ゲームブックなどへの想い

いかに続く文は、一気に書いたためまとまりのないモノになっています。全く私的なことです。
もし興味を持った人は、その後に続く資料などと比較して読むとその背景を知ることができます。

駄文で読むに耐えないかも知れませんが・・・。


目次
定義
回想


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定義

ゲームブックとは?

主に、ヨーロッパなどのファンタジー的な(神話、英雄物語)ものを基調にして、剣と魔法を主体に、読み手が、その物語に主体的に関わるように、様々な選択肢を選びながら、あたかも冒険を自分自身がしているように、作成された書籍。
そのルールは、その書籍に基づいた読み手の分身をサイコロなどで数値化し、その数値とルールに基づいた戦闘などを通じて、その書籍が読み手に課した課題を達成するもの。
物語は、主にファンタジーを基調にしているが、本質は冒険をするものであり(SF、ホラーなど)、必ずしも課題を達成する必要はなく、その結末は多岐にわたることがある。

現在、マルチエンディングのシミュレーションゲーム的なもの恋愛モノや物語を選択するモノ(ホラーなど)が発展されたモノと考えることができる。(「弟切草」、「かまいたちの夜」、「やるドラ系」、無理があるかも知れないが、「ときめきメモリアル」なんかもそうなんじゃないかな)

テーブルトーク・ロールプレイングゲームとは?

ゲームブックの基になった、システム(あるいは、ゲームブックのオリジナル)ゲームブックが、小説形式で、読み手を冒険の主体者とするため、書籍(シナリオ)と読者は一体一であるのに対し、テーブルトークでは、シナリオに対し、読者は多数であり、ここでの読者は、ゲームプレーヤーとして、複数存在する。
ルールに基づいて、キャラクターという分身を作り、シナリオを用意するゲームマスターといわれるものとの掛け合いで、物語が紡ぎあげられるというもの。もちろん、結末は多様であり、プレーヤーの対応、キャラクター同志の対応で、いくらでも中身自体が変わるものである。もちろん、シナリオは、そのプレイの骨格ではあるが・・・。
セッション、マルチエンディング、冒険、主体性そうした、キーワードが総括的に含まれる。

要するに、ごっこ遊びをルールで規定することにより物語性を膨らませたモノと考えます。

パソコンやテレビゲームでは、その要素が散在しています。いわゆるパーティを組んで冒険をするモノは全てそうであるし、(物語性が強いか戦略などの要素が強いかの違いはあるが)いわゆるジュブナイル小説やメディアなんかでも、そうしたモノが散在している。


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回想

それは、私の記憶の中で、突然の出来事であった。私が中学生であった頃(1980年代後半)友人がふと、一風変わった本を持ってきて、サイコロを振って楽しんでいました。(「バルサスの要塞」《社会思想社》だったような)
なにげに、「それ、面白いの?」と聞いたのが、始まりの始まりでした。

それから、ゲームブックというジャンルはすごい勢いでブームになり、そして、高校に入る頃には(1990年初頭)には、下火になり、いつの間にか消滅をしてしまいました。

中学の頃、オカルト幻想ブームであったことから、『ムー』(学研)は平積にされ、関連書籍も氾濫していて、架空の冒険ものの小説やジュブナイル小説の奔りみたいなものもちらほらと出始めていました。
わたしは、もともと、ファンタジー小説、ミヒャエル・エンデなどを愛読し、インカ帝国とかそうした謎の遺跡などに興味があり、怪奇小説(ラグクラフトなど)をそれとなく読んでいたので、そうした、ファンタジーの世界に知らず知らずに埋没する要素はあったのでした。

ゲームブックの話に戻すると、それは、私の青春(思春期?)の輝かしい灼熱した思い出でした。お目当てのゲームブックが出版されるのを首を長くして待ち、書店をかけずり回り、一秒でも早く手に入れようと、血眼になり探していました。
今にして思えば、どこの本屋に行ってもゲームブックを置いていて、それに関連した怪しげな幻想小説や資料なんかが置かれていました。そして、ゲームブック形式のアダルト、あるいはポルノ系のものまでも出版されていました。

