第10章 労働倫理

はじめに
 前章で倫理とは、共同体の中にありながらも、倫理的行為は狭い共同体(社会規範)を超えた人間の本性であることを論じた。この視点に立つならば、職業倫理や労働倫理は、限定的なものではないか。あくまでも社会の中で決められることではないか。
 ところで、最近はあらゆる職業において倫理性が問われる事が目に付く。医師や看護師など人の命に関わる職業は当然のことながら、金融業や営業ですら倫理が求められている。そして、職業倫理を持ち出せば、何となく人は職務遂行において悪い対応と善い対応の区別がつくように思える。あるいは、自分がなすべき役割〜職業が社会的に承認されているような気になる。
 ここであらかじめ、労働倫理と職業倫理を区別しておく。労働倫理とは一義的には、よりよく働くことの意味を問いとしていることとする。そして、混同されがちであるが、職業倫理は、その仕事の持つ固有の価値を問いとしているといった視点で使用することとする。そして本章では、特に労働倫理を中心に論じていくこととする。
 本章では、まず、この労働倫理とは何か、そして何を問題にしているのかを考察する。そして、その考察を通して、労働倫理が狭い社会を超えたあるものであることとして捉え直す。次に、福祉職はどのような価値と目的を持ち、それはどのような倫理綱領としてまとめられているのかを考察する(職業倫理の側面)。最後に、労働倫理に基づいた福祉施設職員ののぞましい姿について論じていく。

第1節 労働倫理について
はじめに
 労働の倫理とは、労働へ向かう個人の姿勢の善悪基準、例えば勤勉とか「まじめ」は善い姿勢であるとか怠惰は悪い姿勢であるとかを指している。あるいは、良い仕事とは何かなど職業の社会的価値を問うもの。または、働くことを通じて人間は成長するという意味で労働の本質とは何かを問うものなど多義に渡る(杉村〔1997〕)。
 とはいえ、倫理上の問いとして労働を考えるとは、まずもって「労働はつねに意味を帯びた行為であり、経済的必要性にとどまらない意味の充足行為である。意味は、個々人が求めるものだが、その意味の充足は他の人間による承認や評価、共有されている価値観と不可分である。それ故、労働の精神性は集団的、社会的、文化的な広がりを持つ現象」(杉村〔1997,P.20〕)1として扱っていると考える。
 以下、個人の労働スタイルの変化についてと、良い仕事についての言説の整理を行う。

第1項 個人の労働スタイルの変化について
 昔から勤勉は広く共同体の中で承認されてきた美徳であった。そして、なぜ勤勉が美徳として位置づけられるかはプロテスタンティズムの宗教思想までさかのぼることができる2。しかし、資本主義の発展、とりわけ脱工業社会になると、勤勉から想起される仕事人間・会社人間は必ずしも労働の美徳とはならなくなっている(渋谷〔2003,P.24〕)。
 かわりに労働を通した個人の「自己実現」・「社会参加」・「生きがい」が重視され(杉村〔1997〕,渋谷〔2003〕)、より精神的な充足を仕事に求める傾向が強くなっている。さらに労働は「「忙しさ」よりも「ゆとり」、「まじめ」よりも「遊び」、「頑張る」よりも「楽しむ」という言葉と、そちらの方が良い価値観へ変化してきている」(杉村〔1997,P.11〕)。
 言い換えると、家族を養うために頑張るとか労働は苦しいものだとする禁欲性が希薄化した。それに替わって、労働それ自体が楽しいものであるとする、労働の喜び(快楽)が強調される。あるいは、社会参加や地域交流などのNPOやボランティア活動が労働のカテゴリーに含まれると広く捉え、従来の労働の枠組みと地域社会で行う個人参加や活動の区別が曖昧になった3
 とはいえ、労働にやりがいを見いだそうとする思想は、古くから禁欲と対置する形で存在していた4。そして、本来生きがいや自己実現とは「内在的な力が人を生きがいへの欲求へと追いやる」(神谷〔2004,P.50〕)ものである。あるいは、生きがい感は「素朴な形では生命の基盤そのものに密着している」(神谷〔2004,P.31〕)5。自分の生が意味のあるものとして実感したい気持ちやその実感を得ようと現実の中で道筋を探求するのは人間の本性である。つまり、生きがいへの気球は倫理的なものといえる。
 しかし、一般に流布する労働の生きがいや自己実現は、権力(社会規範)によって操作されたものである。なぜなら、労働の形態は、産業化の進展とともに変化し、労働の高度化や分業化が進んだ。そのため労働は限定的で部分的になった(ワークシェアリング、パートタイム等)。よって、従来労働(職人的労働)に見られた全体性や裁量性、責任意識(仕事への誇り)が失われた(杉村〔1997,P.27〕)。そのため、退屈になった仕事の内容を楽しく面白いものにするには、個人が努力して「労働生活の質の向上」6(杉村〔1997P.29〕)を図り、仕事の中で自己の創造性を見いだす〜自己責任が強調されている。
 この言説は、一見正論に見えるが、職人的な生産労働と違い、労働形態が柔軟(フレキシブル)になり、使い捨てのように扱われがちになっている現在、これらの言説は、単に「賃金が低くても、やりがいのある仕事なら満足するべきだ」(渋谷〔2003,P.234〕)と政治的に言っているにすぎない。渋谷(2003,PP.234-235)はこの点を痛烈に批判する。
 真に魅力的でやりがいのある労働であれば、外部からのどんな正当化も不要なはずである。また、内在的な「労働の喜び」を有しているなら、そのことを褒めちぎる言説を待つまでもなく、誰かが率先してやっているはずである
