善慶寺と新井宿義民六人衆
(2007.12.11)

 
善慶寺は日蓮宗の寺で、山号は法光山。 義民六人衆の寺と呼ばれ、寺内の墓所に新井宿義民六人衆の墓がある。

 1673年(延宝元年)の干ばつと翌年の多摩川の氾らんによる洪水で疲弊した新井宿の農民たちは、領主に年貢の減免を願い出たが認められなかった。 各地で農民一揆が起こった頃で、 過酷な年貢の取り立てに耐えかねた新井宿村の農民は幕府に直訴することにし、 1676年(延宝4年)の正月、村役5人と百姓1人の合わせて6人が江戸へ出ることになった。 しかし目的を果たす前に領主の知るところとなり、全員が捕らえられて処刑された。 密告があったらしい。直訴は失敗したが、この事件によってその年から年貢が半減されたため、村民はこの6人を義民六人衆としてあがめた。

 1679年(延宝7年)、間宮藤八郎という人が、 両親のものという名目で義民6人衆のために墓を建てた。 これが善慶寺にある新井宿義民六人衆の墓で、 もとは池上通りに面した参道入り口にあったが近年になって善慶寺の墓所に移設された。 墓石を移動した際、地下から6人の遺体を入れたと思われる大きなカメが見つかり、現在は善慶寺本堂に安置されている。

 現在も毎年2月11日(ただし10年に1度だけは4月11日)に善慶寺において法要が営まれ、今年(1997年)はその321回目にあたる。 300回目の法要の時には、善慶寺参道入り口のもとの墓の位置に大きな灯ろうが建てられた。 灯ろうには、”新井宿義民六人衆霊地参道”と金文字が入っているので見ればすぐに分かる。

 善慶寺を通り抜けて石段を上がると、熊野神社がある。 造立は元和年間(1615年−1625年)で、日光東照宮造営の際の余材が使用された。 平将門の乱の鎮圧のために関東に下向した藤原恒望の家来の熊野吾郎武道が、戦勝を祈願した場所だとの言い伝えもある。


 ”馬込文士村散策のみち”のコースの中にあるので、機会があれば立ち寄られてみたらいかがでしょうか。
 
参考資料:学生社刊 大田区史跡散歩


所 在 地 東京都大田区山王3-22-16
交   通 JR京浜東北線大森駅下車、徒歩10分 (地図を参照)