1999年の記憶〜ほとんど記録がないけど、ちゃんと試合には出ていたと思う…記録があったのは、東日本の個人戦。確か、団体戦は結構勝てるようなくじ運だったけど、ポシャってしまったんだよね。では、個人戦の記録のみ。

9月4日
大会が明日ということで、準備を行う。マットを運んだり、開始線をテープではったり、枠を作ったり、椅子なんかを運んだり。お馴染みの光景である。そして、結構、こういうことは嫌いじゃない。
普段あまり話さない、違う道場の人と言葉を交わしたり…。
文化祭の準備に似ている。明日の行事のためにその一部として参加しているのは、ただ、試合だけに出るのとは違った楽しみになる。
式典に使う演武の練習を見ているのも和んでいい。私服で列の調整や技の打ち合わせ。
Hの家に帰ったあと、軽く走ったりした。榴ヶ岡公園を軽く5キロ程走った。はじめ、体が物凄く重かったが、終わることにはなんとか体に力が入るようになった。バネというべきか。踏み込みや回し蹴りをしたときに、重さを伴った軽やかさが少し出たというべきか。
そして、Hとしみじみ「なんか、イマイチ緊張感が出ないよね」「明日、ホントに試合なんだよね」「1回は勝ちたいね」という、会話もお馴染みの光景であった。

9月5日
剛柔流の館長が亡くなって、1周忌ということで、わりと身内で固めたいつもの大会であった。
私は、今回は重量級にエントリーをしていた。HとSは軽量級であった。いつものことながら、一般の組み手の試合は午後からになった。午前中にエントリーをするのだが、子供の試合の手伝いなんかをしたりして時間はあっという間の過ぎてしまった。
1時からは式典、演武などが行われ、実質3時頃からの開始であった。
広瀬道場でずっと一緒にやっていた人たちも善戦し、級の部で3位、Hは2位、Sは3位であった。HとSの同門対決であった。
私の方は、シードで、大きいわりとガンガンと来る人とあたり、延長までもつれたが、なんとか勝った。次は、本部の有名な兄弟の一人で同じくらいの背なのに90キロはある人であった。威力に負けたが、決定打が出ないまま30秒を切って、狙いすました胴抜きが決まったのだが、審判は相手の掌底も当たったとして、延長に。主審は相手のは当たらないと判断し、私のだけだったのだが、副審が私のを当たらないと判断し、相手のだけ当たったと判断をした。結局、場外警告2回で負けてしまったのだが、わりといい試合をしたと思う。

その他、6月19日20日は日本拳法の合宿と称して先生の家にいて、一日8時間近くの練習を行っている。合宿とかそういうのに全く縁がなかっただけに、すごく新鮮であった。本部とかそういう人たちってこうした缶詰状態が当たり前の人たちなんだろうと考えると、強いのも当たり前だナァと思った。

2000年は全く記録がなかった。たぶん、コンスタントに試合には出ているんだろうけど、結婚もしているので、その辺のことはよく分かりません。

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