分裂分析的地図作成法

メモ
題名に惹かれて図書館から借りてきたのはよいが、わたしにとっては、高度すぎる代物であった。ニュアンスとしては、すごく魅力的であったが、系譜が分からないほどすごくオリジナルで、彼の思考を読み解くには、私には、全く出来ないものであった。しかし、最後の訳者の解説の部分は何とか「読めた」ので、掲載したいと思います。
私は、彼の今までみんなが思っていることや社会の仕組みはもっと柔軟に捉え直すことが出来るし、現在生起している様々な情報社会は、パラダイムの転換を引き起こす大きな道具であるという、希望。現代の芸術とはという読み解くための一つの見方を提示しているんだろうと思わせます。
なんにせよ、盟友のドゥルーズをとりあえず読むことから始めようと思います。それまでは、この程度しか「読めません」でした。

解説
序文
分析的地図作成法
記号的エネルギー論

インデックス



解説
主体性が新たな「機械への依存」を強化しつつあるというのが ガタリの問題意識である。このような主体性は、人間が機械と新しい相互的なつながりを作っていくことによって作られるというのが、ガタリの見通しである。それをガタリは「機械に入ること」と表現している。
そして、ガタリは、機械に入ることが決して新しい行為ではなく、すでに中世においても「修道士機械」があって、そこに人々が入っていったのだと説く。
しかし、本書でのガタリの議論に接していると、今思想の世界で問題になっているカルチュラル・スタディーズの問題意識とつながりがあることが感じられる。それは、主体性、もしくはアイデンティティが、何らかの中核のようなモノを基盤にして形成されるモノではないという認識である。ガタリが機械と読んでいるモノは、カルチュラル・スタディーズにおいて、「メディア・カルチャー」といわれているモノとつながっていると考えられる。(この場合の「カルチャー」は「文化」という意味をほとんど失っていて、「環境」を意味している)
もちろんのことであるが、主体性はあらかじめ与えられているものではない。それは形成され、「生産」されるモノである。それは現代においては、「情報・電子伝達的な主体性の生産」が求められている。また現代の主体性は、新しい環境の中で生産される。したがって、「機械環境と自然環境との関係において人間を根本的に位置づけ直す」ことが必要になってくる。
現代は「地球規模の情報化の時代」であり、そこにはマスメディアとテレコミュニケーションの発達、新素材の多様化、マイクロプロセッサーによるデータ処理、生物工学の発達といった特徴を認めることが出来る。(ガタリは常に「4」という数字にこだわる。ここでも4つの特徴が列挙されているのであるが、それは伝統的な二元論に対する批判の象徴的な数である)
そのような様々な要素が、人間と環境との新しい関係の設定を求める。ガタリのいう「地図」とは、主体性が生産される環境としての場のことに他ならない。ガタリの新しい主体の生産の環境を考える前に、今まで主体性の生産がどのように考えられてきたのかについて述べ、それを批判する。批判の対象はまず何よりも精神分析的な主体性の生産である。それは基本的には、フロイト、ラカンの主体性の生産が、還元主義だという批判である。簡単にいってしまえば、彼らのいう主体性は幼児の体験に還元されるモノに過ぎない。フロイトの旧約聖書、ラカンの新約聖書を聖典とする精神分析が、主体性の還元主義であるという批判である。
すでに述べたように、ガタリのいう機械は通常の意味での機械ではない。「・・・だだしその機械は、最近のSFが想像しているような専制的な巨大機械ではなく、粉末状で分子的な機械状多様体としての機械である。」「抽象的・脱テリトリー化的・非物体的であると規定された機械」である。
ガタリは機械と構造とを対立させている。「構造は外部から決定され、受動的」である。
