平成25年8月10日 岩手県立大学 社会福祉学 学内学会レジュメ

口頭用原稿

現場における実践知とは何か
デイサービス相談員(社会福祉士) kuma

0.はじめに
 現在,私は,高齢者のデイサービスで相談業務をして4年目となっている.この社会福祉法人は特別養護老人ホーム2箇所,身体障害者療護施設,救護施設,知的障害児施設の他,地域包括支援センター,ホームヘルパー,ショートスティ,知的障害児のデイサービスなどなど…内部組織の事業を数えればまだいくつかあるが…様々な事業を展開している.
 私は,東北福祉大学社会福祉学部を卒業後,救護施設に3年,知的障害児施設に11年,そして異動をして現在に至っている.その間,同大学の通信制大学院社会福祉学の修士課程を修了し,何本かの論文と学会発表をしている.
 そんな中,「社会福祉施設の実践知とは何か」という論題で発表した.今回の岩手県立大での学内学会で,現場からの意見ということで,これまでの私の施設内での雑感を念頭に,また,研究結果を踏まえて話して行きたい.
 なお、これはあくまでも私の所感であり、実証された物ではないことを断っておく。

1.現場の実践知について
P.1
 実践知は,たぶん,マイケル・ポランニーが1966年頃「暗黙知」を提唱してからだと思う.暗黙知はその後,日常知とか経験知,臨床の知とか言われるようになり,社会福祉分野では実践知がよく馴染んだ用語として定着しているかと思う.
 
 普段の私のデイでの仕事は、食事を提供したり、お茶を出したり、時にオムツを替えたりと一般の介護家族が行っているような内容である。または、利用者さんの嫁の愚痴を聞いたり、世間話におつきあいしたりと、誰でも当たり前にやっていることが仕事の大半である。日常業務の大半を表面的に見れば、果たして専門性が必要なのか。あるいは高度なスキルが必要なのかが疑わしい。しかし、実践知は当たり前の中に潜んでいると言える。

#オムツ介助について

P.1-2
 実践知を説明する場合,オムツ介助を取り上げてみる.オムツ介助とは,オムツを利用者へ着脱する介助行為である.しかし,実際,それはただマニュアル通りに行われるわけではない.介助される人の障害の程度やその日の身体の向き,ベッドの位,筋肉のこわばりや弛緩状態,主観的な感情状態への推測などいわゆる「空気」を「瞬時」に判断し,適切に行っていく.しかし,この瞬間的な行動の連鎖や関係を一つ一つ言語化して記述しようとすれば膨大な量となるし,説明しようとすれば何か違うモノになる.この何気ない行為一つにもその人が把握している「何か」があって介助が成立している.この見えない「何か」が実践知であると考える.

#知識の進歩と歴史的なこと

P.2
 また,日常のルーティンワークの中には,様々な言説や規則がとけ込み,そして就業規則とか目に見えない禁則事項を形成している.

 施設の仕事あり方を何となく意味づけるものの背景には、様々な理論や知識がある。例えば、私が特別養護老人ホームに実習に行ってからかれこれ20年は立つけれど、その時は普通に抑制ベルトやいわゆる拘束が行われていた。手足を縛られてオムツをしている利用者けっこういた。しかし、現在、この拘束に関しての規定がかなり厳しくなり、モニタリングや同意書、正当性などの根拠などなど、むしろ拘束をしないのが当たり前という状況になっている。
 また、知的障害児施設で11年働いている間も、子どもへのアプローチもかなり変わり、躾や身辺処理という身の回りのことから、どちらかと言えば地域生活支援や社会的就労への訓練へと重点がシフトしていった。こうしたことは、その時代その時代の知識の流れや発展が法律や制度になって形になり、それが仕事の中に大きな影響を与えていると言える。
 こうした大きな意味での知識は通常目に見えず、中で働いていると当然のように、存在する。また、そうした様々な知識や言葉がたくさん混在していて、それが日常業務のあり方を形成している。つまり、仕事を根拠づけている様々な知識は実践知であるといえる。


