大学院時代の思い出
 2002年から2004年まで通信で大学院に行きました。その当時の日記を振り返ってみました。題名もその当時のままのものを挿入しています。振り返ってみると、上の子が1歳で2003年にまん中の子が産まれています。さらに、空手の試合にも出ています。今思えば、修羅場でした。論文提出の最後の2ヶ月は修羅場を通り越して、めちゃくちゃでした。
 また、次の年にも論文(2005.2.22まで)を書いていて、学会員になって学会に参加。後半(2005年10月〜2006年1月)は国家試験の勉強、別論文の執筆(現在進行形)と勉強漬けです。また、下の子も2005年に産まれています。
2006.7.17

02.1.8 仙台に行く
 仙台について、すぐに先生と待ち合わせをして、泉の方でコーヒーをしながら打ち合わせをする。
大学院は、私が思うような認識の甘さでは、すこし難しいと思ったが、協力をしてくれるという先生の厚意に励まされた。

02.1.14 鳥肌実の廃人演説
 研究計画の作成であり、なんとか草稿はまとまったが、う〜ん、この研究は成り立つのか非常に疑問である。もし、できるのであればすごく画期的な研究なんだが…。それで、朝まで起きていたため、体が冷え切っていたようで、おまけに乾燥していて、寝ている間にも口の中がからからになっているのが分かる。案の定、朝起きるとだるいし、寒気がする。

02.1.27 復活
 妻が帰ってきてから一番風邪の状態が悪く、おまけに妻の里帰り中のびのびとしすぎて昼夜逆転をしていた。寝たいのに寝れない。昼間働きにいっても、体調は最悪。幸い、昼に出る勤務のシフトが多かったため、昼間で寝ることはできたが、逆転を直すきっかけが無く、妻はイライラしていたし、風邪はいっこうに治る気配がなかった。
 おまけに、院の入試のための準備で研究計画を作成したりするが、心も体もナーバスになっていて、まとまらなくてイライラしていた。運動はできないし、子供は熱を上げるし(2日で下がるが、その時の気持ちは、パニックを通り越して、神経過敏で錯乱一歩手前であった。)
 しかし、風邪も治り、研究計画書も一応、先生に送付して添削を受けるまでになり、朝に起きるようになり、こうして日記をWEBに載せるほどキーボードを打てるようになり、やっぱり心も体も健康なのが一番なんだナァと再確認するにいたった。

 研究計画の添削が戻ってきて、かなり手厳しい指摘を受けた。しかし、自分のためであるし、無償で添削してくれているので、手厳しいのがかえって嬉しかったりする。学生の時のように、たくさん時間があってじっくりと論文とか読む時間がないだけに、大幅な書き換えはプレッシャーではある。その途中で、他の願書の書類も揃えないといけないし…。もっとも、それは、通信を受けるときに覚悟を決めていたことだが、あわてて、パニックにならないように、一つ一つこなしていこうと想っている。

02.2.14 仙台に行く
 旅行の次の日に仙台に行くが、できるだけ歩くように心がける。今回は、院の研究計画書を先生に直に見せに行くのが目的で、あと、各種必要書類を直にもらいに行くのも目的である。FAXや電話だけでは、いまいち不安になるあたり、アナログなんだろうか?でも、会って、先生と書類を見ながら直に話せたので、いった甲斐があった。

02.2.25 完成!
 大学院試験の資料が終了!
 前日先生と最終的なチェックをして懸案であった「研究計画書」もまとまり、プリントアウトをする。
 ますめに沿って入れることは難しい。紙の場合は、1ミリずれただけでガタガタになるし、プリントの下のサイズによって文字や行が入ったり、入らなかったり。あらかじめ罫線が引かれているので、そこにジャストで入れることは結局できずに、まぁ、妥協の産物でどうにか入っているように見せることができる。(数字や点でも微妙にずれる)
 なにはともあれ、長かった資料作成や書類も封をして後は送るのみ。ふ〜フキフキ "A^^;

02.3.8 卒業式など
 明日、院の試験があるのだが、卒業式に出るようにいわれ、仕方なくでることになる。私の施設は知的障害児なので養護学校の卒業式に行く必要がある。
 卒業式は、午前中だったので、15時過ぎに早退して試験の準備をして仙台に行く。たまたま、友人(空手仲間)も休みであり、友人の家に泊めてもらう。もう試験勉強はしたくなかったし、実際あんまりやらなかったが(ファルコムの「英雄伝説」をずっとやっていた)、今更という気もして、ビールを飲みながら格闘技の話なんかをしたり、ジュブナイル小説の話をしたりした。少し、「月刊福祉」をながめて3時頃に就寝した。

02.3.9 大学院試験
 少し早く友人の家を出て、バスに乗りタクシーで大学まで行く。待合室にしていいよといってくれた学内で働いている友人はすでに来ていた。おじゃまをして、コーヒーを飲んでバカ話をしているうちにアッという間に時間になる。
 試験会場は10人の定員に対して56人受けに来ていた。そして、かなり年輩の人とかもいて、みんな自分よりも真剣にやってきているように思った(ファルコムの「英雄伝説」…)。しかし、通学に院の試験を2回失敗していることもあって、逆に気負いはなかった(そういえば、通学制の時も試験ギリギリまで遊んでいたナァ)。
 こんなにたくさんの人が受けていると、誰が受かるかなんてほとんど分からない。私の場合、学内の事情とかコネとか若干あるが、しかし、この人数の中に私以上に優秀な計画書やコネ、社会的地位があれば、必然的にこぼれるわけだし…。まっ、選ぶのは私でないので、どうしようもないが。