サルトルが主張した存在と無の二元論も批判の対象になる。サルトルの二元論に対して、ガタリは、「限りなく多様な諸々の実存的強度」という考えを示す。また、「延長的ではなく、強度的な関係が問題」強度によって存在しているモノは「機械」ということになるが、ここでの機械はもちろん通常の意味での機械ではなく、「自己秩序化されてもののシステムの中に強度的な差異化が挿入されている」モノでなければならない。
「強度」という概念はきわめて難解であるが、それは単に異質なモノが入り込んでいるというだけでなく、「異質生成の働き」が存在するモノでなければならないだろう。このような機械がどのようなモノであるかをさらに展開したモノが、地図作成法の三つの次元である。それは「排他的であると同時に共存しうる関係の領域」であり、「表現と内容の関係に関わる領域」であり、「美的・宗教的な非意味形成の領域」である。それはロゴスの論理が無効になる世界であり、「二つの矛盾する命題」が対立するモノではなくなってしまうような地図である。
実存主義・構造主義の二元論に対してガタリが提示する「機械」の概念は、いうまでもなく多元的・多次元的である。そこでなされる主体性の生産は、当然の事ながら「本質的出た中心的なプロセス」になる。精神分析に単する批判においても、ガタリは「精神分析が機能されている表現の構成要素を複数化し差異化する」ことを求める。このような考え方には少なくとも二つの源流を認めることが出来る。ひとつはイェルムスレウの言語理解であり、もうひとつはバフチーンの考え方である。
ひとつは、シニフィアンとシニフィエからなるモノとしての記号という伝統的な考え方に批判的である。シニフィアン・シニフィエという対立概念では、両者の関係が断裂されたままになっているからである。イェルムスレウの言語理解では、ソシュールのシニフィアン・シニフィエに対応する概念として「内容・表現」がある。これは対立概念ではあるが相互に断絶したモノではなく、ガタリが「内容と表現が交叉する」と書いているように、相互の境界領域が不確定なモノであるとされる。またバスチーンのポリフォニーの概念がしばしば用いられていることはいうまでもない。
「存在と意味のリトルネロ」の章は、そこまで理論化されてきた、新たな主体性の生産の場としての「異質生成」を、具体的なレベルで考えようとしたモノとみることが出来る。ガタリが試みたのは「夢」という素材を使っての考察である。ガタリは「夢による意味作用の歪曲化は、もはや深層内容の解釈に依存するモノではなく、完全にテクストの表層にある機械状のモノに関与している」と書いている。そこに、「創造的な機械状の連鎖の多種多様な能動的生の世界の全て」が存在していることを確認する。
「リトルネロと実存的情動」の章で、「我々は、イェルムスレウによって、実質と素材の異質性によって支えられている表現形式と内容形式の間の根本的な可逆性を知った。しかしバフチーンからは、言表作用の折重ね、そのポリフォニー、その多中心性を読みとることを学んだ」「表現形成素の形式が内容形成素の形式と同一であることを措定するにいたったイェルムスレウの分析から、あらゆる帰結を引き出さなければならない。このように、内容と表現が交叉するところに脱テリトリー化された同一の機械状のモノがあることを肯定することによって、全ての構造主義的な二元論は完全に無効となる。」表現と内容が交叉しているというのが、イェルムスレウの言語理論の中からガタリがとりだしてきた重要な論点である。
情動とは、相互に力が掛かるということである。能動が受動を生み出し、受動がさらに能動になっていく。その関係がアジャンスマンであり、機械である。
このような場において生産される主体性は、伝統的な意味での主体性とは全く異なっている。「主体化は、盛んに活動をしていても、復元できないほど断片的で、絶えずずれを生じている」からである。
ジュネの文学に触れて、「現実的なモノと想像的なモノと創造とを互いに分離された審級にするのではなく、それらが互いに生成し合うようにする何か」
いずれにしても、ガタリのいう機械はリゾームであり、アジャンスマンである、カオスモードである。

