日本社会福祉学会東北部会 研究発表 山形:羽陽学院短期大学
2012年7月21日 第5分科会:保育部門


知的障害児施設の子どもと“遊ぶ”ことの有用性
南寿園 熊谷和史(会員番号 6256)

1.研究目的
 発表者は以前知的障害児施設に勤務していた.施設では毎日の食事や排泄あるいは入浴のケアなどが大半であり,そうしたケアは最重度・重度の知的障害児に多くの時間を割かれていた.身辺がある程度自立している中軽度の知的障害児には,学校や入浴の準備など生活のスケジュールを声かけで促す程度であった.重度知的障害児に援助者が身体介助などにかかり切りの間,中軽度の知的障害児はテレビを観ていたり,おしゃべりをしたりといわゆる暇をつぶしていることが多く見受けられた.
 発表者は決められた直接援助の仕事の合間に時間を作って,暇そうにしている子どもたちを誘い,遊ぶことがあった.その時,暇つぶしの時間が一瞬にして「遊びの空間」になり,その空間の中で子供たちは時間を忘れて熱中し,目一杯楽しんでいた.本来,その時間に援助者は遊ばなくても良いはずなのに,なぜ遊んだのか.考えるに,おそらく声かけだけの関わりに物足りなさを感じていた.あるいは,施設の中で生活するとは,援助者は身体的なケアだけではなく,遊び通して子どもと関わることもまた大切ではないかと感じていたに他ならない.しかし.その時は”遊び”の意味を深く知っていなかった.
 本研究では,先行研究から援助者と子どもと遊ぶことの意味と有用性を探った.そして,施設において遊びの有用性を援助者が意識すること.そのことで援助者の役割は身体介助以外にもあり,遊びは子どもの生活を広く支援することにつながることを提示することを目的とする.

2.研究範囲・方法
 研究範囲について,遊びは心理学・哲学・社会学など多様な学問によって多岐に論じられている(西村1989:1-19,中野1996,高橋1996,松田2003など参照).その中でも,本研究は援助者(大人)が子どもと遊ぶことに,どのような有用性があるのかに焦点を絞り論究する.しかし,知的障害児施設で,この有用性に関する先行研究はほとんど無い.そのため本研究は保育学の知見を援用する.保育学を援用する理由は.保育学は遊びを教育として位置づけており.保育士(援助者)のあり方や遊びとは何かを論究している学問領域だからである.また,知的障害児施設に直接的援助として保育士が配置されている.保育士は,保育学に限らず,子どもと遊ぶためのスキルを総合的に学ぶ.その意味で保育士は「遊びの専門家」と私は思っている.よって保育士が知的障害児施設で身体的なケアだけで子供たちと関わるのではなく,そうしたスキルを活かすこともまた重要ではないかと考えている.
 本研究の対象は中軽度の知的障害児と援助者が遊びで関わることである.確かに重度の知的障害児でも”遊び”の中では普通に振る舞えることがある.しかし,研究目的で示したように中軽度の知的障害児は日常の施設生活で援助者と関わる時間が少ないこと.そうした子どもへ援助者が遊びで関わることの意味を論じることを主眼としているからである.
 本研究方法は文献研究である.また本研究は以下の流れで論じていく.
  1. 保育学における遊びの意味と援助者の関わりとは何かを概説する.
  2. 知的障害児において遊びはどのように捉えられているか,そして施設の社会的役割と生活を概説する.
  3. 1と2を踏まえて援助者が子どもと遊ぶことにどのような有用性があるのかを考察する.

3.倫理的配慮
 本研究は.主に文献研究である.先行業績.引用などについて日本社会福祉学会が定める研究倫理指針を遵守する.