 ではなぜ、自己実現、労働の喜び、やりがいが強調されるのか。それは、「労働倫理を教え込むと言うより、〈怠惰〉への道徳的攻撃を可能にすると言う理由で採用されている」(渋谷〔2003,P.235〕)。つまり、働かざる者(秩序を揺るがす者)への反感・監視という権力がはたらいているに過ぎない。
 蛇足であるが、自己実現が単なる個人主義・快楽主義的が目的であり、自己の価値判断だけが絶対であるとするならば、自己の外にある倫理的見地の存在と背反する。「自分を大切にしたい」「自己に忠実でありたい」「自分が楽しみたい」ことを追求すればするほど、組織や統制、規範からの自由を強く求めることになる。しかし、それは、単なる、組織や規範への反発心だけである。実際、自己実現の追求の多くは、勤勉倫理(組織や統制)への反動に止まっている。倫理とは共同体へ自己が開かれた形にあるとするならば、上記の意味での自己実現の労働は、倫理を体現し得ないものである(杉村〔1997,PP.40-42〕)。
 このように、現在、労働倫理〜労働をする上でののぞましい態度は、「勤勉」から「やりがい」や「自己実現」が強調されるようになった。しかし、その背景には、労働の流動化や細切れ、単純化が促進され、むしろ労働自体に働きがいが見いだせなくなっている反動からなっている。
 とはいえ、勤勉も仕事の喜び(やりがい)も古くから共同体の中で容認されてきた態度である。それが倫理として捉えるならば、一つに、よく働くことが善く生きることにつながることを示している。そのことについては、次項以降で考察していく。

第2項 良い仕事とは何か
 労働の喜びややりがいを追求するならば、それが自分にとって「意味のある労働」を望むのは当然の帰結である。自分が現在従事している仕事に意味を見いだせないならば、それは自分の行為を自分自身で否定することになる。
 この「意味のある労働」は、主として「オートメーションによる生産システムの発展につれて単純化し単調化した労働に対して、より人間的な労働、それ自体に満足が得られるような労働」(杉村〔1997,P.38〕)を指す。あるいは、労働の分業化がすすむ中、よりよい働き方を求める意味で、多能工化や裁量労働の拡大の提案で語られる。そして、それらの提案を超えて、意味のある仕事は、個人の能力の発揮、他者や社会への貢献・奉仕など、仕事に求められる意味は、「物質的・経済的な意味・満足にとどまらぬ精神的な意味・満足を含み、かつ個人的領域だけではなく、社会的領域にわたっている」(杉村〔1997,P.39〕)。ところで、意味のある仕事とはどのような仕事を指すのだろうか。仮に、自分・社会にとって意味のある仕事は「良い仕事」であるとした場合、この良いとはいったい何であるのか。
杉村(1997)の意味のある仕事、あるいは良い仕事の条件をまとめる。
1. 良い仕事とは、仕事以外においても良いもの(家庭・社会的活動など)が存在することを前提にする(P.43)7。そして、仕事以外への配慮や均衡が取られてこそ、人間の全体性が成長する。
2. 配慮や均衡に関連して、良い仕事とは毎日の生活さらには人生そのものに意味を与えてくれる(P.156)。他者との交流・協力・依存、更に仕事と他の生活領域、全体への貢献といった、自己完結ではなく、他者との調整や交渉など実践の行為に媒介され、開かれた過程が良い仕事の要件として挙げられる(P.213)。
3. 良い仕事とは個人にとってのぞましい仕事であると共に、人間と社会にとってのぞましい仕事である。それは、自己実現と意味のある労働双方の側面を叶える (P.44)。仕事の基準は快・苦でもなく、自由・必然でもない。良い・悪いという倫理的・道徳的基準である(P.153)。
4. もし自分が行っている仕事が、良い仕事でなければ、勤勉は単なるハードワーク(骨折り損)である。勤勉は良い仕事であるからこそ意味がある。
5. 良い仕事は単に自己実現できる仕事ではない。やるに値する仕事は、個人の欲求や選択を超えて存在している。仕事の意味は個人によって価値づけられない。個々人が良いかどうかを自ら発見するのである(P.153)。
6. 5に関連して、良い仕事であると個々人が発見するためには、日常その仕事に打ち込む自分の姿勢(気持ち)だけでは得られない。しかし、真摯な姿勢抜きには良い仕事であることを実感できない(P.211)。そして、その姿勢を通して、自己形成や自己成長を促す契機となる(P.214)。
 要約すれば、良い仕事とは、まずもって、3のような社会や人間に開かれた形で存在する。そして、5のように良い仕事かどうかは、自己の価値判断ではなく、その仕事自体が倫理的かどうか(開かれているかどうか)という広い視点(外部)の基準が存在する。3,5を基盤にして、1,2,4,6のように、仕事は人の生活全体に関わりながらもそのエッセンスは、自己の成長や形成に影響を与える。重要なのは、「仕事と生活の諸所の領域全体を思慮しながら良い仕事といえるにふさわしい責任を果たしていく」(杉村〔1997,P.220〕)8ことである。
 しかしながら、現在の労働カテゴリーの曖昧化や使い捨て可能な労働形態では、はたして、何を持って良い仕事といえるのだろうか。例えば、1では、社会活動と仕事は区別されることが前提になる。しかし、2のようなエッセンス(他者との交流や精神面など)だけを取り出し、社会参加もまた仕事だと言われている。そして、前項でも述べたが、自己実現が強調されるものの、やるに値する仕事かどうかはこの流動化した労働形態の中、はたして見いだすことができるのだろうか9