目次



序文
我々の主体性や準拠は、それぞれの価値や社会情勢の中で形作られている。権力(土地、身体〜外延適用法と意味の正確さ、外部準拠の座標軸)や知識(資本経済的な生産手段の支配の準拠枠〜脱テリトリー)のように外から内から形作られるモノから、自己準拠による様々な連鎖(アジャンスマン)の中で、プロセスは錯綜し、人間の実在を有限性の中で投錨する声によって、テリトリーが流動的に動いている。〜様々な情報が自己を規定しているようで、しないようでその情報が占めるテリトリーは無限のプロセスを踏んでいる。

歴史的な切断
ヨーロッパのキリスト教の時代
要するに、キリスト教という、準拠枠は、現在の権力の声のようにあらゆるモノの外部の準拠となっている。そのテリトリー化は、発生した時点から必ずしも意図的に成功し続けたわけではなく、あらゆる知識や資本に投射し、永遠に増殖し続ける形で生成されていく。〜イデオロギーの原型から浸透まで

知識と技術の資本主義的な脱テリトリー化の時代
物質的、社会的な人間の身体性を根底から覆す。記号的に再テリトリー化する様態としての資本。以前には、実在の専制君主や想像上の神でったが、いまやその役目をしているのは、権力諸々の抽象的価値の記号的な資本化。しかし、その終着点は、貧困な想像力、保守的なモノ、国家主義、家父長制〜実は利潤に対するどうしようもない、フェティシズム−ブルジョアに特徴的な権力のリビドー的な定式によって、裏打ちされざるをえなかった。

地球規模の情報化の時代
あらゆる時間性や空間を越えて、膨大なデータが流動する時代。生命の限りない変換。ポストマスメディアの時代。マスメディアの多様化は、価値の相違を生み出し、それが共立する時代。宗教も資本主義の価値も相対的になり、主体は多層になり、巨大な集合体になる。資本主義のシステムは飽和し、崩壊しようとしている。エントロピーの中に、様々なプロセスが生起する主体性を注目する時代である。


目次



分析的地図作成法
言表作用のアジャンスマン(アジャンスマンを以下鎖列とする)
無意識という概念のぬかるみにはまりこむのを、出来る限り避けるため。それはまた、主体性の様々な行為を、衝動、情動、主体内の審級、主体相互の関係に還元しないためでもある。
もはや主体性は、自分自身との目がくらむような一致を(ただ神だけを証人として)探求する主体の、はかり知れず微妙で言い表せない本質とは関係がない。分裂分析的な主体性は、記号の流れと機械状の流れとの交叉点において、意味の諸々の行為、物質・社会的な諸々の行為の十字路において、とりわけ、それらの行為の様々な様態の鎖列から生ずる変形の軌跡の中に作り出される、ここに挙げた変形が主体性から人間的テリトリー性の性質を失わせ、それを最も根源的であると同時に最も未来的な特異化のプロセス−動物、植物、宇宙への生成変化、未熟、多価値への生成変化、非物質的なモノへの生成変化など−に投射する。いまやこの主体性によって、考える葦であり続けてきた人間は、自分のために考える葦、すなわち今までの可能的なモノを遙かに越えて人間を導く抽象的な機械状の門に隣接している。
言表作用のアルカイックな形態は、本質的には、話し言葉と直接的なコミュニケーションとに依存してきたが、新しい鎖列は、機械状の伝達手段によって運ばれるマスメディアの情報の流れにますます頼るようになる。(技術だけでなく、科学、社会、美的な領域による)〜人間のモノではない、機械装置や手続きに依拠して、直接的な意識的制御をほとんど免れた記号的な複雑なモノを扱う。
様々な意識があり、それが並列したり、弱まったり、全面にでたりとするが、それは、還元的に自己に帰っていくモノでなく、絶えず、様々な情報と結びついている。そして、その情報は、記号で、抽象的なモノであるが、社会的構成、テクノロジー、芸術、科学と共に発展しながら、無意識の構成成分や偶然の出来事を事の地図を作成している。