 最初の2時間は論述式の試験で、6問中2問を選んで書くもの。たった2問なのだが言葉がうまくつながらず、苦労してギリギリまで書いていた。しかし、あんまり書けなかった。
 その後昼食で、友人がうどんをおごってもらい。その場にいた教授や後輩とあれこれ話している内に、すぐに時間がたってしまった。
 午後からは面接で、私は受験番号が早いほうで始まってから20分後に自分の番になる。5人の集団面接で、面接官は二人であった。そのうちのひとりは、妻が以前に学内で働いていたときのセクションの教授で、もうひとりが私が仙台で習っている空手の道場に子供を連れてくる教授であった。私は、5人のうち3番目でひとりずつどのような研究がしたいのか、動機などを話していった。そして、一通り話し終わった後、それぞれに質問を教授がしていくのだが、私の時は素通りしていき、最後にその空手の教授が「kumaくんは、空手で子供がお世話になっているから…」「どうして、秋田から来れるの?」と質問される。思わず、あごが落ちで、イスからずれ落ちそうになった。確かに2年前に、一度挨拶したけどさ〜。周りの「ハ〜」といううなずきがどうも私の居心地を悪くさせた。教授にしてみれば通信だと、定期的に来れることが条件になるそうで、空手のついでに指導教授とかそういうこと気楽に考えてほしいとでまとめていたけど、びっくりであった。フキフキ "A^^;

02.3.15 合格!
 宿直で家にいなかったが、今日は院の結果発表の日である。妻に電話で確認をすると、大きい封筒が来ているといわれる。どうやら、合格したようである。良かった。これで、なんとか結果を出すことができた。
 通学制の時は2回落ちているので、3度目の正直ということだろうか。親しい職場の人に話したら、「うちの職場にいるの?」と素っ気なかったが、まぁ、合格した。仮に卒業しても、給与体系にはなんにも考慮されないが、自分のために頑張るつもりでうけたのだから、そんなのは関係ない。
 大学院に関しては、友人とも話したが、シェアウェアのソフトを自分のコンピューターに組み込むようなものと考えている。いまさら、CPUやROMのスペックを交換するわけにはいかないが、シェアウェアのソフトを引っ張ってくることはできると思っていて、そのツールを媒体にしていろんなものを考えてみるというわけである。
 なにはともあれ、始まりの終わりであった。

02.4.6 入学式
 福祉大での入学式に参加する。何年かぶりに学生証というものをもらう。この日も快晴で、サクラも咲いているし日和はよい。妻から、入学式ではミラーボールが回るという話を聞いていたが、大学院は大ホールではなく、なんだか小さな一室に通され、スクリーンで、学部の入学式の様子を見るという何とも扱いの低いものであった。
 「青葉城恋歌」の佐藤宗幸が福祉大の校歌の指導を行う風景や学長が「こんにちは」なんていうのを見たりした。式自体は30分くらいで終わる。ガイダンスまで2時間以上時間の空きがあったので、いつもの研究室に顔を出す。
 ガイダンスは、とても長いものになった。はじめは、簡単な紹介や今後の学校側の展開などを中心に心理と社会福祉の合同で行った。そのあとで、学部に別れて茶話会のようなガイダンスが始まる。私は精神保健関係で研究していきたいため、精神保健の分野の先生のところに座る。その後、延々と先生と生徒の自己紹介が続き、2時間近く行っていた。とくに、ご年輩の先生は話が長くて、困ったものである。その後、簡単な授業の進め方の話があり、やっと質問ができた。主にスクーリングのことについて私はしつこく質問をして、何とか納得に行く答えを引き出すことができた。
 ガイダンスが終わり、家に戻り練習に行くまでほとんど余裕がなくバタバタと荷物をまとめて友人の車に乗り込む。練習は、師範(館長)が不在でその替わり、学院長が教えていた。
 練習が終わり、私の入学祝いということで、友人たちが夕食と飲み、そしてカラオケでもてなしてくれる。1軒目は、前から行きたいと思っていた中華料理屋に連れていってもらう。餃子がメインだが、結構本格的な品揃えであり、たのんだ品物によるんだけど、とても辛いもののオンパレードで、汗をかきかき、ビールを飲みながら食べる。2軒目はカラオケ屋であった。結局3人で3時間以上歌ってしまい、終わったのも朝の3時であった。男3人なので、何も恥ずかしいことはなく、自分の芸域を広げるために歌ったことのないものなどにチャレンジをしたりした。おもに、絶叫系が多かったような気がする。
 友人の家に帰ってきたのは4時過ぎで、3人とも疲れ切ったのか、あまり話もなく自然に眠りについた。

02.4.27 ご冥福をお祈りします
 大学院のテキストが送られてきた。その中に、私がいろいろと入学に関してお世話になった先生が、ガイダンス終了後に急逝したと書かれていた。詳しくは、3月9日のやりとりに書かれているが、空手に子どもを連れてこられていたので、前から面識はあったし、好ましいと思ってもいた。そして、何より、ガイダンスの時に、頼み事があったら私に言いなさいとか、館長(空手)とは昔からのつきあいで、あなたを落としたら館長に失礼だとか冗談を言いながら、これから娘を空手に連れていかないといけないからと明るく去っていったその途中で急逝したということを知り、何ともいえない悲しい気持ちになった。

02.5.5 お休みということで…
 一般では、大型連休と言うことで海外などに行っている人もいるらしいが、私の場合は、2連休であった。さすがに、お勉強をしないといけないと思い、子どもや妻を置いて図書館にエスケープをする。
 久しぶりの図書館であり、学生の頃から図書館は本を借りるところで読んだり勉強する場所と思っていなかったため、やっぱり息苦しかった。しかし、少ない時間で集中して資料を集めないといけないので、かなり急ぎながら、斜め読みをして基礎資料を集めまくった。そのため、アッという間に時間がたった。

02.5.13 勉強ができん
 このところ、満足に本などを読めない。どっかでやらないといけないのは分かっているし、何かを犠牲にしないといけないのも分かっているが…。通信制だと、結局一人でやらないといけないし、授業を受けるわけでもないから与えられた課題と本当に合致した内容で思考しているのか考えると、心許ない。
 その一方で、修士論文の資料を集めないと行けないと思ったりして。また、仕事はそうでもないが、家に帰ると、育児の補助をしたりするとアッという間に時間がたってしまって、まとまってやろうと心に固く決めないと本当に流されるままになってしまう。レポートの一本でも仕上げて、了承してもらえれば少しはペースを掴めるのであるが…。育児と勉強と仕事とスポーツと、バラバラでどうにも手につかない。というわけで、全てから逃避して、午後一杯パチンコをして自爆していた。(..;)