#社会福祉を学ぶことについて

P.2-3
 その一方で,先見的なあるいは,望ましい実践だけが施設にあるわけではない.不適切な対応や社会的に「まずい」ルーティンワークが混在している場合がある.それは,施設の都合とか人員配置,あるいはそこで構成している職員の意識レベル,これまでのやり方など歴史的なモノも含め,様々な言説の何を施設で採用し,どう「現実を構成」しているのかが,それぞれの施設の特色を形成していると考える.
 施設職員の意識レベルがルーティンワークの質を担保する.逆に,間違った対応や不適切な業務,日課などには1人1人の意識レベルが影響しているとも言われている.その意味で,養成教育での知識は,福祉のスタンダードを広範に学ぶ機会となっているという意味で,有用であると考える.
 最初に,私自身、あまり勉強したとは言えなかったけれど、4年間,福祉の歴史や法律を体系的に学び,レポートを書く中で,「福祉ってこうだよね」という感覚を身につけていたと思う.だから,異動しても,利用者をどう見て,把握するか.そして,どう対処することが援助者としてふさわしい態度なのかを知らず知らずのうちに分かっていたのかもしれない.しかし,前歴史的な処遇とか不適切な取り組みもまた施設内にはある.なぜ,そうなのか.なぜもっと上手くできないのか.その理由を受け止め,変えて行く(現実構成力の改変)には,上司とか組織自体の意識を変えていかないといけないため,容易ではない.時に分からず屋の上司や無資格で高卒の先輩に頭を下げ,懇願し,分かりやすくそして粘り強く説得するなど,組織的な序列や力関係に巻き込まれながらも進めていくという学校では教えることのできないノウハウを身につけないといけない.

 そうした一人ひとりが現実を読み解く中で自分だけの実践知を形成させていく。これが施設の中で循環して、施設独自の実践知が育っていくともいえる。

2.有能な実践家とは何か.
 
#知的障害児施設・デイサービス・ケアマネ
#柔軟さ・引き出しの多さ


 結論から言えば,有能と思われる実践家は,現実構成力を改変するために具体的に行動できる人だと考える.しばしば,科学的な知識との対比で,福祉は職人気質の人が多く,言語化できないとか,他の人がまねできないと言われる.言い換えれば,福祉実践が,科学的にも説明でき,そして,誰でも再現できることが望ましいという意味で,職員気質はあまり好まれない.
 しかし,一方で福祉実践は個別性と柔軟な対応が求められる.そのため,援助者1人1人の自律した思考の中から独自の振る舞いを形成することが専門職では重要である.もし,職人という言葉が適切でないとすれば,ベテラン(熟達者)は「サービスの達人」を志向するべきである.サービスの達人とは何か.私の身の回りにいる,尊敬する実践家を念頭にすれば,それは,小さいことだけれども,他の人と何かが違うと思わせてくれる人達である.
 例えば,知的障害児施設の時は,問題行動ばかりを起こす重度知的障害児が,その職員が関わると,ぴたっとおさまり,笑い声を上げて甘えたりする.その言葉がけ一つ一つが,ゆっくりとしたもので,情動に訴えかけ,安心させるような動作である.また,その時,子どもの感情ややりたいことを瞬時に見抜き,できる範囲でつきあう.そして,知的障害児への学問的な造形も深く,その職員の家に行けば,相当な関連書籍が並び,施設の限界と子どもへの関わり方について考えていた.語り口は常に優しいが,その問いは深く,含蓄の富むことばかりだった.
 デイサービスでも,プログラム活動でも,集団の雰囲気をつかみ,また個別的な状態を瞬時に見抜きながら,ゲームの内容や説明を柔軟に組み替えたりしながら,できるだけ全員が楽しめるような実践をしていた.たかが遊びであるが,いかに楽しく充実させた遊びをするのか.それは実は非常に難しく,実際私は,彼女のようにできない.目配せ,気配り,そして,いかにその時間を過ごしてもらうのか.そうした総合的な「技倆」は,天性のモノだけではなく,長い年月をかけた試行錯誤,時にレクリエーションの研究を通じて発露されているモノと思われる.