4.1.1保育学における遊びと援助者の役割
 子どもと遊びについて乳児の一人遊びからはじまり,遊び行動の中で無意識にヒトとモノとの関わり方を段階的に学び,それと共に総合的に心身を発達させる(例えば大森2010).あるいは,子ども期は社会に出るまでの猶予期間であり,遊びの中で道徳や社会規範を学ぶ(西村1989)と言われている.就学前教育である幼稚園や保育所は,遊びや保育についての専門的な知識や技能を持った保育者が介在し,遊びの持つ教育的効果を最大限活かす場である(森上1996).そして保育学は,保育者が遊びをどのように教育として提供するべきかのあり方を中心に論究する学問領域である.
 大人が子どもと遊ぶ意義について,子どもが遊ばなくなったといわれて久しく,それは大人が遊びを教える時間や余裕が無くなったことと相関関係にあることを考えると,保育者は子どもへ遊びを教えることが重要な役割となる.その上で,保育者は【その遊び】は子どもの成長や発達にどのようなプラス作用があるのか(良い遊びと悪い遊びの選択など).あるいは,子どもの発達を見極めて適切な遊びを提供し遊びの幅を広げる(経験の拡充).または自発性を促すためにはどのような指導を行い,計画を作成し実践したらよいかといった視点で保育学は様々に論究されている(原子2011,奥山2007).例えば,子ども達の遊んでいる姿をVTR分析し,相互作用からどのような育ちがされているのか(中坪2010).あるいは実践記録から子どもの発達をどう捉えているのかなどの研究がなされている(岡田2008,堂本2001).最終的には遊びを通じて自発性や創造性を発揮する能力を獲得し,また集団の中で他者との協働や協調,競争などの適切な関係性を遊びの中で学び,将来,自立的で社会に適応できる人材を育てることを目的としている(例えば,猪田2004,高橋2011など).

4.1.2.本来の遊びへの論究
 その一方で,遊びを教育的効果のみに焦点を当ててしまえば,遊びは本来それ自体が楽しいことであるといった本質を忘れた取り組みになるのではないか.遊び本来の意味を把握することで,日々行う「保育の遊び」をより深いところで理解し,もって保育者自身の実践の手応えややりがいなどを内発的に惹起させる姿勢で研究もなされている.
 例えば,保育者は子どもの発達過程を観察するよりもまず,その遊びの中でその子どもがどのような「経験」をしているのかを知ることがまず重要ではないかとした視点で論究されている(横井2006,2007,2008).この視点では保育者は外側から遊びを観察するのではなく,子どもの遊びに誘い込まれ,巻き込まれ,共有することで,遊びの内実をはじめて知ることができること.そして,遊びは保育者の操作する道具ではなく,その都度子どもと紡ぎ合わされる純粋な自己表現であり,そうした自己表現ができるように保育者は「充実した遊び」を志向することが重要であることが提示されている.
 この他,古典的な遊戯論(ホイジンガや西村清和など)を援用し,遊びとはそもそも何かから保育教育の遊びのあり方を再考したものも散見された(例えば,山口2010,柳田2004,恒川2005,田中2006など).これらの先行研究で遊びのとらえ方は様々であるが,総じて,遊びは人が寝たり食べたりするなどの他の諸行動と並んで人間存在のもっとも基本的な様態であることを確認している(西村1989).あるいは遊びにはそれ自体独特の構造があることが論じられている.
 例えば,田中(2006)は,現実に生きる我々は,さまざまな損得勘定の関係下にあり,また未来への準備や何か目的のために「現在」を生きている.しかし,遊びはそうした損得勘定などから解き放ち「遊び相手である他者と呼吸を合わせて関わり合うことそのものを楽しみ,充溢感,躍動感を得ることができる.これこそが遊びの快楽であって,遊ぶ人間の目的ではないだろうか.遊びは,子どもの諸能力の発達を促す教育方法であるよりも前に,人間が「生きることを楽しむ技法」である」(田中2006:97)と論じる.さらに津守(2002)は「良い保育をしたかどうかの決め手は,子どもが「今日はいい日だったなぁ」と満足して終わるかどうかによって判定されるだろう.それが積み重なって,生涯にわたる夢は育てられる」(津守2002:44)と論じている.つまり,遊びの経験はその人の生の充実を与える.とするならば,保育者が遊びを教える(伝える)とは,人としての「もう一つの生き方」を教えることではないだろうか.
 なお遊びの意味への論究は,たとえ教育的な手段で遊びが用いられていても遊びそれ自体が楽しいことを子どもとの相互作用の中で共有し,生きることの豊かさを感じてほしい.そして子どもに生きる力を遊びの中で育てられていくことを視野に入れて日々の実践を行ってほしいという願いが込められている.