 単調で一見無意味に見える仕事でも、深いところで意味のある労働であることを見いだせないだけなのではないか。あるいは、仕事に就けない人や失業者に比べればマシではないか。このような意見は傾聴に値する。しかし、それが政治的に用意された言説であれば問題である。なぜなら、政治が強調する精神面の強調(やりがいや自己実現)は、本来持っているはずの労働者としての誇りや権利を消失させる。そして、単に働くこと(働くことは良いことだ)で市場社会に従属させる。その言説の中で、働けない人は怠惰・無能な人とレッテルが貼られ、失業者は就職「活動」を通じて社会参加するようにコントロールされている(渋谷〔2003,P.60〕)。
 本来、良い仕事とは、誰かを怠惰とか無為だと決めつけない。そして、賃金の多寡とかある特定の職種が良いとか悪いと言っているわけではない。繰り返しになるが、良い仕事とはよりよく生きるためにある。次項では、良い仕事の持つ本来的な力を考察する。
 
第3項 労働倫理の力
 良い仕事とは、社会に開かれたものであると先に述べた。では、社会的に開かれるとはどういうことなのか。仕事とは一般に、客(他者)に自分が従事している仕事の成果を提供し、貨幣や自分の生活に必要なもの(食料・衣類等々)と交換する。つまり、客(他者)は自分の生活の糧である。そういう意味で、客は自分にとっての「手段」である。
 客(他者)が単に自分の手段(金を得るため)であるだけならば、それは他者を事物として扱うことでしかない。良い仕事とは、「労働を単に物的生活の手段以上のもの」(杉村〔1997,P.203〕)を目指す。良い仕事をすることは、自分自身の生と結びついた形で「意味のある」ことと考える。ならば、客を自分の生活手段としながらも、客への良いものを提供しようと努力することが、良い仕事につながっていく。つまり、日々接する客(他者)は自分にとって生の意味を与えてくれる「目的」である(前田〔2001,P.54〕)。良い仕事とは、高給だとか社会的地位に見合った職業を指してはいない。それは、名もないトンカツ屋(前田〔2004〕)だったり、靴磨き(野地〔2001〕)にも見られる。
 前田(2004,PP.54-55)が述べるトンカツ屋の親父の例を引き合いにすれば、
客から金を取って生活をしているトンカツ屋のおやじにとって、客は手段である。けれども、美味しいトンカツを食わせることに関するこのおやじの並はずれた努力は、客を目的とすることなしには成り立たない。客はおやじを尊敬する。おやじも味の分かる客を大切にするが、大事にするからといって、金をもらわないわけにはいかない。
 また、野地(2001,PP.181-201)が取材した靴磨き人のこだわりは、ただ単に靴を磨いて金をもらうだけではない部分に光を当てる。彼の仕事への打ち込み方に惚れ込む有名人や政治家などが多数通う。
 客がなぜこの靴磨き職人に惚れ込むのか。一つのエピソードとして、客(芸能関係者)は、自分がチヤホヤされて、いつの間にか驕って得意満面になっていると思うと、その靴磨き人へ通い、腰を下ろすようにしているという。なぜなら、「磨いてもらっているうちに、いつの間にか謙虚になり、心が落ち着く」(野地〔2001,P.195〕)ことを話している。これ例からも仕事の内容や種別を超えて、良い仕事とはなにかを、その実践する姿の中に客が見いだしているといえる。
 実践は様々であるが、良い仕事とは最終的に、その人が体現している職業上の「技倆」の中にある。そして、「この技倆は社会の中ではっきりと検証され、証明されるものであり、神秘的でも絶対的でもない。この技倆は、やがて誰かによって乗り越えられるべく、そこに開かれたままになっている」(前田〔2004,P.80〕)。技倆は偉そうな理屈は何一つ言わず、目立たぬ所に黙って存在している。確かに、仕事に打ち込む姿には、社会的にのぞましい言説(勤勉・自己実現など)なども含まれている。しかし、まずもって技倆はその人に宿るがゆえに、抽象的な社会的圧力(用意された望ましい職業や方法)とは無縁であり、常に具体的である。
 そして、良い仕事をしている人の姿をみて、同じ仕事や職場にいる人は、その人のように仕事をしたい欲求に駆られる。あるいは、感化される。この欲求は、何かに強制されたものではない。そして、この感化や欲求は、まず持って「ある特定の人間の持つ技術の継承」(前田〔2004,P.84〕)にある。この継承は、単なる技の習得ではなく、その技術を実現できる特定の人間をそのまま受け継ぐことをめざす。究極的には、技を通して、「人間を継承」(前田〔2004,P.97〕)する。そして、受け継ぐことを、人は人に密かに約束する。要するに、この継承したいと思う欲求は、仕事の技術を介しながら、その人が体現する「立派さ」を惹かれている。
 そして、この立派さと技術が結びつくには、人を目的とする〜開かれた性質を持っているものの中にある。再び前田(2004,P.88)のトンカツ屋のおやじを具体例として引用する。
 …欲求の対象は、はじめは技の習得そのものであるかのように見える。ひたすらトンカツをうまく揚げたいがために、おやじは習練を積んできたかのように見える。だが、ほんとうはそうではない。
 技を磨こうとする意欲は、ただ技それ自体のためにだけ、がむしゃらに起こってくるものではない。…中略…ほんとうは、技の修練の過程に入り込んで生き延びる一つの欲求があり、この欲求は、ただ万人に対して倫理的たらんとする以外の具体的対象を、目標物を持っていない。おやじの技にとってこの万人とはすなわち客であり、軽んずべからざる《人様》10のことである。