02.5.18 仙台へ
 昼前に妻と子供を連れて再び大学に顔を出す。今日は、指導教官でありいつも世話になっている先生と会う約束をしていた。忙しいということであまり話し合うことができなかったが、私が妻と子供を見せたいということもあってそれはそれで良かった。しかし、修士論文とレポートと両輪でやっていかないと2年間では卒業できないよといわれた。フキフキ "A^^;
 その後、いつもの研究室に顔を出す。たわいのない話をしたりする。ここに来ると、卒業して妻とはまだ友人のレベルの時からのつきあいだけに、時間が少し逆戻りする。楽しかったナァ

02.6.28 鬱々
 この頃、なんだか疲れる。まぁ、原因は大学院のレポートと修士論文のほうが遅々と進まないせいである。そして、いまいち、生活のリズムが掴めないといういらだちがある。焦るばかりで、結果が見えない。運動しているときも寝ようとしているときもレポートと修論のアイディアばかりを追っていて、形にならない。あれも調べないといけないとか、もっと文章を練らないといけない、そのためには、あれもしなければならない…と堂々巡りになる。
 おまけに、知識不足からもっと読み込まないといけないし、実情を知るためにもリサーチをしないといけない、もっとアクションを起こさないといけないとか…。しかし、子供をほったらかしにすれば、なんだか後ろめたい気もするし、一緒に遊んでいるときの幼子の笑顔を思えば、寝るまでつき合ってしまう。妊娠している妻のために何か役立つこともしたい。
 その一方で、運動もそれなりにして、仕事でもノルマの他に事務的な仕事もこなして…。友人とも時々あって交流もしないといけないし…。と何でもかんでも中途半端で、しかし、卒業するためには、月に2本はレポートを書かないといけないのだが、もう3ヶ月も経つのに1本も書けない…。

02.7.15 レポートを提出する
 長らく暖めてきたレポートをやっと出すことが出来る。電子メールで添付したので簡単であった。というのは、こちら側の都合で、大学の事務の方はなかなかメールのマナーとかやりとりになれていない様子である。
 たとえば、添付しないといけない書類を送り忘れたり、送った欠席届などの受理に関する返信メールを送らなかったり…(まぁ、そういうほどレポートが仕上がってはいないが)要するに、こまめさが身に付いていない様子。メールでやりとりする人が、通信教育とはいえそんなにいないはずだし、作業的にはそんなに困難ではないと思われるが…。それと、受講生のメールアドレスなど教えてくれると横のつながりが出来てすごく勉強しやすいのだが、掲示板とかもなかなか作れていない様子なので、その辺もやってほしいものである。

02.8.12 仙台へ
 妻と子どもを連れて、仙台に行く。妻の実家に身を寄せて、これから15日までスクーリングがはじまる。準備はしっかりしてきたので、心配はしていないが…
 この日は、すごい大雨で、私たちが乗る前納新幹線が運休になり、全席自由席となる。なので、2台分の乗客、お盆期間、とすごい込みようであった。しかし、何とか座ることが出来たが、田沢湖と盛岡の間を35キロ以下で安全運転で走行されて、気が狂いそうになった。どこの世界に、新幹線が35キロで走行するのだろうか…
 しかも、この日は、私は宿直明けで、30分の身支度で飛び出してきたので、眠いやら気持ち悪いやらでどうしようもなく機嫌が悪かった。また、修士論文の指導を先生にしてもらう約束をしていた。
結局、先生との約束にはギリギリに間に合ったが、それにしても大変な一日であった。

02.8.13 スクーリング
 13日から15日まで精神保健の演習が集中で行われた。はっきり言って眠かった。だって、エリクソンの読み合いなんだもの。一般の社会人を対象に、大学院の演習でエリクソンの本を読みあう…いったいどのくらい意味があるのだろうか。
 精神保健ということで、PSWとか現場で働いている人たちがいるのだから、もっと、現場の問題や課題などを掘り起こして、より学術的な意味づけをしてほしかった。14日は、演習できている人と教授、事務室の人と飲み会を行う。こちらは、リーズナブルで、満足のいく内容であった。また、14日は、福祉大にある、感性福祉研究所というところで演習を行うが、ばかでかいMRIやら音響のシステム、居住空間など、いったい、その設備に伴う研究は出来ているのだろうかというくらい、金満研究所であった。
 しかしながら、一応3日間、演習や修士論文のための先生との打ち合わせなどを通して、色々と思うところはあったので、良しとしよう。

02.8.16 精神病院に訪問
 スクーリングから帰ってきて、午前中は仕事をして、午後から市内にあるI病院に訪問する。いつもお世話になっている救護施設の園長補佐の紹介による。医療相談の室長であったが、見た目は若いが多分40代であろう。
 病院の取り組みとか、実際には知らないのでとても参考になる。精神障害者の実際の制度上の動きとか扱いとか、ケアとか…もっとも、自分は、救護施設で働いて精神障害者との関わりはそれしか知らなかったので、全くの無知であることは自覚していたが…ある意味新鮮であった。

02.8.20 精神病院に泊まる
 15日まで仙台でスクーリングを行い、16日は精神病院に訪問、17日は朝から仕事、18日も朝から宿直で、19日に帰り、20日、今日は精神病院に宿直実習を入れる。21日の10時にお役後免になり、その日の昼から再び自分の施設での宿直が入っていた。22日に宿直明けで、昼食は少し豪華に2000円の特別定食(中華)を食べたが、滅茶苦茶おいしかった。
 病院での実習では、いきなり午前中から閉鎖病棟であった。保護室、保護室を見る白黒のモニターなどリアルであった。閉鎖病棟は、思ったほどくらい印象はなく、穏やかであった。と、その時は思った。しかし、午後から開放病棟にうつり、やはり空気は閉鎖病棟の方が重いことを知る。夜は、痴呆老人の棟であったが、精神病棟よりもホッとしたことは確かであった。次の日は、開放病棟で打ち合わせを聞いたりする。そして、病院の敷地内を出ると、かなりホッとして、私の施設での宿直がいかに平和なのかを知る。さらに、宿直明けで、家に帰り風呂に入り、ゆっくりとおいしいご飯を食べると、いかに、病院、施設の飯はまずいことを知る

