平成25年8月10日 岩手県立大学 社会福祉学 学内学会レジュメ

現場における実践知とは何か
デイサービス 相談員(社会福祉士)kuma

0.はじめに
#法人のこと
#自己紹介など

1.現場の実践知について
 実践知は何となく、その仕事を意味づけている包括的な知識とされています。それは身体と結びついて、その知識自体を説明できないものとされています。だから現場では、実践知は取り立てて意識されることはほとんどありません。このことについて、二つの視点で簡単に説明したいと思います。
 一つが、介助行為など身体と密接に結びついている技術、もう一つが、日々の仕事に影響を与えている(現実を構成している)知識です。そして、社会福祉を学ぶことについて若干触れたいと思います。

#オムツ介助を例に
#知識の進歩と歴史的なこと
#社会福祉を学ぶこと

2.有能な実践家
 有能かどうかは、人それぞれの価値観があって一概には言えませんが、出来る人と出来ない人の差は、利用者への「気づき」の感度にあるのではないかと思います。同じような仕事をしていても、その人が行うと、マニュアル以上の結果を生み出すことがあります。私はそうした人たちをサービスの達人だと思います。
 こうした視点で私がつきあった中で、すごいと思った人たちのことを話したいと思います。こうした人たちの共通することについて述べていきたいと思います。

#知的障害児施設・デイサービス・ケアマネジャー
#共通項としての、柔軟さ、引き出しの多さなど
#目的意識を持って日々学習をしていること

3.実習指導と人材育成
 実践知を伝える場が実習とか新人教育ですが、そもそも実践知とは何かをうまく言葉に出来ないこともあって、指導者にとっても難しい課題でもあります。お互いが手探りの状態で、私自身もうまく伝えたのか。それがどのような結果を実習生にもたらしたかは不明です。
 これまでの実習指導や施設内で行われる新人教育などを振り返りながら、雑感を述べていきたいと思います。視点としては、実践知は言語では表現できないことをイメージする事だと思います。

#学びを見出すことの困難さ
#調べること。認識の道筋を見出すこと
#オムツ介助を例に

4.おわりに
 実践知と理論の架橋について雑感を述べていきたいと思います。

0.はじめに
 所属にもあるように,現在,私は,高齢者のデイサービスで相談業務をして4年目となっている.この社会福祉法人は特別養護老人ホーム2箇所,身体障害者療護施設,救護施設,知的障害児施設の他,地域包括支援センター,ホームヘルパー,ショートスティ,知的障害児のデイサービスなどなど…内部組織の事業を数えればまだいくつかあるが…様々な事業を展開している.
 私は,東北福祉大学社会福祉学部を卒業後,救護施設に3年,知的障害児施設に11年,そして異動をして現在に至っている.その間,同大学の通信制大学院社会福祉学の修士課程を修了し,何本かの論文と学会発表をしている.
 そんな中,「社会福祉施設の実践知とは何か」という論題で発表した.今回の岩手県立大での学内学会で,現場からの意見ということで,これまでの私の施設内での雑感を念頭に,また,研究結果を踏まえて話して行きたい.
 今回,現場の実践知と養成教育での知識は乖離状態にあるのか.乖離状態にあるとすれば,どう解消されるのかを現場サイドからの意見として頂いているので,その中から,

1.現場の実践知について
2.有能な実践者とは
3.実習教育あるいは人材育成についてと3つに分けて雑感を述べさせていく.
 なお,これは私の意見であって,現場のみんなの意見でもないし,それが何かの形で実証されているものでもないことを断っておく.