主体性の地図作成法
最も念入りに作られた諸々の科学的パラダイムの中で働いている主体性も、まだ部分的には、アニミズムと超越的な抽象主義を媒介にして機能している。あらゆる科学的方法、あらゆる論理的・数学的な合理性の形式は、知覚の図式、情動、想像力の活動、表象からなる、同じ一つの組織から作られるのだが、その組織は、日常生活、夢、狂気、創造の中にも見いだされる。ただ、機能している構成要素の鎖列と強度だけが変化している。それに呼応して、具体的・夢的・病理学的・美的なこの同じ世界が、特有の形式に従って、それらの通常の凡庸な表れの下に埋もれているように見える問題群的な諸々の特徴、高度に分化した機械状の諸々の命題に関わっている。
ポストマスメディア時代におけるこの主体化の新しい実践の出現は、コミュニケーションと情報処理のテクノロジーを慎重に再び調和させることによって、非常に容易になるのだが、それは次第に以下のことが可能になる場合である。
ポストマスメディア的なもろもろの作用体の主体的な多中心的化と自律化は、それらの作用体が再び自体に閉じこもることや、ポストモダニズムのような政治的不参加とは無関係である。

分裂分析的メタモデル化
科学的合理性に対する宗教的主体性の位置と精神分析的主体性について、前者は合理性をはっきりと区別するが、後者は様々な方法で吸収しようとする。
精神分析は、クライエントが儀式にもっと参加することを要求し、分析の神話は宗教よりの脱テリトリー的である。
精神分析と一神教の共通点は、主体性を、私が資本主義の論理と呼ぶモノの要求に合致した倫理の軸の中に制限することである。資本主義の論理とは、一般化された等価性、アニミズム的強度の悪魔払いや抑圧、特異的な軌道の転換、脱テリトリー化された市場で形式的実態を反復し流通させる(経済、道徳、芸術などの)システムによって行われる、判断のシステムである。
宗教は、その目的を達成するために、直接暗示、標準化された表象や言表のすり込みによって働きかける
精神分析は、少なくとも最初の内は個人的なある種の表現を自由に表出させるが、それは、後に支配し、おそらくさらに専制的な別種のステレオタイプに従わせるためである。
精神分析とマスメディアにおける「混乱を生むような」あらゆる特異性の排除、上流社会の家族主義の崇拝、浄化の安全性に対する強迫などに基づく、主体性のもろもろの形は相補正を持っている。両者に共通なのは、内容に対応にあるのではなく、言表作用を脱テリトリー化−再テリトリー化する手続きの類似性と、そしてこの場合は、我々を常にもっと表面的なモノに導く逆向きの進歩にある。

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記号的エネルギー論
エントロピー的超自我
一つに、エネルギー的資本とされるモノを、科学的に利用できる唯一の実在するモノとして蓄える。これらのエネルギー的な素材は、細かく砕くことによって、あらゆる特徴を取り除き、一様に変換可能なモノにする
エネルギー化しようとしてもうまくいかない素材−資本、リビドー、音楽、科学性などをもたらすモノを、抽象的な等価状態に還元する。そして、局部的な等価性から超等価性(あるいは資本主義的なスープ)を作り出す。その結果、特異性と内在的構造の全体、表象とそれに関する情動の全体、そして極端な場合にはエネルギー的プロセスそのものの全体を完全に溶解し、消化する。

分裂分析的無意識
リビドーという隠されたパラメーターを断固として拒否しながら(実際それに反証可能性を与えようとする試みはことごとく失敗した)、それでもなおエネルギー的なモノに正当な地位を与えようとする無意識のモデルである。このエネルギー的なモノは多様であり、物理的、生物的、性的、社会的、経済的・・・なモノであることを強調しておきたい。
ある条件下で、自我のテリトリー、他者性の世界、物質的な流れのコンプレクシオン、欲望の機会、記号的・イコン的・知性的などの鎖列が、互いに生成しうるような変換的モデル化である。したがって、ここで重要なのは、もはや審級の形式で満足せず審級の実質の転換や転導に達することである。

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