ゲームブックは、学校でもすごく流行っていて、休み時間の度にちらほらと、本を片手にサイコロを振る姿の学生がいたものです。
また、まだ、ファミコンがスーパーファミコンでないこと、パソコンもベーシック主体で高価な買い物であり、ソフトもまた、コマンドを打ち込まないといけない時代であり(88が人気だったのです。98はすごく高価なものでした)、テレビゲームでのロールプレインゲームといえば、かろうじて、「ドラゴン・クエスト」ぐらいであったことがあり、「ドルアーガの塔」など、アクションの要素の強いものが主流であり、ストーリー重視のお手軽にいろいろな物語が楽しめるゲームブックが、幅を利かせることができたのでした。
今、思えば、「ドラクエ」は、こうしたバックボーンがあって、流行になったのだなぁと思っています。その後、アニメなどと連動し、ロールプレイ的な、ファンタジー的なものが流行り、今に至っているのです。(もっとも、ファンタジー的なものの歴史的なものをさかのぼれば、その前からあったのですが)

とにかく、ゲームブックを片手に、アイテムを取得したり、地図を作製していっていない分岐点から始めたりとこつこつとやっているうちに自然に、テーブルトークロールプレイングゲームというものと出会うことになります。

そのころ、『D&D』や『T&T』がもっとも手軽に遊べるTRPGでした。中学生の脳味噌にもすんなりと分かり、そして、物語が作りやすいルールでもありました。(T&Tは最も、ゲームブックを発売していた社会思想社からなのでその辺は狙ったのでしょうが・・・)

やくたいのない、ゲームブックをそのままパーティ用に作り替えたようなシナリオと、ゲームブックばかりやっていた友人と、本当にごっこ遊びをしていました。ゲームブックと違って、自分の発言が自由ということで、無理難題や無茶ばかりされて本当に困惑をしていました。しかし、10本のうち1本のシナリオがうまくいくとき、その達成感や充実感は何者にも代え難いモノでした。

私は主にゲームマスターだったのですが、シナリオのアイディアを考えたり、地図を作製してトラップや謎をちりばめたり、物語性を持たせるために本を読んだり、前回の失敗を教訓にしたりしてマスタリングを考えたりと本当に、充実していました。

こうして、高校に入り、1年の時までは、それなりに遊んでいたのですが、いつしか、ゲームブックの流行も過ぎ、波が引くようにサーとゲームブックのコーナーも徐々に縮小されるようになりました。『ロードス島戦記』『ソードワールド』などまだ、TRPGの書籍も人気があったのですが、ホビーショップの模様も代わり、デパートでも売っていたTRPG関係のものも徐々になくなり、いつしか、友人もTRPGもしなくなり、高校の学校でも同好会らしきモノはあったのですが、私もしなくなりました。しかし、その未練も捨てがたく、TRPG関係の書籍などが出ると、とりあえず買っていました。(ジュブナイル小説を読んでいた友人からは良く借りて読んでいましたが)
その一方で、もう読まなくなったゲームブック、ブームの終末期には何でもありの粗製濫造されたモノまで買い集めていたモノなどを、学校のバザーや古本屋に売る日々が続きました。

そして、再び、時は巡り、このようにネットがすごく身近になったこと、ジュブナイル小説を読んでいて『蓬莱学園』でPeBMに参加したこと、ネットで検索して、そうしたゲームブックの郷愁が満ちたことなどが起因して、あのころの書籍をかき集めたのでした。
なぜ、高校の時に続けなかったのか、大学のこともやれたはず、でも、しなかった。自分の中では、たぶん、それが卒業をするモノとして捉えていたのかも知れません。オタクなのとして、封印していたのかも知れません。(興味はすごくあったので、買い集めていたのですが・・・)
もっとも、周辺にTRPGをしてくれる人が全くいなかったこと(地方なんです)や情報としてかなり制限されていたことなんかもありましたが。

ここに、すでに、これは私の一部であるという認識と共に、熱狂的に何かに没入していたことを全面的に肯定し、これは、流行であったが、全くなくなったわけではなく、私の中では、極上の娯楽であるということを宣言し、そのおもしろさを何とか伝えて行けたらと思います。

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