02.8.31 仙台に行く
 再び仙台に行く。今回は明日に妻の祖母の三回忌に出るためであった。この日も宿直の明けで、午前に帰ってきて、午後の3時に秋田を発つ。はっきり言って、頭が痛くて、途中で眠りそうになる。しかし、妙に体は覚醒していて、寝れない。仙台につく頃には夕方を過ぎていた。(途中で迷って大幅につくのが遅れる)久しぶりに子どもに会う。元気いっぱいで、かわいがられていたのが分かる。この日は、疲れまくっていたので、すぐに寝る。
 日曜日9月1日は法事であったが、ほとんど子守り状態であった。
 次の日は、大学に行き、修士論文の計画書の提出をして、いくつかの文献を買う。金欠なのでちょっと、痛かったが…しかし、TRPGのサプリメント「ガン・フロンティア」と「妖魔綺譚」とTRPGの雑誌を迷わず購入。全然痛くなかった。そして、その日の午後に秋田に3人で戻る。ついたのは8時前であったが、出来合いのものを購入し簡単に夕食をとり、お風呂に入って3人で久しぶりに寝た。

02.9.10 レポートが返ってくる
 はじめてレポートが返ってきた。それも「優」である!そのレポートは、結構気楽に簡単に書いたレポートだっただけに、今後の作成が随分楽になる。妻に、このレポートが優で返ってくるということは、告白をして、相手に今後も是非おつきあいしてくださいと言ってくれているようなものだよ、と言ったら、鼻で笑われた。でも、すごく嬉しかった。

02.9.25 レポート
 レポートが一つまた仕上がる。良いペースである。どんどんと進めていこう。来月からは、修士論文の作成のために10日は割かないといけない。その一方でレポートも2課題のノルマで仕上げないといけないし…

02.10.7 近況
 この頃、かなり面倒臭くなってしまって、大学院の日記に更新をかかなくなる。でも、レポートはかなりスピードアップする。今回は、作成時間4時間くらいであった。指定図書をちょっとテキストにおこした後は、Googleからサクサクとキーワードを打ち込んでサイトを引っこ抜いてマクロでタグを外して、整形してアウトラインに張り付けてから編集。あとは、文脈を整えて完成と…。ほとんど著作権は無視ですな。というか、ネット上に公開されているものは商業的に転売行為をしなければ、共有するものであると思う。そして、作成したものはまたネットに還元する。そして、そのレポートを見て誰かがそのままテキストにおこすのも良いし、参考にして付け加えて積み重ねても良いし…。

02.10.14 レポート作成
 本当は、今日麻雀をする予定であったが、どうしても一人集まらずにできなかった。今日麻雀をするということで、昨日家族サービスをしたつもりであったが、ふたを開けるとレポート作成であった。
 大学院を2年で卒業するためには、逆算すると一ヶ月で2本のレポートを作成しないといけないが、11月に先生に修士論文の第一回の原稿を見せないといけないため、実質2週間くらいで作成しないと、修士論文が書けない計算になっていた。ということで、あちこちから本を読むというか、使えそうな文章を片っ端からチェックして、WEBでそれらしいものを切り取りして、コピー&ペースト。前に、雑誌を編集していた友人が話していた、雑誌づくりに近い状態である。片っ端からスクラップして…

02.10.27 学会
 大崎から池袋におりてきて、西武線で清瀬まで行き、バスに乗って学会の場所の大学に行く。9時からはじまっているが、少し遅れていく。学会では、要旨集といって分厚いレジメが手渡されるはずであったが、二日目から参加ということで、なくなってしまったといわれ、もらうことができなかった。秋田から新幹線で来て、おまけに参加費として3000円払って、要旨集をもらうことができないとは…。
 この要旨集は、学会を聞く上ではすごく必要なもので、学会の発表者はこれをもとに発表するため、ただ聞くだけではいろんな意味で端折って説明をするため、かなり不便である。なにより、はじめての学会の参加でこれは痛かった。
 発表時間は質問を入れて一人30分であったため、飽きることなく次々と聞くことができる。発表内容はあまり覚えていないが、面白い発表とそうでないものの区別が何となく分かる。ただ調査してきたものはつまらなく、独りよがりでバランス良く自分の研究を目配せしないで断じるものは容赦なく突っ込まれる。面白い発表は、メッセージ性が強く、論考がしっかりしていて、なにより聞き手に何かしらの問題意識を持たせるものであった。また、しっかりした発表は、論考がしっかりしていることと、よく調査していること、そしてバランスがよいことである。(面白いと思うわけではない…問題意識を刺激するには到らないから)
 学会では、友人と東北福祉大学の教員が何人か来ていた。一人で午前中聞いていたので、こうした場所で知り合いがいることは何となく心強い。

02.11.18 レポートについて
 どうも、この頃レポート作成に対して食傷気味でなかなか筆が進まない。その理由として、返ってくるレポートの講評は結構シビアなのだが、これに対してレスポンスをする機会が通信ではないから、言いたいことはあるんだけど、話す機会がないのである。
 また、結構レポートも枚数的に折り返し地点に差し掛かっている。これまでの苦労を考えるとまだ半分かという意識も強い。時間的に考えても、結構きつい。修士論文は原稿用紙で100枚くらい。月に10枚から20枚作っていって行かないといけないことになる。そのためには、今あるレポートをできる限り消化して行かないといけない。しかし、講評はシビアで心を寒くさせる。あいにく、再提出にまでは到らないが…

02.12.24 イブなんだけど…
 私の誕生日であったが、妻と子は実家に帰っているので、仕方なくレポートを朝から推敲していた。4時ぐらいに仙台に行くときのおみやげを買ったりたこ焼きを食べたりし、帰ってきてから少し運動をする。その後またレポートを推敲し、11時ぐらいに終えて、大学にメール送信をする。その後は、少しゲームをして…と平穏な一日であった。妻から電話があったが、タイミングが悪くて出ることができなかった。多分、これまでのイブの中で一番地味だったと思われる。

02.12.26 仙台に行く
 高速バスで行くのだが、この日に限ってかなりの雪が降り、次の日は運行中止になるほどであった。(新幹線で帰るが)
 向こうの家では、あなたが来るときはいつも雨か雪だネェ〜と言われる。もっとも、いく前の日まで常に晴れているが、私がいくときに限って霧や小雨、大雨、雪に見舞われる。ほとんど定番になっているようだ。仙台も雪が降っていた。
 院の指導教員とお話をするのが目的であったが、なかなか連絡が取れずに流動的であった。前日は、職場のクリスマス会で夜遅かったため、留守電に何回か連絡を取るようにと催促の電話があったほどであった。
 この日の話し合いでは、問題意識や結論をどこに置くのかをまとめておくようにということで、前日にこれまでのことをほとんどメモ書きの寄せ集めのようにまとめて渡した。結局、先生との話し合いで、一つの結論が出たように思う。