1.現場の実践知について
 学部を卒業後,すぐに救護施設に就職をしたが,私自身,とうていマジメな学生とは言い難かったので,学校で学んだことが現場で役に立たなかったという感想を持つことはなかった.本当に考え出したのは,大学院で学び始めた頃だったと思う.大学院に行くまで,すでに7年くらい現場で働いていたので,養成教育と現場の知の乖離状態を感じるよりも,現場の実践知についておぼろげながら見えていたともいえる.
 実践知は,たぶん,マイケル・ポランニーが1966年頃「暗黙知」を提唱してからだと思う.暗黙知はその後,日常知とか経験知,臨床の知とか言われるようになり,社会福祉分野では実践知がよく馴染んだ用語として定着しているかと思う.
 実践知を説明する場合,オムツ介助を取り上げてみる.オムツ介助とは,オムツを利用者へ着脱する介助行為である.しかし,実際,それはただマニュアル通りに行われるわけではない.介助される人の障害の程度やその日の身体の向き,ベッドの位,筋肉のこわばりや弛緩状態,主観的な感情状態への推測などいわゆる「空気」を「瞬時」に判断し,適切に行っていく.しかし,この瞬間的な行動の連鎖や関係を一つ一つ言語化して記述しようとすれば膨大な量となるし,説明しようとすれば何か違うモノになる.この何気ない行為一つにもその人が把握している「何か」があって介助が成立している.この見えない「何か」が実践知であると考える.
 それは対人援助のコミュニケーションにも言えるわけで,利用者への言語操作,誘導,質問形式,主観的な感情,表出された言語と非言語などなど,いわゆる「空気」を読んだ上でのやりとりの中には,何かの基準があって,自分の役割とかその人の取っての最善の情報をどう提供するかという実践知が働いている.
 また,日常のルーティンワークの中には,様々な言説がとけ込み,そして就業規則とか目に見えない禁則事項を形成している.例えば,知的障害児施設では,ノーマライゼーション,障害の定義,ICFなどなど…また,障害に対する人権の歴史的戦いと獲得された権利,施設に対する閉鎖性などへの批判など.こうした言説が,拘束や虐待を禁じ,傾聴的な態度とか,発達保障のためのプログラム活動,生活支援計画などが組み立てられる.それが,ルーティンワークの細部に宿り,全体として機能させている.
しかし,日常には,反復とあらゆる物を覆い隠す「被覆力」があるといわれている.その意味で,様々な言説は,重層的にかつ複雑にからまって,ルーティンワークがどの理論を採用し,活用されているかを見いだすことが出来ない.その上,ルーティンワークは,厳密に理論を忠実に援用しているわけではなく,常に○○「的」な…といった「雰囲気」である.例えば,上司や先輩が部下や後輩に行うOJTやアドバイスなどはスーパービジョン「的」なもので,スーパービジョンそのものではないとか.バイスティックのいくつかの原理も日常の実践の中でとけ込んでいるモノの,厳密な意味などは吟味されているとは言い難く,援助者のふさわしい対応の中に,包括され,例えば,傾聴しようとする態度の根拠になるなど自然と身体化されている.
 その一方で,先見的なあるいは,望ましい実践だけが施設にあるわけではない.不適切な対応や社会的に「まずい」ルーティンワークが混在している場合がある.それは,施設の都合とか人員配置,あるいはそこで構成している職員の意識レベル,これまでのやり方など歴史的なモノも含め,様々な言説の何を施設で採用し,どう「現実を構成」しているのかが,それぞれの施設の特色を形成していると考える.
 施設職員の意識レベルがルーティンワークの質を担保する.逆に,間違った対応や不適切な業務,日課などには1人1人の意識レベルが影響しているとも言われている.その意味で,養成教育での知識は,福祉のスタンダードを広範に学ぶ機会となっているという意味で,有用であると考える.現在の福祉や対人援助の到達点や倫理,価値などを学ぶと学ばないでは大きな違いがある.また,こうした倫理や価値観は即製されるモノではなく,時間をかけて醸成されていくモノである.4年間では,短いかもしれないけれど,それでも4年間という時間は貴重なモノであるはずである.
 最初に,私自身,学部の頃はほとんど勉強らしい勉強をしなかったと言ったが,やはり4年間,福祉の歴史や法律を体系的に学び,レポートを書く中で,「福祉ってこうだよね」という感覚を身につけていたと思う.だから,異動しても,利用者をどう見て,把握するか.そして,どう対処することが援助者としてふさわしい態度なのかを知らず知らずのうちに身につけていたと考える.しかし,前歴史的な処遇とか不適切な取り組みもまた施設内にはある.なぜ,そうなのか.なぜもっと上手くできないのか.その理由を受け止め,変えて行く(現実構成力の改変)には,上司とか組織自体の意識を変えていかないといけないため,容易ではない.時に分からず屋の上司や無資格で高卒の先輩に頭を下げ,懇願し,分かりやすくそして粘り強く説得するなど,組織的な序列や力関係に巻き込まれながらも進めていくという学校では教えることのできないノウハウを身につけないといけない.
 その意味で,施設はきわめて理不尽である.しかし,大学では少なくても先見的な知識を学ぶ.それを活かすとなれば,そうした理不尽さを見いだし,変えていく義務が大卒者にはあるとも言える.