4.2.1.知的障害児と遊びのとらえ方
 知的障害児と遊びについては療育的な視点の蓄積がある.この視点は認知心理学,発達心理学などの「健常児の遊びの行動」の発達過程を枠組みとし,知的障害児の遊び行動が健常児と比較してどの程度遅れているのか,あるいはアンバランスなのかを診断し,援助(治療)方法が検討される(例えば,宇佐川2007,堅田1998など).あるいは,障害児教育の分野では遊びを活用し,遅れた諸能力を回復させるとか,機能を身につけさせることを目的とした研究の蓄積がある(古屋2002,奥田2001,関戸1995,岡田2005,宮崎2008など).例えば関戸(1995)はIQ44の自閉症児を対象に,自閉症児は競争行動の発達が困難であり,ジャンケンをしても例えば相手がグーを出せば,自分が違うのを出しても相手と同じものを出すといったジャンケンの機械的模倣をする.そうした障害児特有のルール理解の困難性は専門的な視点で援助者が関わることで解消していくことが研究の主眼となっている.
 また健常児と障害児が同じ保育所にいて遊びが行われた場合,障害児は集団になじめずに孤立傾向にあることが報告されている(奥山ら1993).あるいは,健常児に比べて地域でも子ども同士の遊び体験が少なく,もっぱら親や兄弟が遊び相手になっているなどの報告もある(村田1994).共通するのは,障害児の発達の遅れや障害特有のコミュニケーションの困難性や集団生活の機会の少なさに起因した遊び体験の少なさが示されている.そこで保育者が関わることの必要性が提示されている.
 つまり知的障害児と遊びのとらえ方は,健常児との比較で「普通に遊ぶ」のは難しいとする視点で,療育・教育し,諸能力を発展させるための方法を探求している.そのため保育学で論究されている本来遊びの持つ意味やその視点での大人の関わりを論じたものは見出すことができなかった.

4.2.2.知的障害児施設での援助者の主な役割
 知的障害児施設の役割は,社会的養護を基本とし,教育・療育による発達権保障と成人後の就労など地域生活を視野に入れたサポートをすることである(保積2008).そして援助者の直接的援助は基本的生活習慣の確立,具体的には食事介護,学校準備,身辺処理(排泄指導,衣類の着脱指導)のための療育的指導である(保延2009).このほか,発達能力に応じたコミュニケーションの取り方,行動障害や問題行動への理解と対応(岩田2003など)は,援助者にとって重要なスキルとなる.こうした基本的生活習慣の確立や障害理解を通じて利用者の自立を図り地域生活が営めるように働きかけることが援助者の役割といえる.
 また起床から就寝まで24時間,限られた配置基準の中でシフトを組んでやりくりする.限られた人員は身体的自立が困難である最重度の知的障害児へのケアに多く振り分けざるを得ない(植田2008).重度に比べて身辺が自立している中軽度の知的障害児には別の自立支援のあり方が取り組まれるが,毎日の関わりでは自発的に生活のスケジュール(学校の準備や宿題など)を遂行するよう「声かけ」だけで対応することが多い.重度の知的障害児に援助者がかかり切りの間,軽度の知的障害児は,やることはさっさとやってあとはテレビを見たり,友達とおしゃべりをしたりと過ごしていることが多い.
 その一方で施設にも発達保障の視点で,プログラム活動(運動会や文化祭)や余暇活動(絵本の読み聞かせや体育館での身体遊びなど)など遊びがスケジュールの中に組み込まれている.この遊びが通常どのくらい行われているのか.知的障害児施設での業務分析ではないが,児童養護施設の職務内容を調査した研究では基本的生活習慣の確立の取り組みが1日あたり44%であり,会議や連絡調整が14%であり,遊びは約8%であることが示されている(片岡2011).
 いずれにしろ援助者は重度や最重度の知的障害児への身体的なケアに多くの時間が取られている.直接援助の合間合間には,記録の整備や会議などで埋められており,子どもと遊ぶとは少ない決められた時間以外には無いのが実情といえる.

