神話と定説と一次資料と



 戦争とは関係ないが、1793年1月に行われた元フランス国王ルイ・カペーの「国王裁判」について話をしよう。

 この裁判では前後4回の投票が行われた。第一回は「ルイは有罪か」、第二回は「判決を国民投票にかけるべきか」、第三回が「どのような刑を科すか」、そして第四回が「刑の執行を猶予するか」。重要な第三回投票は16日から17日にかけて、第四回は19日に実施された(第四回についてF・ブリュシュ他の『フランス革命史』は18日だとしている)。

 漫画や小説などでは、この第三回目の投票についてしばしば「僅か一票差で国王の死刑が決まった」という風に描いている。時には1票差であることを理由に、死刑に投票したフィリップ平等公(元オルレアン公)を非難するケースもある。だが、本当に一票差だったのかというと、実は違う。

 死刑にするか否か? 三八七対三三四。僅差である。執行猶予つきの死刑賛成が二六人だから、これを反対に含めると三六一対三六〇で一票の差。結局死刑を猶予すべきか否かの投票がなされ、その結果が否と出たので死刑は確定する。

――「図説フランス革命」芝生瑞和編 

 一般向けの解説本では「1票差」についてこのように説明している。あくまで死刑賛成は387票。1票差というのは執行猶予付きの投票を反対に含めて計算した「机上の数字」だというのだ。だが、これは決して定説ではない。むしろ定説に近いのは次に紹介するものだろう。

 (十六日)夜の八時、いかなる刑を課すべきかの第三の票決にとりかかる。夜どおしかかり、つぎの日もついやして、投票が終わったのは夜の八時。死刑賛成三八七票対追放もしくは留保づきの死刑賛成三三四票。わずか五三票の差、執行猶予をつけた四十六人をひくと、七票の僅少差。議長のヴェルニヨが悲痛な声で、公会の名においてルイ・カペーの死刑を宣告したのは九時。

――「フランス革命史」ジュール・ミシュレ 

 奇妙な話だ。一般向けの「図説フランス革命」では執行猶予付きが26人で、これを反対と見なせば1票差になるという。ところが、ミシュレは執行猶予付きが46人いたというのだ。そして彼はこれを反対と見なさずに単純に除外して計算し、票差は7票だったという結論を導いている。

 計算方法からすれば「図説フランス革命」の方に無理がある。いくら執行猶予付きとはいえ、死刑に賛成した者を「反対に含める」のは無茶だ。ましてこの投票の後で「執行猶予するか否か」について改めて投票しているのだから、この三回目投票ではあくまで死刑か否かを見るべきだろう。

 そうするとミシュレ方式の計算も本来はおかしい。猶予がつこうがつくまいが、死刑は死刑。7票差などという話が出てくる筈はない。ミシュレが最初に書いた「53票の差」という数字こそが正しい数字の筈である。実際、定説として各種の書物で紹介されているのはこの「387対334」という数字だ。中には無条件の死刑だけで387票あったとの説もある。要するに定説は基本的に「1票差」の投票結果などなかったとしているのだ。

 ところがここに、ややこしい資料が存在する。

 1月18日(中略)右派は新たな修正投票に持ち込んだが、死刑賛成361票反対360票という結果に終った。こうして、ルイ十六世の死刑はわずか一票の差で決定されたのである。死刑に賛成したかなりの議員も刑の執行猶予を主張した。

――「フランス革命年代記」J・ゴデショ 

 ゴデショは1月17日の項に「387対334」の数字を紹介した後で、このような衝撃の事実を紹介しているのだ。もしこれが本当なら、国王裁判は文字通り僅か1票差で決まったことになる。本当にこの「修正投票」なるものがあったとすれば、だが。

 だが、「修正投票」があったと主張している本は、実はこのゴデショの本しかない(集計のやり直しが行われたと書いている本はあった)。他の本では1票差の理由を「図説フランス革命」と同じ論法で説明しているか、さもなくばそもそも「1票差」という事実などなかったとしているのである。再度の修正投票の結果が1票差だったと記している者はゴデショ以外に存在しないのだ。

 そもそも、ゴデショの言う「修正投票」は何についての投票なのかが不明である。死刑についての投票ならすでに前日に行っているし、動議の内容に修正が加えられていたというのならどのような修正があったかについて説明がないのがおかしい。加えて、前日と投票総数が全く同じというのはかえって変。第三回の死刑投票(387対334)と第四回の執行猶予投票(380対310)の合計数字に差があることからも分かる通り、日付が変われば病気や急用などで欠席する者がいて出席議員数も変わるのが普通だろう。この本をそのまま信じるのは危険だ。