2.有能な実践家とは何か.
 結論から言えば,有能と思われる実践家は,現実構成力を改変するために具体的に行動できる人だと考える.しばしば,科学的な知識との対比で,福祉は職人気質の人が多く,言語化できないとか,他の人がまねできないと言われる.言い換えれば,福祉実践が,科学的にも説明でき,そして,誰でも再現できることが望ましいという意味で,職員気質はあまり好まれない.
しかし,一方で福祉実践は個別性と柔軟な対応が求められる.そのため,援助者1人1人の自律した思考の中から独自の振る舞いを形成することが専門職では重要である.もし,職人という言葉が適切でないとすれば,ベテラン(熟達者)は「サービスの達人」を志向するべきである.サービスの達人とは何か.私の身の回りにいる,尊敬する実践家を念頭にすれば,それは,小さいことだけれども,他の人と何かが違うと思わせてくれる人達である.
 例えば,知的障害児施設の時は,問題行動ばかりを起こす重度知的障害児が,その職員が関わると,ぴたっとおさまり,笑い声を上げて甘えたりする.その言葉がけ一つ一つが,ゆっくりとしたもので,情動に訴えかけ,安心させるような動作である.また,その時,子どもの感情ややりたいことを瞬時に見抜き,できる範囲でつきあう.そして,知的障害児への学問的な造形も深く,その職員の家に行けば,相当な関連書籍が並び,施設の限界と子どもへの関わり方について考えていた.語り口は常に優しいが,その問いは深く,含蓄の富むことばかりだった.
 デイサービスでも,プログラム活動でも,集団の雰囲気をつかみ,また個別的な状態を瞬時に見抜きながら,ゲームの内容や説明を柔軟に組み替えたりしながら,できるだけ全員が楽しめるような実践をしていた.たかが遊びであるが,いかに楽しく充実させた遊びをするのか.それは実は非常に難しく,実際私は,彼女のようにできない.目配せ,気配り,そして,いかにその時間を過ごしてもらうのか.そうした総合的な「技倆」は,天性のモノだけではなく,長い年月をかけた試行錯誤,時にレクリエーションの研究を通じて発露されているモノと思われる.
 デイサービスではサービス担当者会議で,ケアマネさんと同席するが,その中でも,何人かの「すごい」と思わせてくれる人がいる.その人達に共通するのは,コミュニケーションの引き出しの多さと,それを柔軟に使い分けながら,でも嫌みなく,利用者さんが納得しながら話を進めて行くことができる人である.これも天性ではないかと思える人もいるが,総じて,法律のこととかサービス内容のこととか熟知していながらも分かりやすく説明ができ,そして,家族の思いと利用者のニーズを話し合いの中で落としどころを見いだしている.たぶん,このような人たちは,独自の判断基準がありながらも,それが役割として適っているかを常に模索しているのではないかと思う.会議が終わった後,これが正解かもしれないけれど,まずはお願いしますという態度にそれをうかがうことができる.
 こうしたサービスの達人は,施設の求めるレベルや他の職員の意識レベルとは,一線を画していると思う.しかし,本人達は,飛び抜けているとかそういうことは思ってはいないようである.ただ,目の前の仕事に手を抜かずに,丁寧に自分の行為を見つめて,積み重ねた中で身につけて行っているだけなのかもしれない.しかし,マイペースなのかといえば決してそうではなく,自分の仕事を極めようとする中で,組織への協調性を大切にしている,そして,間違った行動をしている人には,その人が今できることとできないことを見極めた上でアドバイスをしている姿は,非常に繊細ですらある.
 こうした有能な実践家は,多くをあまり語らないけれど,理論と実践をつねに模索している人たちであるといえる.そして発想力豊かで,たくさんの引き出しを持ち,それを柔軟に使い分けているようである.私が思うに,この発想がどこから来るのかである.それは,たぶん,様々な学問や言説を普段から読み解きながら,考え,そして実践の中でどう使えるのかを解釈しながら読み込んでいくことだと思う.それは研究も同じだと思う.一つ一つの論文をただ読むだけでは,何も身に付かない.しかし,何かをまとめようとすると,どのようなものを採用し,採用しないのかという試行錯誤をする.その過程で,自分なりの言葉を持つことができる.もちろん,その分野でのスタンダードは何かを大まかに把握していないといけない.その意味で,大学教育での知識はスタンダードを学ぶことであり,それがあってはじめて,そこから引き出しに何を詰めて,どうするのかという現実を構成する発想力を得ることができると考える.その時,現在の施設の限界と不適切さを見出し,どう変えていくか.それは教育を受けたものができる一つの力でもあるといえる.