 その他、ケアマネさんのことも書いていますが、省略します。

#目的意識を持って日々学習をしていること

 誰もが現場にいて一度は、このままでよいのだろうかという息が詰まる感覚を味わうことがある。その一方で、ルーティンワークに流されて、これで良いのかもと思うこともある。散発的に何かを調べ、本を読んでも、それがどう仕事に役立つのか。または実践に反映させることが出来るのか。そして反映したとして、それを誰が評価し、実証してくれるのか。そうした事を悩む時期がある。私もそうしたこともあり、大学院に行って勉強をし直したことがあった。結果として、自分のルーティンワークが劇的に変化したとか自分の実践に自信がつくことはなかった。逆に、実践知の中にある諸々の知識の深さを知ってしまった。しかし、それでも幾分かの見通しが良くなり、それまで見えなかったサービスの達人をそこかしこに見いだすことが出来るようになった。

P.4
 こうしたサービスの達人は,施設の求めるレベルや他の職員の意識レベルとは,一線を画していると思う.しかし,本人達は,飛び抜けているとかそういうことは思ってはいないようである.ただ,目の前の仕事に手を抜かずに,丁寧に自分の行為を見つめて,積み重ねた中で身につけて行っているだけなのかもしれない.しかし,マイペースなのかといえば決してそうではなく,自分の仕事を極めようとする中で,組織への協調性を大切にしている,そして,間違った行動をしている人には,その人が今できることとできないことを見極めた上でアドバイスをしている姿は,非常に繊細ですらある.
 こうした有能な実践家は,多くをあまり語らないけれど,理論と実践をつねに模索している人たちであるといえる.そして発想力豊かで,たくさんの引き出しを持ち,それを柔軟に使い分けているようである.私が思うに,この発想がどこから来るのかである.それは,たぶん,様々な学問や言説を普段から読み解きながら,考え,そして実践の中でどう使えるのかを解釈しながら読み込んでいくことだと思う.

 簡単に言って、目的意識をもって様々な情報を自分なりにまとめて考える能力がある人だと思う。それは資格取得のための知識とは違った、より実践的に知識を道具として使いこなせることを知っている人であるとも言える。

3.実習指導と人材育成

#学びを見いだすことの困難さ
#調べること、認識の道筋を見いだすこと


P.4-5
 私自身,実習指導者研修が義務づけられる前,知的障害児施設時代に10人くらいの社会福祉士を実習養成してきた.知的障害児施設での24日間の実習は,施設のルーティンワークで,相談らしい相談もないし,介護と言っても特養に比べて難しいわけでもない.そして,子どもと遊ぶことが出来る人にとっては,ごく自然に関わることが出来るためにコミュニケーションに課題を見いだすことが難しい.

中を若干省略する。

 その中で,一番困るのが,「今の実習が楽しくて,とくに課題らしい課題はない」と言われたことである.一応,計画とか達成するべき知識のレベルもあるけれど,それとは別に,毎日の中で,色々と興味を持って,そして自分で調べて欲しいが,その糸口が「日常」のルーティンワークの中では,隠されていて難しい.そして,些細なことを知ったとしても,それが次に役立つのか.既に誰かが調べていて,今更自分が調べなくても良いと思いがちになるようである.目に見えて効果の出る取り組みなど,自分自身にとってすぐに使える知識を欲したとき,いまさら自閉症の分類を調べても役に立たないように見えるかもしれない.本当は,その自閉症の分類からその子どもの症例を当てはめて,それに対処するための「認識の道筋」を見出すことが大事であるがこの作業は非常に時間がかかる.なので,焦っている実習生に,ついつい,この子にはこうすれば良いよと話して納得させてしまう.しかし,本来であれば,「こうすれば良い」と言われたときに,どうしてそうなのかという振り返りが大事な学習でもある.しかし,実習生は実習生で,毎日をこなすことに精一杯なのも確かで,日常のスピードは速く,流されていく.悩みどころである.