 良い仕事を体現している技倆もさることながら、その姿に立派さを見いだし人は惹かれる。そして、そうありたいと人を奮い立たせるものは、感情や知性・本能ではない。それは、良く生きたいと思う「共同体とは無関係に普遍的に働く倫理の原液」(前田〔2004,P.98〕)に導かれている。つまり、共同体や社会に流布している抽象的な立派さではなく、目の前にいる人の中に見いだされ、感化される。この感化・欲求は、自分の中で「かくあるべし」と生きる上で義務のように約束する。そして、「果たすべき義務を負うことは、義務についての意志や判断によるが、実際にその義務を果たす上で私たちの心を鼓舞するものは、普遍的な倫理への欲求しかない」(前田〔2004,P.99〕)。
 ところが、あらゆる義務は共同体の中にあってこそ成立するから、その限りにおいて、義務を果たすことは普遍的な倫理と完全に一致しない。しかし、義務を果たそうと実践する(技術を磨き、積み重ね、他者に開かれていく)ことは、倫理的な振る舞いであると考える。
 このような感化や欲求に奮い立つならば、他者を否定することによって自分のスタイルを確立することとは無縁になる。言い換えると、「お前はわるい、ゆえに私はよい」(渋谷〔2003,P.224〕)11とするスタイルは、他者への批判や否定を通して、自分を肯定(価値化)する。それは、誰かに承認されたがり、そのことで安堵する心情の裏返しである。しかし、倫理の基づく姿勢は、他者の承認を必要としない。まずもって影響を受けたは、与えた人を肯定し、そして自分が志す仕事を肯定する。そこには、他者を否定することで自分の行っていることを正当化しない。それは、内在的な自己肯定であり、「ひとかどの者」として、自己を価値化するのである(渋谷〔2003〕)。

第4項 まとめ
 労働倫理の中には、やりがいも勤勉も実はすでに存在をしていて、その都度歴史・社会的に発見されたり利用されたりするだけである。よって、仕事の中に勤勉も自己実現にあり、そのどちらかが正しいとか悪いというわけではない。仕事の姿勢は多層・多元・多様でありながらも、良い仕事をなすのは、良く生きたいと願う欲求の中にある。そこには、感化・肯定感・研鑽などが要素として挙げられ、他者からの承認・否定とは無縁である。
 そして、良い仕事とは他者に常に開かれており、仕事を通じて社会ひいては広い共同体と結びついていることを確認した。
 次に、福祉職、特に施設職員の職業上の倫理や労働倫理について考察をする。

第2節 福祉職の倫理について
はじめに
 社会福祉の対象は「歴史的社会的矛盾としての生活を背負い、悪戦苦闘して、その矛盾を切り開かんとする生きた人間」(吉田〔2000,P.313〕)である。社会福祉従事者はこの矛盾にまみれた生きた人間へ働きかける対人援助サービスである。それは、ともすれば権力を持つ者(従事者)と持たざる者(対象者)の構図において、対象者の人権や権利が歪められていることが指摘される。よって、福祉従事者は、権力を振りかざすことなく、禁欲と倫理的態度を持って、対象者の主体性を尊重した仕事をしないといけないとされる(秋山〔2005,P.334〕)。いわゆる、「福祉マインド」、「福祉の思想」、「福祉の心」を持つことの重要性が語られ、結論として、倫理の把持が大切だとされる。しかし、倫理の諸要素を並べてこれが善いとか悪いと解説を加えたところで、どこか説得力に欠ける。なぜなら、何が善いか悪いかは歴史・社会的に組み替えられるものだからである。そして、善悪の価値基準は、解釈の数だけ言い訳がつく事が多い。倫理は解釈も言い訳もなく存在すると考察した以上、この相対性は倫理と言うよりもむしろ道徳や規範におけるジレンマと言える。
 本節では、前章・前節で述べてきた倫理・労働倫理を手がかりに、社会福祉職〜特に福祉施設がどのような価値を探求あるいは問題にしているのかを概説する。その上で、特に倫理綱領について考察を行い、福祉施設に従事することの意味を労働倫理に基づいて言及する。
 
第1項 福祉職の価値と倫理のジレンマについて
 すでに第5章で、社会福祉〜福祉施設の役割と目的については述べている。端的に、民主主義に基づいた生存権・発達権保障が福祉施設の価値基盤になっている。そして、福祉施設は、その権利保障を目指した具体的な取り組みが求められている。第8章では、施設職員は業務遂行において、感情規則〜のぞましい振る舞いがあり、しばしば現実的な葛藤に直面し、ゆらぐことを述べてきた。
 一般に福祉の倫理とは何かと問う場合、この施設の役割と現実の矛盾、あるいは感情規則と現実の葛藤を主題にしていると考える。言い換えると、福祉倫理の主題は、本来こうあるべきだという形而上的な理念と現実とのジレンマ・難問を明らかにし、理念と現実がどう折り合いをつけるのか(理念を体現するのか)が問われている。
 例えば、福祉職は愛の仕事であり、他者への配慮や献身を持って接する倫理性の高い仕事とされる。その一方で、福祉労働の流動化により低賃金、重労働な上、少人数で働かざるを得ない環境に置かれている。職員(福祉施設)は、もっと利用者に献身や共感したいと思っても現実には管理的にならざるを得ない。つまり、献身(倫理的側面)と管理(現実的側面)が対置されている。そして、現実に様々な弊害があっても、倫理的側面を意識し働くことが大切だとされる。
 また業務遂行の内実に目を向けると、利用者の自己決定と専門職が利用者の最善を考えて下す判断とのジレンマ(副田〔1994〕,富樫〔2004〕)、共感できなくても職業的に共感しなければいけない事例への葛藤(木立〔2001〕)、受容することの難しさと本質的な受容の在り方の模索(山下〔2002〕)などがある。