3.実習指導と人材育成
 私自身,実習指導者研修が義務づけられる前,知的障害児施設時代に10人くらいの社会福祉士を実習養成してきた.知的障害児施設での24日間の実習は,施設のルーティンワークで,相談らしい相談もないし,介護と言っても特養に比べて難しいわけでもない.そして,子どもと遊ぶことが出来る人にとっては,ごく自然に関わることが出来るためにコミュニケーションに課題を見いだすことが難しい.
 そうした中で,なにを課題として見いださせ,そして,解決させるべきなのか.そして,どのような学びを示すことが出来るのか.実習は対話な部分もあり,実習生がいま,どの位のことを知っているのか.そしてどうしたいのか.指導者は,できるだけ対話のチャンネルを開き,日頃から話しやすい関係を構築することに心を砕いてきた.
 その中で,一番困るのが,「今の実習が楽しくて,とくに課題らしい課題はない」と言われたことである.一応,計画とか達成するべき知識のレベルもあるけれど,それとは別に,毎日の中で,色々と興味を持って,そして自分で調べて欲しいが,その糸口が「日常」のルーティンワークの中では,隠されていて難しい.そして,些細なことを知ったとしても,それが次に役立つのか.既に誰かが調べていて,今更自分が調べなくても良いと思いがちになるようである.目に見えて効果の出る取り組みなど,自分自身にとってすぐに使える知識を欲したとき,いまさら自閉症の分類を調べても役に立たないように見えるかもしれない.本当は,その自閉症の分類からその子どもの症例を当てはめて,それに対処するための「認識の道筋」を見出すことが大事であるがこの作業は非常に時間がかかる.なので,焦っている実習生に,ついつい,この子にはこうすれば良いよと話して納得させてしまう.しかし,本来であれば,「こうすれば良い」と言われたときに,どうしてそうなのかという振り返りが大事な学習でもある.しかし,実習生は実習生で,毎日をこなすことに精一杯なのも確かで,日常のスピードは速く,流されていく.悩みどころである.
 実習準備前の段階で,計画や指導がなされるが,施設側で提供できる実習形態に即したものを目標として掲げて欲しいと思う.施設内実習,それも対人援助が中心になる実習で,施設機能とか社会貢献といったものを持ち出されても,口頭でしか説明できない.もちろん,施設内の実践が総体的には施設機能となっているが,毎日の実習の中で,それをどうまとめていくのかという方法論を具体的に示して欲しいと思う.しかし,それを指導者が手伝えるかとなれば別の話であるが….また,施設内実習であれば,事例研究や対人援助(例えば,場面の再構成)に特化したものになるだろうから,そうした訓練を積んで欲しいと思う.
 最後に,人材育成的な視点で,実践知は様々な言説がとけ込み,現実を構成している.しかし,日常は被覆力の中で見えなくなっている.有能な実践家は,それでも自分の中で丁寧に仕事を振り返り,時に知識を頼りに,思考し,試行錯誤しながらもより良い実践とは何かを具現化している.最初,オムツ介助のことを例に挙げたが,熟達者が行う介助と新人では,利用者にとって全く違った結果をもたらす.熟達者は自然に,苦痛を感じさせず,安心感をもたらす.その差はどこにあるのか.それは,一つの作業に費やす思考に支えられた手さばきである.新人は,実践者の目に見える動作だけまねをしても,同じような結果にはならないし,むしろいつまでたっても,どこかぎこちない介助のままになってしまう.大事なのは,熟達者の自然な振る舞いの中から,目に見えない部分(実践知)を推測し,自分で思考してみることである.そして,時にそうした熟達者から話を聞き,自分の実践を見てもらい,試行錯誤をすることである.そうしたささやかな所から横の連携を通じて,自分の仕事の幅を広げていくこと.これが施設における実践知の形成と発展であるといえる.逆に,キャリア形成として自分1人で資格を取り,学問を積み重ねるだけでは限界があるともいえる.