03.1.7 レポートなど
 久々に、普通に出勤する。しばらく休みすぎて、別に忙しかったわけではないが、疲れてしまった。
今年度の単位習得で3科目がレポート試験となっている。まぁ、時間を逆算して今週中には一本上げなければいけないということで、取りかかっているが、試験と言うだけあって、アドバイスも何もなく、すごく抽象的な論題、しかもこれまでのレポートの1.5倍から2倍の容量〔枚数〕を要求している。統合失調症の医療・福祉について述べよ。6,000字。ライフサイクルについて述べよ。8,000字。とりあえず、1月中の宿題である。(そういえば、修士論文のレジメ2,400字もあったな…)
 統合失調症についてはなんとか構成ができたが、打ち込みがまたしんどい!打ち込んでいる最中に断続的に、叫んでしまう。もういやだ〜と。(実際は、あ〜〜っだが)

03.1.27 大詰め
 とりあえず、修士論文のレジュメを体がぼろぼろになりながらも作成して、土曜日に速達で先生に提出。今日、訂正、添削したものがFAXで流れてきて、それを見ながら宿直であったが、先生に電話をしていくつかの質問をしてめどを立てる。それまでの日々は本当に最悪であった。
 というのも、またまた、ファルコムのゲームを中古で入手し、ほとんど引きこもりのように家でずっとレベルアップを目指していたからである。その一方で、レジュメも煮詰めないといけないし…22日に帰ってきて23日は休みをもらっていたが、朝からずっとゲームをして、レジュメにとり組んだのが深夜1時。そっから5時までやって、寝て、24日朝から勤務。帰ってきて仮眠を取って、ゲーム→レジュメ朝の5時。朝起こされて、25日駅まで両親を送って、レジュメを速達で出してから遅番に出勤とハードというかアホな生活をしていた。おかげで運動もできないし。できる体力も奪われているし。
 RPGは生活の敵だ!でも、まだやっていないRPGが一本あって、それもネットオークションで安く入手…したものである。

03.2.16 全くひどい!
 宿直から帰ってきて、以前に出していたレポートが2題返ってきていた。このレポートは4,5ヶ月前に提出したきり、再三の催促に関わらず、返ってこなかったレポートであった。(普通は1ヶ月前後で返ってくるルールなのに)
 で、中身を明けたら、大変文献を読み込んでいらして…うんぬんと褒めておいて、文献のページなどを添付してくださいと「再提出」となっていた。何かの間違いかナァと思って、もう一つも明けたら、同じようなことが書かれていた。思わず、うなってしまった。憤怒で破きそうになった。
 内容の良し悪しで書き直しを要求するのならまだ許せる。しかし、内容はとてもよいと書いておきながら文法上の指摘で、4,5ヶ月も待たされて再提出を求めるとは!しかも、あまり読んだ形跡もなく、論述に対する指摘もなく、自分の課題に対する研究成果などやアドバイスも何も講評されず、殴り書きで同じように評価しているとは!それも今年度は後1ヶ月で終わるというのに!これは、私の妄想であって欲しいが、教授の弁「私は、忙しい。だから、今年度の単位習得の口頭試問はしません」という意図を感じる。一般的に考えても非常識だ。学生に対する冒涜だし、不利益を被った。この不誠実さをどこにぶつけて糾弾できるのか。そう考えると、あまりに学生の権利は守られていないんじゃないだろうか。とりあえず、学生課に陳情し、機会があれば指導教員にも話し、場合によっては学部長にでも投書するか。それにしても、本当に腹ただしい!

03.2.20 ブラッと飲みに行く
 今年度に仕上げないと行けないレポートもやっと終わり、けれども誰も遊んでくれないので(友人は皆忙しい…)本屋に行ったり来たりするのにも飽きたので、ブラッと一人で飲みに行く。
 無性においしいカクテルが飲みたくなるときがある。レポートにすごく難儀したこともあって、カクテルがおいしい。マルガリータにはじまり、ウォッカベース、テキーラベースで3,4杯空けて、最後はカシスソーダで終えた。ほろ酔いで、ふと空を見ると、久しぶりに星が見えた。秋田の冬はいつも雲に閉ざされているだけに、オリオン座が大きく見えた。オリオン座ってこんなに大きいんだナァと思った。他には北斗七星、ベガ、スバルぐらいしか知らないけど…、チカチカと星が光っていました。

03.3.2 仙台にて
 金曜日(28日)は、実家に行く前に大学の論文指導教員に会いに行く。今回は、レポートに難儀をしたため、研究はしていなかったが、先生にまさか「まったくしていません」と言えず、「●●の本を精読しています」といったのが運の尽き!パラパラッと読んでいなかったので、先生のつっこみが背筋を走り、脂汗ダラダラ、しどろもどろとつるし上げられた。(と罪悪感と後悔から私が思っただけかも)

03.3.9 東京にて
 一日目は国会図書館に直行して文献を漁りました。いいですネェ〜国会図書館は。検索性、レファレンスが充実して、紀要の中の論文までキーワードで拾ってくれます。おまけにページまで付記されている丁寧さ!古い文献はいらないので、サクサクと検索して、予約して、コピーを取りまくる。待っている間は、膨大なデータベースから本をチョイスしていればいいし…コピーした文献を読んでいても良いし。検索した論文を所蔵している紀要の中にも結構面白い論文とかがまぎれていたりして…今回のヒットは、獨協大学の経済学部の名誉教授たぶん70から80才のおじいさんが書いた「「あしたのジョー」のあした」を読むというへんてこりんな論文。(他の論文は、ガチガチの経済の分析なのに!冒頭でいきなり!)アニメから漫画まで揃えて、あしたを哲学していました。それもすごく真面目にして、詳細に。力石徹の社会的な立場や矢吹丈の宿命、葉子とは何か。寺山修司が作詞した内容について、また、力石徹が亡くなったときにわざわざ、出版社を使って寺山修司が葬儀を行ったエピソードまで熱く語っていました。で、論文のしめくくりは、「あしたって何だ。」です。う〜ん、そんなおじいちゃんになりたい。

