとして自然な世界を内部から「説明可能」なものとして構成していくことは、それとは異なった「知覚」を、つまり、他の世界の見方を暴力的に排除することを意味する。したがって、日常世界の自明性こそ、一つの「権力」が働く土台を構成する。

フーコーによる権力形式
日常生活に直接関わっている、つまりそれは個人をカテゴリー化し、個人に個別性を刻印し、個人を自分のアイデンティティに結び付け、個人にひとつの真理法則を強制する。個人はその真理法則を認めなければならず、また他者もその個人の内にそれを認めなければならないのである。これは個々人を主体にする権力形式である。個々で『主体』と言う言葉には2つに意味がある。一つは、統制と依存によって他のだれかに服従すると言う意味であり、もう一つは、良心や、自己についての知識によって自分自身のアイデンティティに結び付けられていると言う意味である。
通常は自明視されている支配的文化の説明実践を、ずらしたり、相対化することによって、それに対してそれに対して責任を撮ることができるようになる。


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第9章無知のアプローチとは何か
「物理学の概念は、人間精神の自由な創造の結果である。それは外的世界の特徴によって決定されたものではない-いくらそのように見えたとしても」
「無知の姿勢とは、セラピストの旺盛で純粋な好奇心がその振る舞いから伝わってくるような態度ないしスタンスのことである」
会話の空間を拡げ、そこに新しい意味があたかも風が吹き抜けるように入り込んでくる。そんな場所にすること
セラピストは、話の意図も前もって知っている訳ではなく、クライエントの説明にたよらなければなりません。そして、クライエントは、自分の説明が重要で意義が深いものだと認めてもらうことで、クライエントは自分の考え方に対して防衛的になったり、説得しようとしたりする必要がなくなる。

「理解の途上でとどまりつづける」
理解する作業の放棄ではなく、むしろセラピストの理解の範囲に限界があることをクライエントから教えてもらうことにある。
絶えず辺かしているクライエントの経験の視点から理解しようと訪ねる質問のこと

「ローカルな言葉の使用」
ローカルに形成される理解と、ローカルな(対話の中でのみ通用する)ボキャブラリーに行き着きます。
病理のモデルに押し込んでしまわず、世界にたった一つしかない物語として、その固有のシナリオや比喩の内側に身を置くと言う姿勢を保ちます。
あくまでもクライエントとセラピストとの会話そのものであって、対話の結果セラピスト個人の頭に宿ったことではない。
サイバネティックスの枠の中では「システムの中の精神性は、そのシステム全体に宿っている、意味とは個人の頭の中にあるものではなく、インターアクションの中にむしろあるのだ」
治療的会話と言うものは、セラピストの無知の姿勢と好奇心に刺激されて、しだいに形作られる具体的かつ詳細なクライエントの人生ストーリーに他ならない。
現在、観察者が記録したとされる「客観的な」事実と言うよりも、相互に影響し会う会話から生まれてくるストーリーや物語の方が重要なデータとして扱われるようになってきました。
自文化の中心の考え方をひとまず横において、異文化に住む人々の有り様を学び理解すること。
「セラピーにおける変化とは、新しい物語を対話によって創造することであり、それゆえ新たな主体となる機会を広げることである。物語が変化をもたらす力を持つのは、人生の出来事を今までとは異なる新しい意味の文脈へと関係付けるからである。ひとは、他者との会話によって育まれる物語的アイデンティティの中で、そしてそれを通して生きる」この場合、「アイデンティティ」を「自己同一性」と訳して、それをお腹のそこから実感できる日本人はどれほどいるでしょうか
素姓という言葉に置き換えて、「自分は誰をなぞって生きるか」、「誰のまねをして生きるか」
他者の人生を知り、それに関わってゆきたいと願うセラピスト自身の内なる求めではないでしょうか。それは、自分も含め人に対する純粋な好奇心であり、そのことに従事するロマンと言うことかもしれません。…。人を耕す野良仕事(フィールドワーク)に関わっているのです。手も汚れますが、ロマンと好奇心には勝てないのです。


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