4.おわりに
 スケールの小さい話になってしまったが,実践はささやかなことで始まり,終わる日常である.少なくても施設や一相談員の仕事とはそうである.ところで,本発表の趣旨が現場の実践知と養成教育の知識,理論の乖離だった.歴史的に見ても,黒人の人権運動がエンパワメント理論を発展させ,お泊まりデイが当初は,制度外から始まっている.常に先見的な現場の取り組みは,何かの理論を援用しながらも,新たな言説を付け加え,理論を磨く.そして,また現場に還流されていく.逆に,施設の不適切な対応を理論が指弾することで,現場の実践が見直される.この生成システムは生き続けている.常に,小さな利用者の願いを援助者が拾い上げて,新たな「何か」を生みだし,世に問うことで福祉はこれまでも発展してきた.これと同じように,日々の実践は問い直しを通じて,少しずつ変わっていく.しかし,すぐには変わらない.地道な問い直しと組織との調整,そして,先見的なところでできて,なぜ,自分の施設では「いまできない」のか.そのできない理由をちゃんと受け止めるところからはじめないといけない.うんざりすることも多いが,いつの間にか変わったとき,それは誰のモノでもなく,知識が現場を変えたのである.いずれにしろ,実践と理論は乖離しない.それをつなげるのは,1人1人の発想であり,発想は知識が基盤にあり,そして,実践の揺らぎの中で鍛えられる.まずは学問を続けることを養成教育側が学生へ伝えることが,理論と実践の架橋となるとも考える.
 だから,学生さんには,あらゆる事をあきらめずに,そしてじっくりと学び続けて欲しいと思う.そして,教員の皆さんの力添えがあって,質の良い福祉人材が生み出されており,現場としても生徒さんを責任持って引き受けていきたいと思っております.そして,実践者のみなさんに,今回,何かしらの考えるものを示せることができたら幸いです.

参考文献
熊谷和史(2010)「社会福祉施設労働者の専門職性についての一考察」『東北の社会福祉研究』6,19-38
熊谷和史(2011)「社会福祉施設の実践知とは何か」『東北の社会福祉研究』6,5-19の中で言及している参考文献の他,
圷洋一(2012)「大学における社会福祉の学びの「魅力」について」『社会福祉』 53,日本女子大学
塩田祥子(2013)「スーパービジョンが福祉現場に根付かない理由についての考察」『花園大学社会福祉学部研究紀要』21, 31-40

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