03.3.21 仙台にて
 20日に有給休暇をもらって、21日と一泊二日で仙台に行ってきた。20日は論文指導、21日は単位習得試験の口頭試問であった。

 論文指導の先生と打ち合わせは、前回の打ち合わせで、午後から会う予定であったが、前日急遽、午前中でしか時間がとれないということになり、新幹線で行くことになる。はじめは車で行くつもりであったが、レポートが全然まとまらなかったため、遅くまでかかること。また、二日前から急に寒くなり、雪が降ったことから、新幹線となった。前回のように何もまとめていなかったわけでなかったため、建設的に話すことが出来た…と思う。その後、久しぶりに、学生の頃よく食べに行った餃子屋に行く。おじさんは相変わらず、黙々と餃子を作っていた。しかし、やっぱり年を取ったナァと思った。
 21日は、午前中に墓掃除を手伝いに行く。結構墓掃除は時間がかかって、あまり準備が出来ないうちに口頭試問をしに行くことになる。試験は、1時間の予定が、結局3時間におよんだ。もっとも、口頭試問と言うよりもスクーリングという感じであったが。

03.5.1 仙台へ
 院の口頭試問と論文指導のために朝の6:02の新幹線に飛び乗り仙台に行きました。で、結果として、あんまり身にならない仙台行きでした。結局、16:38の新幹線で秋田に戻ってきて、少しパチンコをしたらちょうど新幹線代が浮いたぐらい勝った。
 院の口頭試問は10時から11時であったが、先生が遅れてきた上にくだらない雑談で20分もオーバーし、その後に論文指導を受ける先生は、試問が終わった後に急いでいったが、すでに所用でいなかった(結局会えず)。一応資料だけは試問の前に渡していただけにがっかりであった。その後、いつも立ち寄る研究室でお茶を濁し、餃子を食べ、喫茶店にいく。久しぶりにマスターの奥さんと会うことが出来た。

03.5.13 レポートを終了する
 一応、残りの一教科のうちの一課題を仕上げる。論文の指導教官の科目で、気楽に書いていいよといわれているが、それだけにプレッシャーとなって悩みに悩みまくった。社会福祉学の課題について述べよ。というあっさりとしたものであるが、それだけに何をまとめればいいのかさっぱり分からなかった。しかし、なにはともあれ、終わった。あとは、3レポートをアップすれば終了である。そして、やっと論文だけに絞って書くことが出来る。あと、一息である。

03.5.23 レポートを上げるなど
 単位習得試験のレポートを上げたが、それにしても後二つと思う反面、もう二つも書かないといけないかと思うと結構うんざりする。レポートを上げたとしても、だいたい12月には論文を上げないといけないので、月に8000字以上は書かないといけないし、調査なんかもして膨らみを持たせないといけないと思うと、何だが疲れる。

03.6.28 レポート提出
 ようやく試論らしきものを指導教員に提出する。修士も今に詰めないと大変なことになるので、結構熱が入った。妻にも読ませると、前のレポートよりもずっと良いと話してくれる。妻は、一番の読者で、分からないものは分からないというし、つっこみ所満載ねとか、努力賞とかつれないが…たいていは、いいんじゃない?と言うぐらいで、あまりリアクションがないが…読んでくれる人がいると言うことは、とても緊張する。分からない人には分かるように、分かっている人にもしっかり読めるようにと考えるので、展開はシンプルに分かりやすい表現で、しかもきっちり裏をとる(調べる)ということが鍛えられる。
 ここ数日、相変わらず色々あって、ローテンションだったが、やらないといけないということで、ブツブツ言いながら、思い立ったときにはメモを取り、思考が止まらないときは3時4時コースだったが、まとまってみると結構嬉しかったりする。まとめてもまた、この辺が弱いナァとか、何とか裏がとれないものかとあちこちに触手を伸ばしたりと思考は止まらないのだが…郵便局に提出して、ちょっと安心…

03.7.28 レポートが終了!
 悩みに悩んだ最後のレポートがやっとできあがる。これで、修士論文に取りかかれるというものである。このレポートはすごく難儀した。夢にまで見たし、職場でも仕事の合間に思いついたことをメモに取るなど(その枚数は20枚を超える)、頭から湯気とショートした電気の焦げが見えていたことであろう。
 妻にも一回ダメ出しをくらっていたので、まとめ直し、あれこれと言葉遣いから分からないところは削除し、説明が足りないところは付け加えたりと、下手な粘土細工のようでもあったが、一応形が出来た。妻にもまぁよめるンじゃないかナァといわれ、完成である。いずれにしろ、読者がいてくれるということは、一つの基準ができて良いことではある。

03.8.10 暗黒の1週間
 妻は仙台に里帰りをして、独り一週間過ごすことになる。厳密にいえば、親はいるが…。で、なぜ妻の実家に行かなかったかというと、論文をある程度書き進めて、先生に見せることが出来るくらいに作り上げないといけなかったからである。
 先生には、「いつ、いつまで出来る予定です」といつもハッタリをかまして、最後はほとんど投げやりに仕上げるパターンであったが、今回は資料が揃っていると思っていたのが余裕を生んでいた。しかし、それは大きな間違いだった。まず、統計の項目がそれぞれの調査機関によってまちまちであり、論理的に結びつけていく際に、その調査の意図や対象を明確にする必要があること。また同じ調査機関でも項目によって取り扱いが違って、リンクしないこと。さらに、数値におかしい流動性があって、どうも操作した疑いのあるもの。もっとも、統計とは操作と紙一重なので、了解済みであるが、それを峻別するのが大変であること。
 ほぼ妻が帰ってくるまでの一週間、どこにも行かず、妹が帰ってきても、おじいちゃんに家に家族が行っても独りで、昼に起きては、もそもそとそこら辺の食べ物を食べて、明け方まで統計とにらめっこしては、苦しんでいた。唇にはヘルペスが出来るし、口の中もタバコの吸いすぎでパンを食べるのも痛かった。一日、ブラックコーヒーを1リットル以上飲んで、座りっぱなし…
 でも今にして思えば、こうでもしないと、書けなかったと思う。お盆中も県庁や図書館に行って資料の裏付けを取ったり…おかげで、論文のリズムは出来たと思う。これまで、レポートは書いていたけど、論文一本になってさて、どうしようかと筆が止まっていただけに、良かったと思う。今回は、統計の裏付けに終始して、その統計についてねっとりと考察が出来るまでエネルギーが回らなかったのが残念である。そして、最も恐れていること…やり直し!全くダメです!と言われること…言われると…たぶん今年の卒業は難しい…