4.3.考察
 考察では,知的障害児施設の子ども達が生活の中で「遊びの経験」を積み重ねることは重要であると援助者は考える必要があるのではないか.そのためにはまずもって遊びの意味や有用性を援助者が理解しないことには遊びが発生しないと考えた.以下,これまでの知的障害児と遊びのとらえ方や施設での現状を踏まえ,遊びの有用性の視点で論じていく.

第一の視点.そもそも知的障害児は健常児と比べて遊ぶことに困難性があると思われている.しかし,一緒に遊んでみると,遊べないと思っていた子ども達が生き生きと遊び,そのことで知的障害児への見方が変わるのではないか.

 確かに知的障害児は健常児に比べて能力の遅れがある.そして,遊びのルールは勝敗条件や手順などにはある程度の知的能力が要求される.それでも個別の能力の遅れは,遊びの流れの中で総合化され,補うことができる場合が多いと考える.発表者が実際に遊んだ中で,IQ診断で数字の序列が理解できないと診断された子どもでも,トランプの七並べを集団の流れの中で自然に遊ぶことができていた.また遊びのルールを理解できない子供が交じっても,子ども同士で教えあって遊んでいた.そして勝てない子どものために他の子が勝てるように可変的にルールを変更して遊んでいた.何よりなかなか勝てない子がやっと勝って楽しむことを発表者以上に,周りの子ども達が喜んでいる様は非常に印象的であった.その意味で,援助者が利用者に遊びへ誘うことはそれだけで【障害児だから遊べないのでは】とする見方から違う見方へ変容させる可能性が潜んでいるのではないだろうか.

第二の視点.知的障害児施設では療育や指導といった観点から援助者と子ども役割は固定されている.しかし,遊びの中ではお互いの役割が放棄される.遊びは人としてももう一つの関係性をそこで取り結ぶことになり,関係性の多様さに気づくことができるのではないか.

 援助者にとって通常子どもは身体介助とか将来自立させる「対象」とされる.そのため援助者と子どもは「指示する」/「指示される」関係が固定化されがちである(麦倉2003).しかし,遊びの世界では,固定的な関係性からいったん解き放たれ,互いが【ただの遊び手】として【いまの充溢】を目指す関係になる(横井2008).その意味で本来的な遊びを意識して援助者が子どもと関わることは,操作する/されるだけではない関係性を知る契機になるのではないか.
 また,遊ぶことは排泄や食事と同様に人としての基本的様態であること.そして,遊びは生きることを楽しむ技法であることが保育学で論究されていた.それを考えると施設で生活する子ども達は,将来自立するとか何かの目的のため「だけ」に生きているわけではない.特に中軽度の知的障害児へは生活のスケジュールをこなすように「声かけ」ですませている状況の中で,「遊びに誘う声かけ」をすることは1の視点の変容と共に,関係性の再編を促する契機になると考える.

第三の視点. 施設の役割は自立を軸とした生活支援であり,知的障害児の遊びは教育的手段として捉えられていた.しかし,自立や将来のことだけではなく,遊びを通して,今を楽しく生きることもまた人として必要なことを子どもに提示すること.それは子どもの生活を支えることの広さに援助者が気づくことができるのではないか.

 援助者は仕事の最中に例え休憩時間や手の空いた時間が生じても,決められた時間以外に遊ぶことは後ろめたさを感じることも確かである(増川2006).けれども,今日は良い日だったと思えるのは,スケジュールをこなすだけの生活の中にはないと考える.子どもは遊ぶことを通じて,「生きることは楽しいことを学ぶ」のではないだろうか.こうした視点で,身体介助の合間や休憩時間に暇そうにしている中軽度の知的障害児を遊びに誘い,その時を一緒になって楽しむ.喜怒哀楽に彩られ,笑いに満ちた遊びは,そこで暮らす子どもの生きる力を育てることになるのではないだろうか.援助者はそうした「もう一つの生き方」をそこで生活する子ども達と共有することが役割としてあるのではないだろうか.
 遊びの意味を知った上で,援助者が子どもと遊ぶことは,意味を知らないで遊ぶことや子ども同士で散発的に遊ぶものとは質が違う.それは,余暇活動など教育的手段で始まっても本来遊びの持つ豊かさを知っている人と知らない人ではその活動は違ったものになるであろう.その意味で遊びの有用性を援助者が意識し,実践することは翻って子どもの施設生活がより豊かなものになると考える.