 いずれにしろ、社会福祉には、望ましいとされる価値基準がいくつかあり、それへ指向し、吟味することで個人は専門職の自覚が芽生え、深まるとされる。福祉が特に重要視する倫理の諸要素については、次項で詳しく述べるが、まずもって福祉職の特色である奉仕の精神も献身的態度も、倫理的な振る舞いである事を考察していく。
 他者に献身し、贈与することは、知性でも本能でもなく倫理的欲求である。あるいは、共感も受容も知性がそれを必要とするのではなく、人類が生き残るための欲求である。それは、福祉職に限らず、どんな人にもある。ただ、福祉職はそれが職業上特に要請される。ことさら倫理が強調されるのは、福祉が対象とする社会的弱者は一般に偏見にさらされ、市場社会の中で排除されているからであり、それらをどう社会的に包摂していくかが問題になるからである。知性(市場経済社会、科学的見地など)によって排除されながら、倫理によって社会的に救済する。この知性と倫理の狭間に社会福祉のジレンマがある。
 また、社会福祉サービスが適用される対象範囲は限定されている。さらに目の前に立つ利用者は個別的であり、何らかの理由付けでサービスが供給されている。倫理は、そもそも誰かを救うのかとか救わないかを線引きすることもないという視点に立つならば、すでに福祉職は限定的であり政治的である。とはいえ、別の見方をすれば、一人の利用者に立ち現れてくる他者性12は個別性とは別に、広い共同体につながっている。言い換えると、目の前に立つ利用者を支援することを通して、自分もまた贈与され、共同体の中で生かされていることに気がつけるのではないか。
 その拡大解釈として、単に目の前の利用者だけが福祉の対象ではない。今、お金持ちな人や健康な人も突然の事故や病気あるいは倒産などで福祉の対象者になりうる。だから福祉は誰かを救うなどの線引きはないという言説である。確かに、いまだ福祉の対象とならない人達も将来的には社会福祉を利用するかも知れない。それは、狭い意味での救済ではなく、広く共同体に開かれているという意味で福祉の仕事は倫理に適っている。
 ところが、これが政治的に利用されると倫理と言うよりも社会政策的で矮小化されてしまうことはすでに見てきた。つまり、倫理を語り、持ち出すことで、現にある社会的な制限や線引きを曖昧にし、格差や偏見を助長している事が問題なのである。
また、福祉職員は、社会的弱者を対象に関わるがゆえに、いわゆるメサイヤコンプレックス13というジレンマが生まれる。秋山〔2005,P.344〕は、以下のように述べる。
 他人に関わり、援助していこうとする人の内面には、人を助けることによって自分の内にあるコンプレックスを覆い隠そうとしたり、密やかな優越感を感じて自らの慰めとするような心理が働く…中略…また、病的に人に依存することによってお互いに必要とされる感覚を持つ「共依存」に陥る人は、保健医療関係者、教員、保育士、ソーシャルワーカー、ケアワーカーなどのヒューマンサービスの職業に多いといわれる。
 この批判は、まず、人の幸福や主体性は自分自身の内面から湧くもので、外部から救いの手を延ばしてもたいして救われないという考えが根底にある。さらには、「利己主義の利益よりも利他主義者の損害の方が大きい」(秋山〔2005,P.348〕)と考える。いわゆる「小さな親切大きなお世話」である。しかし、あえて反論すると、やはり目の前に困窮している人を助け起こそうと思い、何とかしようとする欲求は否定もできないし、むしろ倫理の力として肯定されるべきだと考える。例え、誰かのお世話をすることで、コンプレックスを覆い隠そうが優越感を抱こうが、本来的に人を助けたい欲求は倫理的には適った行為である。例え、助けることによって自分が慰められたと思っても、他者を助けることによって自らも助けられている事につながっていると考えることができないだろうか(ケアの関係性については次章で補足・考察する)。
 あるいは、その人を社会的弱者として社会福祉がレッテルを貼っているに過ぎないという批判がある。また、施設に「入れられて」いるとも言われる。他の場所や環境で生きたらまた違った生き方もできたし、その方が幸せだったかも知れないと考えることもできる。しかし、とにかく実際に施設入所をしている人たちは社会において困窮してきたし、いまも生き辛さを抱えている。そして今この場所が必要とされ、我々がサービスを提供することで対象者は生活をしているのは事実である。この事実と共に、福祉労働者はいかに労働倫理を見いだすことが出来るのか。
 労働倫理に照らし合わせると、福祉職は、社会的弱者に対してサービスを提供して自分の生活の糧(お金)になる「手段」である。そして、良いサービスを提供することが自分にとって「目的」になる。福祉職は、なぜ他者を助けるのか、ケアするのかという問いは生産業(農業・漁業など)や飲食産業などに比べてよりダイレクトな倫理的態度への問いなのである。
 次にさらに福祉職が取り上げる倫理の諸要素を倫理綱領を題材に取り上げ、論じていく。

第2項 倫理綱領について
 第1項で若干述べたが、社会福祉(施設)には、特に要請される倫理が存在する。それをまとめたものを原則(例えばバイスティックなど)と呼び、倫理綱領と呼ぶ。そして、倫理綱領は「自分たちの職業を専門職として社会的に認知してもらうため」( 副田〔1994,P.44〕)に必要なものとされる。特にこの倫理綱領の必要性は、福祉の国家資格化に伴い、教育機関から質の高い専門職養成をいかに行うかという見地から考察されている14