 だが、ミシュレ式の53票差(387対334)という定説が本当に正しいのかというと、実はこれも怪しいのだ。本来、この手の話は一次資料に当たるべきだし、議会内で行われた裁判なのだからはっきりと文献史料も残っている筈だ。そして、その文献史料を翻訳したものも出ているのだ。以下に紹介しよう。

 第三回指名点呼〔一月一六−一七日〕元フランス王ルイ・カペーはいかなる刑を科せられるか?
(中略)
 国民公会を構成する七四五名のうち、死亡者一名。病気による欠席六名。理由なき欠席者二名、この二名への非難動議は議事録にとどめられた。公務による欠席者一一名。投票を免除されたもの四名。よって投票したのは七二一名となる。
 過半数は三六一名となる。
 減刑の余地を人民に保留しつつ死刑に投票した者一名。
 刑の執行の促進ないし遅延が適当であるか否かの検討を要求しつつ死刑に投票した者二三名。
 ブルボン家一族全員の追放の後まで刑の執行を猶予することを要求しつつ死刑に投票した者八名。
 鉄鎖の刑に投票した者二名。
 平和が回復して減刑の可能性が出てくる時期まで刑の執行を猶予することを要求し、またこの時期以前であっても、いかなる外敵によるのであれ、フランスの領土が侵略された場合には、侵入後二四時間以内に刑を執行する権利を保留しつつ死刑に投票した者二名。
 戦争の終結まで拘留し、平和条約の締結後ただちに国外追放することに投票した者三一九名。
 死刑に投票した者三六六名。
 本職は国民公会を代表して、ルイ・カペーに科せられるのは死刑であることを宣言する。

――「資料フランス革命」河野健二編 

 よく数えて見よう。まず議員数は745人。このうち投票したのは721人であり、過半数は361人となる。このへんの数字はこれまであげた数字と変わらない。

 問題はその後だ。数えて見ると「鉄鎖の刑」が2人、「戦争終了後追放」が319人。この合計321人が死刑以外の刑罰を要求した者たちとなる。また、様々な条件をつけたうえでの死刑投票は34人。無条件で死刑に投票したのが366人となっている。両方合わせた死刑は400人に達している。結果は「400票対321票」だ。

 ではどうしてミシュレは「387対334」という数字に到達したのだろうか。正確にミシュレの文章を読むと「追放もしくは留保づきの死刑賛成」が334人だとしている。だが、追放や鉄鎖の刑に「条件付き死刑賛成」34人を加えれば人数は366対355になる筈だ。どうして「387対334」の数字が出てきたのか、私にはさっぱり分からない。それに前にも言った通り、この第三回投票は死刑に賛成か否かを問うものであって、「留保づき死刑賛成」を反対陣営に加えるのは無理がありすぎる。

 この「資料フランス革命」の該当部分は"Archives parlementaires de 1780 à 1860"を翻訳したものである。元資料であるArchives parlementairesは、19世紀のフランス下院の議事録局長M. J. Mavidalと、同じく下院の司書M. E. Laurentが監修してまとめた議会資料集で、1867年に刊行を開始した。言わばフランス議会の公式記録であり、革命期の基本資料の一つである。

 そうした最も信頼性の置ける資料を活用した「資料フランス革命」を信じるのなら、死刑投票の結果は「400票対321票の79票差」だったと理解するのが最も適当だろう。一般に流布している「1票差」とはえらく違う。決して大差ではないが、それでも過半数を39票も上回って死刑が可決されたのが史実だ。

 なのに、定説はほとんど口を揃えて「387対334」となっている。一体どういうことなのか。以下の3種類の考え方ができる。(1)定説が間違っている(2)資料フランス革命が翻訳時に間違えている(3)実はArchives parlementairesは信頼性に欠ける――。このうち(3)の可能性はほとんどないだろう。(2)も普通に考えればなさそうだ。すると、実は定説が間違っていたということになる。だが、定説が広まるにはそれなりの理由なり根拠なりがある筈だ。結局のところ、どれが真相かは分からない。ご存知の方がいたら是非お教えいただきたい。

 いずれにせよ、「1票差」が史実でなく神話に過ぎないことは間違いない。一般向け解説書に書かれている、机上の1票差を導くのに必要な「26票の執行猶予付き死刑」の存在も怪しい。定説である「387票対334票」か、それとも「400票対321票」か。正しい数字は一つしかない筈だが、それを定めるのはとても難しい。

 ついでに、同じ「資料フランス革命」から第四回投票「執行猶予を認めるか否か」の結果を紹介しておこう。

 第四回指名点呼〔一月一九日〕ルイ・カペーの判決の執行は猶予されるか? 賛成あるいは反対
(中略)