03.8.22 やっと提出する。
 苦しんだ論文の一部を提出する。親父に論評してもらったり、妻からもいくつかの助言をもらったりして、まだまだであるが、何とか体裁を整えることが出来る。
 この期間楽しかったこと、パチンコに一回行ってちょっとだけ当たったこと。妻がいない間に、一回だけ中華料理屋さんに行ったこと。友人とも会えずに、独りでレポートを書き続けたお盆〜夏休みであった。しかもまだまだ出来ないし…あと、割と定期的に運動が出来たこと。これは大きかった。一回、家に帰ってから運動をしに行くと、色々と制約があるため、仕事が終わってから近くの公園を走ったりすることにする。

03.8.27 友人の家から大学まで
 前日の夜に仙台に高速バスで行く。仙台に着いたのは20時30分くらいで待ち合わせが21時30分だったので、21時まで本屋で時間をつぶして、そこから30分は腹ごなしとビールを2杯ほど。空手仲間のSに送られて、同じ仲間のHの家族の元へ。おじさんもおばさんも元気であった。直栽培したゴーヤなんかを食べながらここでもビールを飲む。かなりフラフラになってしまった。
 Hは23時頃帰ってきてかなり疲れていた。しかし、持ってきた「プエルトリコ」を説明しながら1回行う。さすがに、ゲーム慣れをしているので、すぐにルールを把握してくれる。しかし、SもHも朝早くの仕事なため、この1回が限界であった。SもHももう30に手が届くが、変わらない(私が一番変わっていないようだが)
 次の日(つまりこの日)は、先生に論文指導を受けに行く日であった。Hのおじさんに大学まで送られてくる。論文の指導の方は…またまた難題を突きつけられて、頭がこんがらがってしまう。モデルや構造を明らかにしないといけないといわれ…これまで散々モデルを作ってきたつもりであるが、もっと根幹になるものを…と言われ、もう何がなんだか…打ち合わせが長引いてしまったので、本屋に行く時間がなくなったためバス搭乗時間を1時間ずらして本屋に急いでいって、適当に漁ってくる。
 総じて、結構色々な人に迷惑やら失礼なことをしたんじゃないかナァと思って、ちょっとショボーンをしながら帰ってきました

03.9.9 論文のモデル作成
 この頃根を詰めて論文のモデルを作成していた。あちこちの文献のモデルを集めていたが、みんな微妙に違う。イメージも不明確なだけにモデルからイメージを喚起しようにもピンと来るものがなかった。それぞれのモデルの意図や実際を想像しながら、こうかな、あーかなとやっているうちにこのあたりかナァと思ったり…思考は止まらず、本当に眠くなるまでやっていた。さらに、モデルを提示している文献が極端に少なくなる。いや、多分たくさんあるんだろうけど、国会図書館があるわけでもなく、地方の一図書館と手元に集めた文献からなので、どうしても少なくなる。そんなこんなで、一応まとめたけど、ダメだろうナァ…。しかし、もう時間がない。
 次は、障害者の自立と障害者とは何かをまとめなくては…

03.10.13 三連休だったけど…
 体育の日だったらしい、11〜13日の三連休は、引きこもってひたすら論文の中間発表を作成していた。しかし、実際には二日間で…一日は、ゲームに費やしてしまった…。最後は、友人と約一年ぶりに飲む約束をしていたけど、どうしても間に合わなくて、先に飲んでもらっていたりした。で、飲んで帰ってきた後に、再びレポートをまとめて…この日の深夜にメールで発信してと、地味な生活をしていた。ほとんど昼夜が逆転していて、14日の早番はとてもつらかった。また、レポートがまとまった後は、エネルギーを使い果たして、疲れから風邪になってしまった

03.11.11 最近のこと
 最後に、論文の締め切りが近づいてきて、ややパニックになりつつある。図書館に逃げ込んでも統計の数字を拾っているうちに食傷気味になって停滞している。研究とは孤独というけど、周りにそうした雰囲気も何もないだけに、誰か私と学際的な事を話しませんかという気分になる。

03.11.22 ボードゲームを購入
 試合が終わってからは、ひたすら論文の作成のためにある意味仙人のような生活をしている。仕事、子育て、論文の反復だけ。楽しみなのは、30分くらいの本屋への寄り道ぐらいである。そんなこんなで、煮詰まりつつあるので、ちょっと物欲を出して、ボードゲームをいくつか購入する。といっても通販だから、どこに行くわけでもないんだけど。

03.11.26 練習<BR>  勤労感謝などを含み3連休だったが、例に漏れず図書館に逃げて論文作成なんかしていた。子供が小さいこともあっていつも逃げて籠もっている自分がイヤになる。興に乗らないと図書館でひたすらゲームをして時間が潰れる日には自己嫌悪増大である。そんなこんなで、物欲ばっかりもなんだからということで気分転換に練習に行く。

03.12.4 論文のこと
 残すところ後わずか。1月20日までに提出しないと行けないにしても、逆算していくとそう書ける時間はない。推敲やら付け足しやら参考文献、引用文献、表の手直しなどやることはいっぱいある。しかも、末期的なのが中身が前々埋まっていないこと。書いても書いても後から考えないといけないことがわき出してきて筆は止まるばかり。焦る気持ちとうんざりしている気持ちが同居してイライラはしているが、何一つ進んでいない…2年越しの論文だし、出来そうなものなんだが…これまで良い成績で納めてきたが、それがプレッシャーとなって降りかかる。論理的に破綻していないか。読みこぼした文献はないか…文脈はすっきりしているか…書くだけ書いて手直しをしていきたいが、ゴールははるか彼方だったりする。