 なぜ福祉職は、社会的に認知されなければいけないのか。一つに、福祉職は社会公共の利益を優先し、社会的使命の遂行をまず第一義的な目的とするからである(黒川〔1986〕)。しかも、「専門職は、社会から託されたこの職務の遂行に関しては、左右を問わず「政治」に支配されず、政治から完全に独立していなければならない。それは、左右両翼の中道ということでもない。この時代は、ともすれば専門職の「価値観」さえも政治によって歪められようとするが故に、専門職は、政治とは独立した「専門職主義」に徹する必要がある」(黒川〔1986,P.13〕)とされる。つまり、専門職が専門職足り得るのは、そのときの政治から一定の距離をとったより広い意味での社会公共善、あるいは倫理性(価値基準)の追求にあるといえる15
 この倫理綱領が職業上存在することは、利用者の保護と共に、ワーカーにとっての保護となる(副田〔1994〕)。倫理綱領があることで、利用者はワーカーが自分の権利や利益を損なうことなく行動することが期待できる。ワーカーは、他の専門職や関係機関等がワーカーの行動内容に関して疑義が出されても、倫理綱領にのっとって行動していることが説明できれば、ワーカーの行為の理解や評価を得やすいからである(副田〔1997〕)。
 しかし、倫理綱領は抽象的であり、具体的な場面でのガイドラインにならない。あるいは、倫理綱領に書かれている個々の「倫理」には一貫性がない。そのため、現実場面では倫理観の対立があり、ワーカーがそのジレンマを解消するに役立つ示唆を倫理綱領からうることが出来ないという批判もある(副田〔1994,P.43〕)。とはいえ、社会福祉職は人の生存権・発達権に関わる職業として、絶えず倫理的な決定を行わざるを得ないとするならば、倫理綱領は職業倫理や現実における倫理的ジレンマの一つのたたき台として有効である。
 では、社会福祉職における倫理の要素として代表的なものは何かであるが、いくつかの文献から抽出すると、
 特に3の要素について、例えば自己決定と専門職が下す判断にずれが生じる(副田〔1994〕)とか倫理的なジレンマで語られることが多いが、その考察は別の機会に行いたい。いずれにしろ、1〜3を見ると、ここで語られる倫理は、特に2においては福祉に限らず一般的なことである。そして、2を前提にするならば、3は当然のことであり、社会福祉職固有の職業倫理とは言い難い。せいぜい、福祉職が留意すべき「特徴」を指し示す程度のものである(丸岡〔2004〕)。そして、はたして民主主義は倫理なのかと疑問が残る。このように見てくると、倫理綱領は、本来的な倫理(人類が生き残るための欲求や力)の一部を抽出し、知性(利己的な態度)に抑制を働きかける小さい意味での「規範」であるといえる。
 とはいえ、倫理綱領は、ある固有の視点から政治と距離をとったものであり、抽象的であるが一定期間守るべき基礎概念である。よって、自分が利用者と関わるときに起こるジレンマや葛藤、あるいは時に社会情勢に流されそうになったとき、倫理綱領は守るべき価値とは自問させてくれる。つまり、職業遂行の基盤を指し示していると言える。

第3項 福祉施設職員の専門性と労働倫理について
 前節で、前田(2004)が例に挙げるトンカツ屋にしろ、野地(2001)の靴磨き人は、それだけで労働倫理に適った仕事をであることを確認した。しかし、トンカツを作るにしろ、靴を磨くにしろ、それは日常の行為においては些細なことである。時には、不要なものである。誰もが手順さえ守ればトンカツが作れるし、靴が汚れていることに気づけばさっと拭くことで用が足りる。ところが、それらを職業とするとなると、トンカツの場合、肉の吟味、揚げる温度、手順の精密化など考えることが多様にある。靴磨きの場合も、クリームの調合から革質、形状など靴の数だけ存在する。そして、美味しいトンカツはソースの調合ややり方まで多様にあり、さらに客の数だけおいしさの基準が存在する。よって、同じような職業に就いていても、その人が体現する技術に厳密な普遍性は存在しない。ただ、その技術はその人が身につけていて、具体的にそのことを他者に教えることができること。そのモノ・コトに向ける情熱に他者は立派さを感じて影響を受けるのである。
 施設業務は基本的に日常の延長のような内容である。しかしながら、他者(利用者)を理解しようとすることに終わりはないし、そのことを通じて良い仕事をしようと志すことにもまた終わりはない。そこにその人なりの対象の理解、業務を行う上での手順や振る舞いがあり、それが倫理的(他者に開かれている)なら、福祉業界を超えて、立派さやひとかどの者として他者に影響を与えるだろう。
 時々、福祉職〜現場職員は、職人的で人に何かを教え、伝えることが苦手だと指摘される(高木〔2000〕,石井〔2004〕)16。しかし、本来、職人芸は簡単に人に教えるものではないし、言語化した途端、何か違うものになる(横田〔1999〕)17。その人が経験や思索の果てに身につけてきた仕事の仕方は、その人のものであり、多くを語ることはない。
 中には個々人がバラバラの意識で仕事をすることに危惧をして基盤整備を提案をする傾向がある。例えば、卒後教育のカリキュラムの設定(京極〔2004〕)や資格取得後に研修制度の義務化を提案する(小笹〔2006〕)。あるいは人材育成の必要性が訴えられ、その評価手段などが多様に生み出されている(渡辺〔2005〕,塩村〔2004〕)18。確かに、知識の科学化や体系化は重要である。その事を否定するつもりは全くない。しかし、極論かも知れないが、体系化を推し進めていく中で、「お前は悪い、ゆえに私は良い」という、他者を否定し、評価することで自分自身を価値づける意識が潜む危険性がある。言い換えると、現場職員の生活支援はレベルが低いし、学習が欠けていることが前提にある。だから、我々(研究者)が君たち(現場職員)を評価し、従い学習した場合、一応君たちを承認しよう。教えていないその他の方法は、科学的に妥当性がないから、それは専門性はないからやっても意味はないと判断される。