 会議の構成員数 七四九名
 死亡者 一名
 公務による欠席者 一七名
 病気欠席者 二一名
 理由不明の欠席者 八名
 投票を望まなかった者 一二名
   投票者合計 六九〇名
   過半数 三四六名
 執行猶予に賛成 三一〇名
 執行猶予に反対 三八〇名
 猶予を非とする者は三八〇名である。
 この数は過半数を三四名上回っている。
 よって国民公会は、元フランス国王ルイ・カペーにたいするこの一七日の死刑判決の執行がいささかも猶予されないことを宣言する。

――同上 

 こちらは過半数を34票上回っての執行猶予反対決定だ。いずれにせよ、平等公一人の投票でどうにかなったなどという安直なものではない。これは第三回目の投票が定説通りだったとしても同じ。もしかしたら「1票差の神話」というのは平等公に悪意を持つ者が「ためにする」話として作り出したものではないだろうか。そして、どこからか登場した「387対334」の数字とこの神話とが結びついた時に、辻褄を合わせるためにさらにでっち上げられたのが「26票の執行猶予付き死刑」ではないのだろうか。

(なお余談だが、第一回投票と第二回投票についてもやはり複数の説があり、そのいずれも『資料フランス革命』と数字が異なっている。定説と『資料フランス革命』の数字が一致しているのは第四回目の投票だけだ)



ルイ=フィリップ=ジョゼフ・オルレアン公のちフィリップ平等公(1747-1793)


解決篇

 さて、ここからは「解決篇」となる。ようやく上の疑問を解決できる研究書を発見した。遅塚忠躬氏の「フランス革命における国王処刑の意味」(『フランス革命とヨーロッパ近代』所収)及び「王政復古期の国王弑逆者」(『フランス革命とナポレオン』所収)だ。もちろん、研究の主題は国王処刑が持つ歴史的な意味の追求であり、票数の確認は研究の一部に過ぎないが、それでも実に詳細に確認してある。

 では、国王裁判については定説と「資料フランス革命」のどちらが正しいのか。結論から言うとどちらも正しい。実は、「資料フランス革命」に載っている数字は投票終了後に行われた一回目の集計であるのに対し、定説の数字は17日の集計が不完全だったのを理由に翌18日になって修正のうえ発表された数字だったのだ。

 分かってみればかなり脱力ものの真相であるが、まあ世の中というのはこんなものだろう。数字についての詳しい解説は遅塚氏の論文を参照していただきたいが、簡単に修正後の数字を紹介すると以下のようになる。

 無条件の死刑:387人
  うち単純に死刑に投票:361人
  うち討論を要求しつつ死刑に投票:26人
 その他の刑:334人
  うち執行猶予つき死刑に投票:46人
  うち鉄鎖・禁固・追放など:288人
 欠席・棄権:28人


 面白いことに上に紹介した「図説フランス革命」「フランス革命史」「フランス革命年代記」は、いずれもこの件に関する限り誤りを記していることになる。私は執行猶予つきだろうと死刑は死刑だと考えていたが、同時代人はそう考えていなかったようだ。当時の官報モニトゥール紙は、執行猶予つき死刑は「その他の刑」に含めて集計し、発表した。国民公会の認識自体が執行猶予つき死刑を「その他の刑」と見なしたのなら、それに従って集計するのがもっとも望ましいのだろう。

 また、上の数字を見れば1票差伝説の生まれた理由も分かる。「死刑」に投票しつつ、「死刑が多数を占めた場合は死刑執行延期の可否を国民公会が改めて討議することを求める」とした者が26人いた。彼らを「その他の刑」に含めて計算すれば、確かに1票差になるのだ。とはいえ、この26人の基本的な態度はあくまで「死刑」であり、彼らは別に死刑の猶予を求めたわけではない。それに1票差説は同時代人が行った区分を無視するものでもあるため、遅塚氏は「俗説」と切って捨てている。

 しかし、日本では「革命史の開拓者」である箕作元八氏などがこの話を概説書などの中で紹介したために1票差伝説がかなり広まったようだ。この「討論を要求」した者たちは「心の奥底では、国王の命が助かることを望んでいた」と見なして1票差説を唱えた歴史家もいる。だが、遅塚氏は以下のように述べてその姿勢を批判している。

「要するに、投票(言説)を解釈する場合に、投票者の『心の奥底』だの所属党派だのを持ち込むことは、いたずらに混乱を招くだけであり、われわれは、投票=言説というテクスト=事実のみを解釈すべき」

――「王政復古期の国王弑逆者」 


 実に正しい指摘であろう。



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