 以上,知的障害児施設で援助者が子どもと遊ぶことの意味を追求した.本研究は保育学で論究されている本来の遊びの持つ意味(生きることを楽しむ技法,現在の生を充溢するものなど)を意識し,共感的な理解をもって遊びを実践することは,援助者が身体介助やスケジュールを遂行ときとは全く違った視点や関係性を生起させる.その視点や関係性は,これまでの子どもの生活を支援するとは何かという援助者の役割の再編を促し,幅を拡げることになる.これが遊びの援助者にとっての有用性であると考える.また,まずもって援助者が子どもと楽しみたいという気持ちで行われるのが本来遊びである.その気持ちに誘われ応じる形で,ある種自然に始まり終わる遊び.そうした遊びを保障するのはまずもって援助者の側にあると考える.

4.4.おわりに・今後の課題
 10年以上の勤務の中で大半は排泄とか入浴とか学校準備などに追われ,夜間巡回や通院,パニックへの対応などに費やしてきた.それでも毎日の仕事の合間に確かに子ども達との遊びが存在していた.遊んでいる子供たちは普段の生活では見られない笑顔や喜怒哀楽があった.その時を熱中し,遊び尽くすと.なんともいえない遊びの心地よい残滓が漂っていた.そして,援助者である自身も充実したものをその子供たちとの遊び体験の中で共有していた.それは時間にして長くても30分程度であるが,仕事ではないその時間を作ることは非常に難しく,しばしば電話などで中断したり,あるいは遊びを止めないといけなかったことも多々あった.それでも,子どもたちは私の仕事の合間を敏感に見抜き,「遊ぼう」と誘いかけてくる.その誘いはどこか抵抗しがたく,ついつい遊んでしまっていた.ともすれば,中軽度の知的障害児は最重度に比べて身辺的に自立しており,職員が関わることが少ないと論じたが,それ故に,子ども達は遊びに飢えていたのかもしれない.子ども同士だけでも遊べるかもしれないが,大人のきっかけ作りや誘いがあれば,子ども達は遊びの世界により入り込めることを子どもは無意識に知っているのかもしれない.あるいは,援助者も一緒に遊ぶことで,施設生活の中で遊びが保障されることを子どもが知っていたのかもしれない.それだけ決められた時間以外で遊ぶことは施設の中では難しいという現状があるのかもしれない.
 本研究を通じ,保育学での本来の遊びとは何かという論究を手がかりに,援助者が一緒になって遊ぶその意味を考察してきた.生活の中に遊びをより意識して取り入れることの重要性は考察の通りである.発表者も今回の研究を通じ,なぜ「遊ぼう」と子どもに言われるとそれに応えないといけなかったのかの意味を知ることができた.そして遊びが生の充実をめざす技法であること,そしてまずもって今が楽しくないと生きていけないことであることを知ることができた.
 今後の課題として,本研究が遊びの意味や有用性を明らかにし,援助者が子どもと遊ぶことのきっかけや足がかりの理論的根拠を明らかにすることであった.しかし,実際に遊ぶとなれば,どのような遊びを行うのかという援助者側の遊びの引き出しが無いことには始まらない.そして遊びを形成しているルールや手順などの構造を援助者が理解し,その遊びに内在する楽しさを把握していないといけない.また知的障害児の程度(あるいは年齢)によって遊べる内容とそうでないものがある.そうした見立てはいわゆるこつのようなもので,発表者は無意識に行ってきた.今後は,見立てに至るプロセスを明らかにしていきたい.

引用・参考文献

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