 しかし、労働倫理は、先に述べたように、誰かを選別し承認も否定もしない。自分の行為や体現している技術が他者に開かれているのならば、どんな方法を採っても肯定される。その技術は基本的に目の前の利用者が自分自身の「目的」となるように励むからである。だから、まず持って自分が積み重ねられる技倆は第三者から評価され、承認され安堵するものではない。
 あるいは、ベテランワーカーの取る態度にはどのような心理的動機や判断基準が動員されているのかが研究されている(萩野〔2005〕)19。もし、その動機や判断基準が分かれば、新人には何かしらの知見をもたらし、自分の行動指針にはなりうる。しかし、労働倫理に照らし合わせた場合、立派さや尊敬を感じることは、言語よりもその人自身の実践の中に見いだされるものである。そこには、何かの要素を取り出して、つなぎ合わせれば説明できるものではなく、一連の流れや臨場感の中から感得するものである。
 確かに何かを言語化し、説明できるのであれば、それに越したことはない。また、良い仕事をしようとした場合、こうした知識や研究の積み重ねが社会福祉を発展させる。しかし、良い仕事を志した場合、まずもって自分であれこれと考え、実践していく中で良い仕事になっていく。そして、自分の積み重ねた技倆が利用者に現前する他者に対して開かれているのなら、その技倆は十分肯定できるものなのである。

第3節 考察
 社会福祉職は、他と比べて職業上の固有性を論じるが、すでに見てきたように、倫理綱領で述べていることは、社会福祉のみならず、一般的に承認されている言説である。それをあえて強調するのは、民主主義であっても社会的弱者を生み出す構造やそこに落ち込んでいる人達を対象にしているからである。また、そうした人達の生存に関わるが故により禁欲的態度を必要とするからである。よって、福祉は特に人が共同体の中で生きていくためには、排斥されている人達にこそ、開かれないといけないという倫理の欲求が根底といえる。
 そして、労働倫理としてとらえた場合、狭い職業規範を超えて守るべき行動が存在することを明らかにした。自分の仕事に誇りを持つならば、他者を否定することによって自分を肯定するのではなく、まずもって他者を目的とし、自己を批判的に肯定する。そして、良く働こうとすることが良く生きることにつながっていること。そして、良く働いている人に人は感化されることを明らかにした。
 専門職とは、社会公共善を指向するものと規定すれば、トンカツ屋も靴磨き人は専門職ではないと考えることが出来る。しかし、美味しいトンカツを揚げる、よく磨かれた靴を仕上げる行為の中に良い仕事は存在する。そこに専門の技術は存在しているし、広い意味での倫理が宿っていると見るべきである。よって、社会福祉職は本当に社会公共善を指向しているかどうかと思い悩み、専門職かどうかを検討するよりも、まずもって、社会福祉は人に開かれた職業である。それだけですでに社会的に認められた仕事であることを確認する必要がある。
 要するに、専門職かどうかと考え、様々な言説によって安心したり、落ち込むよりも、まずもって、自分が良い仕事をしているかと吟味することである。そして、その上で自分の行為が仕事(労働倫理)として適っているかと自問しながらも毎日を積み上げていくことが大切なのである。


1 「労働はどの社会に於いても一定の精神的性格を持つ。労働は物質的財貨の獲得という外圧的・物質的報酬だけではなく、意味の充足という内在的・精神的報酬をも与える」(杉村〔P.19〕)しかし、この交換(労働をする)と贈与(報酬を得る)は、別の見方をすれば、「権力と支配を巡る贈与ないしは脅迫を通じた取引によってもたらされる均衡化作用」(高澤〔2004,P.78〕)という考え方にもつながる。だれが、報酬を与えるのか、労働の意味を与えるのかを想像すれば、あながち突飛な考え方ではないことに気づくはずである。
2 杉村(1997)は、勤勉は、プロティスタンティズムの禁欲から始まっている。その後、資本社会においては、勤勉の意味は一方で組織における労働の規律に禁欲的に従うことであり、他方でそれに励めば必ず見返りとして報酬や地位という対価を得ることができるというプロティスタンティズムが世俗したものであるとされる(P.26)。プロティスタンティズムの勤勉とは、禁欲的に職業労働にいそしむことは、神の召命に応えることであり、救済につながると確信された(P.37)。
3 渋谷(2003)参照。労働とは生産過程であり、有償であるとされる従来のスタイルから、ボランティアも労働として位置づけるようになっている。更に、高齢者や退職者が地域社会に参加できるような就労〜必ずしも有償ではない〜も積極的に押し進められている。これなどは、社会参加や活動と同意味に位置づけられている。では、労働とは何であるか。つまり、従来の労働概念が消失していることを意味している。
4 杉村(1997,PP.32-33)は、「産業社会の形成が労働の観念に対してもたらした帰結は「二つの倫理」の衝突であり、その衝突は現代の社会にもなお当てはまる。一方は、プロテスタンティズムの労働観から来る勤勉の倫理であり、他方はフーリエの労働観を嚆矢としまた代表とするような「喜び(joy)」の倫理である」と述べる。