 実習への養成校への要望は省略します

#オムツ介助を例に
P.5-6
 最後に,人材育成的な視点で,実践知は様々な言説がとけ込み,現実を構成している.しかし通常それは目に見える物でもなく意識化されることも少ない.有能な実践家は,それでも自分の中で丁寧に仕事を振り返り,時に知識を頼りに,思考し,試行錯誤しながらもより良い実践とは何かを具現化している.最初,オムツ介助のことを例に挙げたが,熟達者が行う介助と新人では,利用者にとって全く違った結果をもたらす.熟達者は自然に,苦痛を感じさせず,安心感をもたらす.その差はどこにあるのか.それは,一つの作業に費やす思考に支えられた手さばきである.新人は,実践者の目に見える動作だけまねをしても,同じような結果にはならないし,むしろいつまでたっても,どこかぎこちない介助のままになってしまう.大事なのは,熟達者の自然な振る舞いの中から,目に見えない部分(実践知)を推測し,自分で思考してみることである.そして,時にそうした熟達者から話を聞き,自分の実践を見てもらい,試行錯誤をすることである.そうしたささやかな所から横の連携を通じて,自分の仕事の幅を広げていくこと.これが施設における実践知の形成と発展であるといえる.逆に,キャリア形成として自分1人で資格を取り,学問を積み重ねるだけでは限界があるともいえる.

4.おわりに
 現在、介護人材確保の困難さ、離職率の高さは、間口の広さと比例するかのような労働の流動化を招き、非正規雇用の増大は、使い捨てのような労働者の待遇を合わさり、施設中で育てるべき実践知が十分ではないという現状にある。そんな中、一人ひとりの自覚と自律的に考える力で実践知を形成しましょう、そして施設にその実践知を還元し、また良い実践を生み出しましょうといっても果たして説得力を持つことが出来るのか。今回、現場からの報告を受けてから常に考えてきたが、答えらしい答えがなかった。しかし、現状はそうであるが、良い仕事をしようと意気込んでいる人たちもたくさんいる。しかし、良い仕事をするとはどのようなものなのか。あるいはどうすれば実践知を形成することが出来るのか。それが分からずに立ち往生している人も一杯いるかと思う。
 知識を使えるようになるためには、長い時間と手間がかかるけれど、それでも考えることをやめないこと。日常業務には様々なことが起こるし、スピードも速いが、それでもあのときひっかかった疑問をそのままにしないでちゃんと消化しておくこと。そうしたことを積み重ねていく中で、良い仕事が形成されていくと思う。
 ある時、私が勤めているデイの看護師が、ぼそりと話していた。仕事としてやっていることは本当に小さいことだけれど、人を相手にしている以上、知らないと言うことこそ怖いことはないと言っていたことを思い出す。良い仕事をするとはたぶんそう言うことなんだろうと思う。
 いずれにしろ実践知とは何かということで話させてもらったが、通常見えないことを話すことの困難さを痛切した。


捕捉として使えるか?
 まとめとして実践知は、大きく三つ、一つは自分の仕事を意味づける法律とか概念などの「包括的な知識の総体」。そして、「自分自身が身につけた実践知」、例えばオムツ介助や物の見方など自分の日常業務上、行動の基準となる知識。そして、その間にある、法律からの影響や個々人に影響を与えたり、個々人の取り組みから発展していく「施設独自の実践知」。これらが互いに影響を試合ながら存在するのが現場における実践知であるといえる。
 利用者をどう見るのかなどの価値や倫理は、ただ労働をしてこなしているだけでは身に付かないため、こうした見えないところへの洞察を通して、また様々な知識に当たりながら現場を見るという作業を通じて身につけていくことが大切であると思う。


ホームインデックス