04.12.30 年の暮れ
 12月は、いくつかの飲みがあったぐらいで暇を見つけては論文を書くために図書館通いをしていた。図書館が27日で終わったため、御用納めの後もパソコンをもって職場に行くか、実家の仏間に籠もるかで論文を仕上げていた。見通しは立っているが、期日に間に合うかは非常に心許ないところである。ひたすら書くのみである。

04.1.19 論文の提出
 やっと終わった〜!空白の1ヶ月であるが、それまでほとんど論文だけの生活であった
 9日に指導教員へ最終的な指導が入り、あとはひたすらレイアウトや穴埋めやら資料の整備などを行い、睡眠時間は4時間未満であった。15日まで全く出来ていなくて、ほとんど死にそうであったが、まとめていくうちに、17日くらいでほとんど終えることが分かり、18日に妻と製本をやって19日に提出となった。
 やっていって分かったことは、始まりの終わりに過ぎないと言うことであった。この論文を磨き上げて、バージョンアップさせていくことや他の切り口ではじめていっても良いし、全く別の論考することもできる。卒論が老人で、修論が生活保護と精神、今度は知的障害かナァと思ったり、生活保護についての切り口をもっと深めていこうかナァとか。または、卒論の方を構築し直そうかナァとか。ようするに、論文はきっかけに過ぎないし、思考の道具の一つであるということだろう。考え抜く、まとめる、創り上げる。苦しいけど、面白い。
 また、こうした題材で、妻や親父、先生、あるいは職場の人たちから吸収することが出来たし、批判や論評を通して書くことが出来た。それは、何かしら波紋を広げることが出来るし、その人たちもまた思考をする相互作用があるんだナァと思ったりして。
 いずれにしろ、今度はコンパクトにして、ぎゅっと詰まった感じに、仕上げたい。25枚で良かった論文があれよあれよで62枚に膨れ上がり、本当に提出できるのかやばかった。でも、終わった後の何とも言えない静かな充実感は何ものにも代え難かったりして。

04.2.3 論文が終わって
 論文はとっくに終わっているんだけど、終わってからしたいことをするゾーと意気込んでから、何も出来ずに時間だけが流れていっている。というか、何かしたいかと問えば、特になかったりするんだけど…インフルエンザの蔓延で仕事上、その対応に追われ、家に帰れば育児の手伝いに追われ、気づいてみれば朝になっていたりする。
 また、休日は家族サービスをするとアッという間に一日が終わる。買いだめしていた本も読めず、溜っている月刊福祉の整理とか、サイトの更新とかが全く出来ない。今にして思えば、よくレポートを書いて、論文を書いたものだと感心したりする。
 さて、徐々に運動をして、サイトを更新し…また、論文を書いていこうかな。

04.2.21 面接試験など。仙台にて
 論文の面接試験と言うことで、朝の8時に新幹線に乗って11時30分の試験時間内に余裕を持っていく。卒業論文の時は、かなりアットホームな雰囲気で行われたので、今回も出来は良いと指導教員にいわれていたので、リラックスして臨んだ。さらに、副査も顔見知りの先生なので、有意義なものになると思われた。
 しかし、実際に行ってみると、副査は指導教員(主査)の恩師。主査は緊張していて、いきなり厳しい質問。論文のタイトルは、「〜試論」だったのだが、「試論というからには壊さないといけない」「では、どの様にすればよいのか」なんて聞かれて、おいおい、作ったばかりなのに壊す話かい…いきなり壊すっていったってナァ…と面接試験なのに、しどろもどろ、頭の中にイメージしていたアットホームな雰囲気はガラガラと崩れ、梁に吊された気分で30分を過ごした。
 面接が終わった後、主査と話す時間があったが、先生は雰囲気はガラッと変わって「いや〜緊張したよ」って、私の方がもっと緊張しましたよ。食事をしながら、福祉の世界は、土建屋、行政の天下り、施設職員のためのものだった。今もその傾向は変わらない。家族、地域という言葉は実情を考えると安易に使うことは出来ない。という言葉は重かった。
 先生と別れてから、ついでに図書館に立ち寄る。これまで、院生用の書庫を利用したことがなかったので覗いてみる。これまで、検索は国会図書館で行って文献をコピーしていたが、こんな身近なところに膨大な資料やら論文が眠っているとは!かなり後悔しました。

04.3.19 卒業式
 私の大学院の卒業式…子供二人と妻と大学に行く。日本拳法で知ったHさんや、結婚式の時や大学院入学する前にお世話になったSさん、お世話になった指導教員、その他、妻が昔お世話になった人たちに挨拶回りをした。もちろん、社会福祉研究室のM先生や助手の人たちなど…言ってはいけないことなんだが、なんだか他人事のように感じていた。
 それは、卒業式でも同じで、特に感慨はなかった。妻に言わせれば、キャンパスで過ごしていないからだろうと言うことであったが、その前の卒業式でもあまり感慨はなかった。ただ、単なる予感かもしれないが、指導教員とは細く長くこの後もつながっていくような気がする。彼は、淡泊だし、ひいきはしない人である。単にそう振る舞っているだけかもしれないが、結構照れ屋だと思うようになったのは最近で、基本的に、教え子には自分の道を行けと言うタイプである。それだけに、離れがたくもあり、厳しさを湛えていると思う。
 卒業式では、広場でたくさんの在学生が卒業生を見送っている。一緒に子供と卒業式に参加したが、うろちょろするので、会場を出たり入ったりとして、忙しかった。学生証の引き替えに証書をもらい、大学内を歩いたが、やはり感慨はなかった。
 妻と子供を先に帰し、行きつけの喫茶店でいつものようにダラダラと話し込み、一回妻の実家に帰った後に大学院だけの謝恩会に顔を出す。実は謝恩会なるものに出るのは初めてであったが、ここでも違和感を感じる。まぁ、通信制ということで、卒業するまであったこともない人と話をするのもなんだかぎこちないナァと思いながら、結局、この謝恩会では、大学の助手、教員、通学制の卒業生、1年生を含めた会になっており、誰が助手で、通学制なのか分からず、いつしか、大学の職場の飲み会のような様相になっていた。謝恩会の名を借りた権威的な雰囲気、大学院を卒業することによって得られる名誉や権威へのステップ、酔っている振りのしたたかさ、学問が利用されている様を見せつけられた。指導教官は、ロビーまで来て私にあって挨拶だけで帰っていったことが分かるような気がした。

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