5 神谷(2004,PP.91-94)にかけて、生きがいの様々な欲求について、1.生存充実感2.変化と成長3.未来性4.反響(@共感や友情、愛A優越・支配B服従と奉仕)5.自由6.自己実現7.意味を挙げている。その中で、労働に関しては、6と7が関連してくる。その上で、生きがい感は、特に開かれた魂であること、宗教、精神性、未来性が大切であることを論じている。
6 渋谷(2003)は、その代表例としてQCサークルを挙げている。QCサークルによる研鑽から、労働者一人一人に自発性、企業経営への参画等を喚起させる。そのことによって、労働者という意識〜企業と対立・対等な立場(賃金を得る)を堅持するよりも、一人一人が経営者のように振る舞うことの大切さを内部に働きかける。それは、労働というカテゴリーを消失させ、結局は権力〜企業に従属させることを指摘している。
7 福祉業界では、就労をすることが社会復帰や自立と一面的に捉えがちである。しかし、仕事を広い視点で見た場合、就労だけではなく、社会参加や他者との交流は深い意味で、その人の「仕事」であると考えることができるのではないだろうか。
8 杉村(1997,P.220-221)は、こうした生活全般に責任を持って仕事をすることを、インテグリティと呼ぶ。これは、人間の一生は変化し拡大する環境に対して筋道を取り戻そうとする努力の繰り返しの中で、人格の一貫性・全体性・誠実性の保持を求めるものである。
9 渋谷(2003,PP.58-60)において、福祉コミュニティとは、精神的豊かさをその存立基盤とし、自己実現という快楽のテーマと、コミュニティへの参加という義務的、道徳的テーマに収斂されるとする。それは、自己実現はある種のモラルに支えられ、正当化される。そして、労働と社会参加活動の境界を曖昧にし、労働がもつ特権的な位置を奪うことを指摘している。
10 前田(2004,P.55-58)の中で、人様とは何かと述べている。人様のおかげで生きていけるのは、他者を手段としながらも、手段とすることをおそれるが所以である。
11 その逆の「私はよい、ゆえにお前はわるい」(渋谷〔2003,P.224〕)とは、まず持って自分の行いがよいことと感じ、他を低級のもの、卑賤なものに対置する。そして、この自己目的化は、「自分自身を乗り越え、他者へあふれ出し、この備給を通して膨張する共通の属性を構成する」(渋谷〔2003,P.223〕)というように、肯定することで他者へも肯定し、そして良い仕事へ構成されていくことを示唆している。
12 松倉(2001)では、まずもって目の前にいる利用者の他者性をいかにとらえ、生を肯定していくかが新しい援助者像として望ましいと考察している。この他者性は、「個体、部分のみに終始しない。むしろ特定の社会システムを超える文脈で現実世界の様々な問題の有り様を問い直す事をもたらす」(P.7)
13 田中(2000,P.83)では、利他的行為において、1.自己満足、2.対象相手の選定、3.感情的判断に置かれ、人のためとはいえ、それが全てを解決しないことを指摘している。あるいは、尾崎(1999,PP.160-164)の中で、利用者に振り回されることを回避するために、救世主的な役割を持って安定を図ろうとする危険性について言及している。
14 関家(1977,P.59)より、資格化により、福祉行政に大学が振り回されていることを批判しながら、「大学教育は、全人教育を持って、市民としての、また人間としての様々な価値観と倫理観を身につけた人間形成と同時に有能な職業人を養成することにある」と述べる。
15 丸岡(2004,P.132)は、価値と倫理を規定した専門性の基底は、社会福祉の全体像を得るための比較、中傷とはならず、他の専門性との区別にはならない。単なる社会福祉実践の特徴であることを指摘している。その上で、この価値追求は、社会福祉が自明と思っている前提を自覚し、その基礎を反省することが大切であると述べている。あるいは、関家(1997)では、少なくても社会福祉の基礎概念について、人類がこれまで培ってきた奥行き、つまり、思想的な背景に付いてまで理解しないといけないことを指摘している。
16 例えば、石井(2004, P.85)において、「…どちらかというと現実的な価値観の確立が主となる職人気質のようなものが育ち、セールスを主とする職業人のような人や表現お上手のような人が少ないようにと感じる」など。好意的なものもあるが、大概、教育し育成することに対しての意識喚起として使われる。
17 横田(1999)では、実践知とは、一般に流布する援助理論や理論とは別のところで現場職員は判断し、応えていることを指摘している。このことについては、第2部の対象論を参照のこと。
18 渡辺(2005)では、主に実践評価に関すること。第3者、プログラム評価、事例研究などについての概説を述べている。塩村(2004)では、企業でよく使われるコンピテーシーを手がかりに到達課題へどう対処するのかその方法について論じている。
19 援助者が、利用者からの主訴をどのように感性として受け取るのかを研究している。方法として、インタビュー調査を行い、その精査を通して、帰納的にどのような形而上の感性の概念操作が使われているのかを探索している。その中で、求められる能力の概念定義から考察するのではなく、「アート」的に「できる」「すごい」とされる能力を捉え、記述している。

ホームインデックス次へ